甘くない夜
アナログ時計の時針が真右を指していた。
「ふーっ……」
呼吸と意識を整えるための深めの呼吸。
緑のおかげで、排ガス交じりの都会の空気とは思えない。草木で軽く洗って夜の帳でじっくり冷やした酸素が肺に取り込まれていくのを感じる。
「ふふ……緊張してるのかなあ?」
薄暗い公園。
空から降り注ぐ光はごく僅かで、園内に等間隔に生えている青白い街灯がなければ相手の顔もよく見えないだろう。その代わり駅近くとは思えない程に静かで、耳触りのいいイチョウの青い葉以外には何も聞こえない。
昼間なら、散歩やランニングをしている近隣住民で賑わっているのをビルの窓からよく見かけていたが、今は俺達二人だけの空間になっている。集中するのにも、密会にも、これほど良い環境はないだろう。
「いつでもどうぞ」
レディーススーツに身を包んだ五鬼熊は、にんまりと暖かい笑顔でそう言った。
別に彼女の言葉を待っていた訳じゃないが、俺はゆっくりと自分のペースで歩き始めた。四歩という五鬼熊と俺の距離は変えずに、彼女を中心に右回りに、背中を狙うために足を動かす。いや、もしかするとこんな状況でもいつもと変わらないあの視線から逃れるためにしているのかもしれない。
足運びは慎重に右へ、体はひたすら彼女へ向けたままだ。決して自分の脇は見せない。
もし0.1秒でも隙を見せてしまえば「どこを見てるのかなあ? あてぃしはこっちだぞっと」と俺が驚くよりも速く距離を詰め、左脇腹に拳を入れてくるだろう。
慌てて咄嗟に防御しても、バランスを崩してもたついた足を地面につかせる時間を与えてくれる程、彼女は甘くはない。いや、なかった。一秒後には崩壊したジ〇ンガよりも惨めに伏している俺の完成だ。
その後、仕事中にチャットで俺の無様な写真を「ヤムチャ(笑)」と煽り付きで送りつけてきやがった。彼女はそういうやつなんだ。そう体に覚えさせられた。
あれは痛かった……。
思い出すだけで――いや待て、止めておこう。
現実になるかもしれない妄想から逃避し始めていた脳をリセット。目の前の問題にまず対応しなければ、と切り替える。
少なくとも、対等の条件で殴り合って敵う相手じゃないってことだ。この温厚そうなオフィスレディは。見た目が普通の女の子でも、戦闘民族か暗殺拳の使い手だと思わなければいけない。いや最近なら人食い鬼や特級呪霊というべきか? いや現実にそんな化け物と対峙したら一般人はどうあがいても無駄だろうが……。せめて五鬼熊を相手にするなら、身を守るための武器がなければ話にならない。
例えば、槍だ。
俺は折りたたんでいた得物を伸ばし、両手で構えて彼女に向けた。事前に用意しておいた対五鬼熊用の武器である。
もちろん模造槍だ。さすがに本物の刃は付いてない。それでも手のひらより関節一個分短いスチール製の穂先は長く鋭く、暗い中で静かに輝いている姿はまるで天下三名槍を握っているようで心強い。
槍はいい。
まずリーチがある。
「いやいや……君が素手なのに俺だけ武器を持つなんてありえないだろう」と紳士にこちらも拳を構えて素手の間合いに飛び込むと同時、こちらが触れるよりも先にいつの間にか自分が空中に漂っている。そんな日もあった。
その時俺は「は?」と上下逆さまになって地面が降ってくる風景に現実を受け入れる事ができないまま飛んでいき、気が付いたら五鬼熊の膝の上にいた。
故に俺は思う。
距離はいいぞ、と。
まず距離は安全を確保できる。その優位を失った時は速度の勝負になる。だから半人前の俺にとって長物は必須なんだ。
「先手必勝!」なんて口が裂けても言えないが……後手に回って勝てる相手じゃない。脇を取らせまいと五鬼熊が足を浮かべていたタイミングで、俺は動いた。
今までと違い、素早く横へ半歩ステップを踏み、彼女の左後ろに僅かに回り込む。
「フッ……!」
槍が狙うのは上半身。振り返ろうとしている五鬼熊の二の腕から肩にかけて。上手く強打できれば彼女の左腕は自由が利かなくなるだろう。
突く。
左半身が砲身、右半身は撃鉄のイメージだ。
引いている穂先を腰の高さから狙いつけ、右上腕で溜め込んでいた力を開放、全力で押し出す。必殺の弾丸と信じた愛槍は左手をマズルにして滑走、放たれる。
相手は体勢が整ってない。
絶好のチャンス――だった。
「おっと」
そう言いながら五鬼熊は、ろくにこっちも見ずに体を僅かに前傾させた。
それだけで、
「なっ――……!」
俺の攻撃は至極簡単に躱された。
隙をつける瞬間にあえて攻撃せず、僅かだがポジションを変えて相手の足運びの目算を誤らせた。先に仕掛けたことで攻撃は悟られただろうが、五鬼熊は防御態勢が取りづらかったはずでこちらの攻撃も殆ど見えていなかった。
なのに、躱された。
正確に、最小限の動きで。
「く……!」
考えるより早く俺は続けて二発打ち込む。
強者の余裕で譲られていた先手の利は失っていて、黙って待っていれば彼女の手番になるだけ。なら躱しているというほんの些細な隙に付け入るしかない。
「翔悟ちゃんってさ」
五鬼熊は踊りながら話す。
再度挑んだ下半身への攻撃は、軽やかに片足を上げて腰をひねる事で俺の二打目を避け、三打目で穂先を一蹴。振り抜いた黒いパンプスは新品同様。爪先のラインに浮かんだ光の帯が夜空に映える。俺の必死の攻撃を軽々と。畜生。
蹴り上げた勢いのまま五鬼熊が体をこちらに向けたと思うと、一瞬だった。
「駅ナカの『パティスリー甘々っくす』さんのロールケーキ食べたことあるっけ?」
「はあああああ!?」
「赤い看板のトコだよ~。通勤の時に朝めちゃくちゃ人が並んでるお店なんだけど。知らないかなあ?」
別に、覚えがなくて聞き返した訳じゃない! 俺の歩幅で三歩分。それが俺達の間の距離だったのに、瞬く間に消し飛ばされて驚いただけだ。
確かに俺は踏み込んで距離を詰めてはいた。が、いつの間にか五鬼熊は鼻先数センチにまで迫っていた。
何のモーションもなく。
音もなく。
仲のいい同僚みたいに楽し気に話しかけてきている人の形をしたものが、そうとは思えなくて、それで反射的に声が出てしまっただけだ。
だが、まだ槍で助かった。
ここは外で、ひらけていて長物が不利にならない。
長さが逆に邪魔で振り回しにくいと思った事もあるが、長い柄そのものを活かせば武器になる。今も、俺は跳ね上げられた穂先を引いて柄で攻撃を防いでいる。
結局寸止めされたが、喉元に迫っていた鋭利な指先に心臓が止まるかと思った。手入れされた艶やかな爪に見惚れる暇もなく、俺は槍を掴まれる前に後ろに飛び退く。
先ほど蹴られた穂先がまだ無事な事をちらっと確認。
よし、まだいける……!
「もう一回だ……! もう一回、立て直してから……」
肩でしていた息を整えながら、気付けば汗だらだらになっていた顔をジャージの袖で拭う。
夜風が冷たく肌を撫でて気持ちがいい。
そう思っている内に五鬼熊は、消えた。
「――……は?」
あまり現実に、こう表現することはないとは思うが、『忽然と』。
忽然と、消えた。
だが『消えた』というのはおかしい。
俺は五鬼熊とは何度もこうした手合わせをしてきている。それでもこんな一瞬で消えていなくなってしまった事は一度もない。いやたった今さっき一瞬で距離を詰められておいて何言ってんだって話だが、それでも。 いくら彼女が訓練の中で人間離れした動きをしているとは言っても。
同期の五鬼熊が、いくら人間じゃないとはいえ――だ。
だから俺は、背中越しに槍を放つ。
「なーいすっ!」
一度穂先に目をやった時か、汗をぬぐったタイミングか、単に気が緩んだ瞬間か。いつかは分からないが、五鬼熊は俺の僅かな隙に跳躍し、風と共に空中に移動したのだろう。
首だけで後ろを見ると、彼女は槍の石突――刃とは反対側の先端に付けられた尖った部分を、右手の指で挟んで受け止めていた。……マジかよ。
「よく後ろだって分かったね~。この一ヶ月は無駄じゃなかったのかなあ……」
「はあ……はあ………、…………………そう、なのか?」
「そうだよ~。もっと自分に自信をもって」
本気なのか冗談なのか分からないが、平然と一人でうんうんと納得している五鬼熊。
一方で俺は短時間で何度も心臓が止まりかけて死にそうだ。
「でもまだまだ。やっぱり『甘々ロールケーキ』よりもず~っと甘いかなあ」
止めれたのはおそらく俺の脇腹を狙った手刀だ。
五鬼熊は攻撃の途中で手の向きを変えて受け止めたんだと思うが、
「あがっ……」
首に衝撃が走る。視界の外から攻撃されたんだろう。体が重い。指先から全身へだんだんと力が失われていくのを感じた。
……しまった……左手か――
俺はリーチの差で勝とうと槍を選んだ。
だが五鬼熊の速度の前にそもそもリーチなど優位ですらなかった。
それに速度についていけたとしても、俺の実力で二本の手刀を器用に捌ききれるだろうか? 俺は、初手で決めれなかった時点で負けていたんだ。
朦朧とする意識の中で後悔していく。
そもそも人外と槍で戦おうだなんて、無謀だと。
「今日もあてぃしの勝ち~。……もうすぐエックスデーかあ。翔悟ちゃん大丈夫かなあ?」
いつも評価してくださってる方、本当にありがとうございます。