サラリーマン最後の日③
「も~しも~~し」
「んがっ……」
「生きてる~~~~? んぐ……ぷはぁ」
ぱし、ぱし、と何かを叩いてる音が聞こえる。
気が付いて暫く、頭上に浮かんでいる乱反射した幾つもの光に見惚れていたが、やがて頭が揺れている事に気が付いた。何の音だろう、と呆けた質問の答えはとても単純で、単に自分の顔が叩かれていただけだった。
「翔悟ちゃーん?」
突如、目の前には美女の顔のアップ。
「うわっ! だだだだ、がっ!」
「うお」
驚いて俺は反射的に後ろに下がり、頭を打った。
「いぃっ――てぇぇぇぇ……」
「大丈夫~~?」
びっ……くりしたぁ……。
「その声……五鬼熊なのか?」
「そうで~~す。そして君は翔悟ちゃ~ん」
声や緩い口調は変わらず。
でも職場で見かけた姿とも、一緒に酒を交わした姿とも異なる格好。
だぼっとした緩いシャツ。いつも下ろしていた前髪はタオル地のヘアバンドをつけて額を出すようにしていて印象がガラッと変わっている。風呂上がりなのだろう。体からほかほかと湯気が立ち、血色のいい肌は色っぽくて、目の毒だ。
目が覚めていきなりそんな格好で近づかれるのは、正直心臓に悪い。
俺は後ろにあった見知らぬ本棚を睨みつけ、後頭部をさすりながら声を絞り出す。
「……五鬼熊」
「ん~? 何かなあ?」
「二度と俺の目の前に顔を出すな……」
「そりゃまた何で」
「…………酒臭いだろ」
「えっへっへ~~~~、ごめ~~ん。……んぐっ」
謝ってはいるが五鬼熊はまったく悪びれる様子もなく、美味そうに缶チューハイを呷って喉を鳴らしている。
コイツ……あんだけ飲んだくせにまだ飲むのか……。
断言する。
五鬼熊は紛う事なき酒豪だ。
俺も男だ、負けるわけにはいかない、とまずはビールを一杯二杯、それから飲みなれたハイボールを頼み、甘い梅酒をと普段の流れで飲んでいたのを五鬼熊と同じペースで飲み続け、散々飲んで摘まんでご馳走様でしたと店を出たくせに「まだまだ飲み足りないかなあ」と上機嫌な五鬼熊に「おうよとことん付き合うぞ」なんて俺も調子に乗って二軒目、三軒目と梯子した結果、早々に俺の方が先に参ってしまった。それでも五鬼熊はまだまだ止まらず、他の客数人とも飲み勝負をして勝ってしまい、途中で息を吹き返した俺がやけくそで四軒目に付き合ってゆったり水割りを飲みながら延々何かを話して――
「はい、水だよ~~」
「あ、ああ……」
ながら返事で受け取りながら俺は俯いて必死に大脳皮質を探っていく。
ぐっ……駄目だ、思い出せない。
つーかここ、どこよ。
「ここって……?」
「あてぃしん家~~」
線の歪んだ犬のキャラクターが描かれたマグカップを口につけながら俺は周りをきょろきょろと眺める。
何となく心が落ち着く雰囲気の部屋。白とパステルカラーでまとめられた内装に、自然っぽい家具。センスが良くて大人っぽい印象があるように見えて、所々に女子が好きそうなキャラクターの時計が置かれていたり、もこもこしていたり。
なるほど。確かに言われてみればTHE大人の女の部屋って感じだ。
途中であまり見てるのも失礼だなと気付いて視線を下に落とす。
……ていうか俺、ずっと女子のベッドに座ってる気がするんだが、大丈夫だろうか?
おどおどしつつ腰を上げると「座ってな~~」と五鬼熊は顔の付いた巨大なクッションを床に置いて緩く腰かけた。
リモコンを操作して、テレビで猫の動画を再生し始めるのを横目に「そっか……」と俺は諦めてどっしり腰を下ろした。
…………というか俺、変な事言ってないよな……?
考えれば考える程、脳の記憶領域から何も出てこないことに不安になる。
なんせ相手は同僚で、女だ。
しかも顔もいい。
酩酊状態の俺が色呆けて口説いたり……まだそれくらいならギリギリセーフなんだが――いや実はそんなことありましたなんて言われたら恥ずかしすぎて死ぬが――例えば×××はこうあるべきとか、××××の拘りが夜のQOLをどうとか、コンプラ的に完全アウトなド直球セクハラを口走ってたら会社にいられなくなるどころか最悪社会に抹殺される。
怖いが、聞くしかないだろう。
「なあ……………………俺、何か言ってた……?」
「何かって~~?」
「あー、なんていうか……変な事とか、ヤバい事とか」
「え~~何それ~~。そうだなあ、ん~~……」
口元に指をあてて天井を眺めている五鬼熊。
「大丈夫。何も言ってなかったかなあ」
「そ、そうか……」
「翔悟ちゃん、もしかして何も覚えてない感じ?」
「何もっていうか……三軒……あいや、四軒目の途中くらいまでは覚えてるんだが…………多分」
「あ~~~~……そっかそっかー。だいぶ飲んでたもんね~~」
ほっと俺は胸をなでおろした。
背中から出た冷汗の分だけ水分を取り込みなおしながら、水をくれた五鬼熊の優しさにありがたみを感じていると、
「そうすると……あてぃしはちょっぴりがっかりかなあ……」
「……?」
「翔悟ちゃんは、さっきまで二人でそこでシたことも覚えてないんだねえ……」
吹いた。
口の中の水が全部飛んで霧散した。
むせた。
ゲホゲホと乾ききった喉から咳が出る。
「やみつきキャベツつつきながら、あてぃしの目は純米よりも澄んだ綺麗な瞳で、声は大吟醸のように甘くてフルーティで素敵だ~~って口説いてくれた事も」
……なっ……。
「カンカン転がってるきったない狭い路地裏に押し込んでさ。体で逃げ道塞いで無理やり初ちゅー奪ってきたのも」
な、な……。
「ここまで案内させて、ドア開けたらそのベッドまで引っ張って押し倒して。そのままあてぃしを裸にひん剥いて強引に……」
「ま、え、あ…………………………………………マジっすか?」
「マジマジ。翔悟ちゃんって顔に似合わず結構乱暴なんだねえ~~♡」
何してんだオノレはあああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
完全にやらかしとるやないかァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
……しかも、俺だって、初めてだったのに。
まったく、一ミリも、覚えてないとか……。
せめて……この手に、あの二つの膨らみを掴んだ感触くらい残してくれててもいいじゃないか……どうして……。
いや、それよりも。記憶を失うほど酔っぱらったのは確かに初めてだったが……俺が、酒に溺れて女性に失礼を働く最低男だったなんて…………。
最悪だ…………………………………………●のう……。
俺は力なく項垂れ、やがて目を開く。
まだ駄目だ、と。
せめて、ここは男らしく腹をくくろう。
何も覚えてないけど、それはこの際関係ない。これからはこの人を大切にして、全てこの人のために生きよう。酒ももうやめよう、うん。
そう俺が決心したというのに、
「まあ冗談はおいといて」
「」
「瓶で飲ませたらいきなり倒れて目ぇ覚めなくなった時は心配したけど、元気そうでよかったかなあ」
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………は?
「冗談?」
「うん」
「本当に?」
「んぐっ。本当だよ~~信じてよ~~~~~~……けぷっ」
俺は顔を手で覆って、深く息を吐き出した。
色々と目の前の女に言いたいことはあるが。
ひとまず……何もなくてよかった……………………。
いつも評価してくださってる方、本当にありがとうございます。