サラリーマン最後の日②
……どれぐらい経ったんだろう。
あれ? 入社したのって、いつだっけ……。
次々と回される仕事。
目の前のタスクを処理するだけの毎日。
後の事なんて考えてる余裕はない。とにかく優先度の高いやつから片っ端に潰して次に回すことだけに集中して、終電に放心しながら電車に揺られている。
今日って、いつだっけ?
そう思いながら日々を過ごしていて。
気が付くと俺は通路からぼうっと道路を眺めていた。
ビルとビルを繋いでいる四、五階程度の高さの渡り廊下で、いつも通勤で使っている通り道。吹き抜ける夜風に空っぽの体が冷やされて、まるで夜と同化してしまいそうだ。
なんで俺はここにいるんだっけか。
「ああ――電車がなかったんだ」
終電の時刻を覚えていた俺はいつも通りその時間に合わせて独りぼっちのオフィスを施錠して、いつも通り駅に向かった。だがいつも通りの時間に電車はない。
今日は祝日だった。
「……バカか俺は」
平日ダイヤと休日ダイヤを勘違いしていた俺はこうして歩いた道を戻って途方に暮れていたというわけだ。
「三十六にもなって、学生みたいなミスを……」
そう呟いていると、頭の奥から色んな声が聞こえてくる。
顧客の怒声、上司からの詰問、先輩の非難、同僚の苦情――そりゃ怒られるわけだ。こんなしょうもない失敗をするような人間なんだから。
仕事はしんどい。
体も正直、節々が痛くて座っているだけで辛い。
なのに会社でも、家に帰ってからもやらないといけない事だらけ。
ただ生きてるだけで棘だらけの束縛に雁字搦めにされてる気がして、なんだか色々と重くて、もう息苦しいんだ。
楽になりたい。
全部ひっくるめて一瞬で解決する方法を、俺は知っている。
「●ねばいいんだ」
……このまま落ちれば、全ての苦しみがなくなるだろうか。
俺は手すりに手をかけて階下を見下ろした。
答えは『なくならない』、あと『余計に苦しむだけ』。
ここは大した高さがある訳じゃない。飛び降りても足を骨折するか、当たり所が悪くて治療やリハビリにかかる時間が伸びるだけだ。こういう言い方はよくないと思うが――運良く頭や首を骨折すれば、命にかかわるだろう。だが不運にも生き残った場合、記憶障害、失語症、下半身不随や首から下の麻痺という後遺症が残ってしまう。つまり、自殺には適さないんだ。
それでも――
「大怪我でもすれば、仕事から解放されるかもな……」
そう思っていると、段々と体が地面に吸い込まれていく気がした。
手すりを掴んでいた手に力がこもり、体を押し上げ、いつの間にか身を乗り出していた。上半身が夜空に投げ出される。後は足を上げれば自然と俺は自由落下していくだろう。
まるで鉄棒みたいだな、と不意に思い出した。今の状況が、鉄棒の前回りにどことなく似ていたからなのかもしれない。小学生の時にうまく回れずに地面に落ちて大泣きしたのをよく覚えている。
きっと俺には落ちる才能があったんだろう。ならまた落ちれるさ。
なんだそりゃ。何の慰めにもならない言葉が頭の中をよぎり、溜息をつきながら俺は夜空に飛び込んだ。
簡単だ。
何の抵抗もなく、するりと体は落ちた。
重力の絞首刑。見えない腕が俺の首に縄をかけて、地球に向かって全力で引き上げているように思えた。
世界がスローモーションになっていく。
上からアスファルトがゆっくりと降ってきて、ぷつん――と音が聞こえた気がした。
「何が……?」
世界が停止した。
そう俺の眼には映った。
俺一人を除いて?
そんな訳あるか。
妄想を否定するように、コンクリートの雲にぽっかり空いている黒穴から、天井を走る乗り物が後ろに向けて走り抜けていった。地下駐車場を使っているという事はここのビルの社員なんだろう、こんな時間までお疲れ様です。
世界は当たり前のように動いている。
つまり止まっているのは、俺だけなのだ。
「引っ張りますよ~~」
「……は、ははは」
……何のことはない。
たまたま通行人が俺の体を掴んでくれただけだった。
「いや、俺は……」
「よっ……と」
狼狽する俺をよそに、その女性はズルズルと俺の足を引っ張り上げていく。いや、成人男性を一人で引き上げるとか、力強いな……。前世ゴリラか?
「いっ――っ~~~~~~~~!!」
少し乱暴に、再び渡り廊下に戻された俺は固いタイルに背中を打って思わず顔をしかめた。地面に這いつくばって腰をさすってる様は何とも間抜けだろうが、飛び降りた代償としては軽すぎるくらいに違いない。
「あ、すいませ~ん。大丈夫っすか~?」
のんびりとした女性の声に俺は顔を起こすと、想定外の人物に目を丸くする。
「は……? ……五鬼熊、さん?」
「あ~~~~! やっぱり翔悟ちゃんだ」
そういって見下ろす彼女は、にんまりと目を細めながら垂れ下がった髪を手で押さえていた。
同期で、ほぼ毎日もう何か月も顔を合わせていて、しかもIT業界では今だ希少な女性で、その上美人だ。見間違えるはずがない。
「っていうかアンタ、『翔悟ちゃん』って……いったい幾つ年が離れてると……」
「ん~~? なんすか~~?」
「それに、こんなタイミングで……なんだこれ、夢か……?」
死地で見える幻覚? 走馬灯?
俺はまだ落ちてる最中なのか?
「びしっ」
「あ痛っ! ……何すんだよ!」
脳天直撃。唐突なチョップが綺麗に頭に入れられた。
「痛いってことは~~……夢じゃないってことかなあ?」
「……まあ、そうなるか……」
ぐわんぐわんして真面目にまだ痛いんだが……美人に免じて許すことにした。
何歳も年下の異性に舐められているのは少し悔しいし、小恥ずかしいが。美女というものは常に男に対して『特効』を発揮する、故に男は美女に弱い。仕方ない。
「てか酒臭……アンタ、飲んでんのかよ」
「その通り! いえ~~~~~~~~い!!!!」
超ハイテンションで缶ビールを掲げる五鬼熊。まるで酔って浮かれる大学生か社会人一年目のようだ。若いなぁ……。
ていうかまだ月曜日だぞ……。正確には既に零時を回っているので火曜日だが。
「五鬼熊さん、確か明日は休みじゃないよね。なのにこんな時間まで飲み歩いてて大丈夫なの……?」
「逆に翔悟ちゃんこそ、こんな所で飲まずに何してるのかなあ?」
「え……いや、俺は……」
「あてぃしがいなかったら地面とちゅーしてたんだよ~~。ふふっ……地面とちゅー……あはははははははは!」
言葉に詰まった……。言えない。言えるわけがない、同僚に「自殺しようとしてました」なんて。というかそんな重い事を言われたら逆に困る。
「俺は――うっかり終電逃しちまってね……。若い頃みたいにそこに座って夜風に当たろうかなとか思ってたら、うっかりね」
「意外とうっかりさんなんだねえ~~」
「……意外?」
「でもそういう時は~~……こんなところでブラブラしてちゃ駄目!」
「お、おいっ……」
五鬼熊は缶ビールを持ってる方とは逆の腕で俺を立たせて強引に肩を抱き寄せた。アルコールで火照った横顔が目の前に現れて、ついでに五鬼熊の方が背が低いせいで胸元に俺が引き寄せられる形になる。
まずい、と思わず顔を逸らす。……ボタンを外したブラウスの隙間から、火照った桃色の肌と胸のふくらみが見えた気がした。コイツ、ノーブラか……!? いやいや……確かにそんなに胸は大きくないとは思っていたが、でも社会人がノーブラとか、そんなバカな……。
一方五鬼熊は動揺してる俺なんかお構いなしにビールをあおって、ぷはあ、と息をつき、高らかに宣言した。
「さあ飲みに行くよ~~~~~~~~!!」
「今から!?」
「そ~~~~お! 今から~~~~!!」
「おいおい……あと八時間もしたら始業なんだぞ……」
「だからこそ~~~~!!!!」
彼女の右手にあった缶ビールがグシャっと鳴った。
「だって! 飲まずに仕事なんて、できる!! 訳!!! ない!!!!」
叫びながらの全力投球。ひしゃげたアルミ缶は不規則な形にもかかわらず真っすぐ自販機横のリサイクルボックスの丸い穴に飛び込む。ボックスは既に満タンに詰め込まれて実質空き缶が蓋になっていたように見えたが、それもバコンと押し込んで突き刺さった。うお……マジかよ。
「――そう思わないかなあ?」
五鬼熊はそう言いながら気持ちよさそうなしたり顔を見せつける。
飲まずに仕事なんてできる訳ない、か。
仕事ができるやつでもそんなこと言うんだな……。
……しょうがないか。
さすがにここまで誘われて断るのは気がひけるし、一応命の恩人だ。それに、このまま酔っぱらった女性を深夜に一人にするのも気が進まない。
「ったく、分かったよ」
おっ、と口を開ける五鬼熊に見られながらネクタイをシャツの襟から抜いてポケットに仕舞う。
「同期のよしみで付き合ってやるよ」
「そうこなくっちゃ!」
俺は五鬼熊と一緒に暗いオフィスビルから眩い歓楽街へと歩き出した。やれやれ明日も仕事なのになとぼやきつつもずっと忙しくて酒は久々で、心のどこかでワクワクしている自分がいる。肩を組む五鬼熊と一緒になって拳を突き上げ、俺たち二人は蛾の一対の翅のようになってフラフラと看板の明かりに誘われていく。
翔悟ちゃん幸せになって欲しいな~ って思ったら、