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荒神の森  作者: 秋風坊
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第三話 森にて ②

 俺たちがシロと呼んでいるその建築は、文明時代は堰堤ダムと呼ばれていたらしい。長老の中でも国の歴史に詳しく、またかつて家族が買収された関係で“国民”だったこともあるシズさんが、教えてくれたのだ。

 

 この時期のシロは落葉前の渓谷に挟まれて、モノ喋らない巨人のように、ただ日の光を浴びて立っている。大昔に積み上げられた壁の表面は荒れて点々と緑が萌え、蔦がぐねぐねとした模様を描き出している様は、まるで大地に突き刺さった灰色の帆布キャンバスのようでもある。

 まだ中央の二つの大穴が扉で塞がれていた頃、人間はその開閉を自由に操作することで川を堰き止めたり、反対に放流したりしていた。それは人々の住む里が洪水に飲み込まれるのを防いでいた他に、田畑に水を引いたり、水車を回して邪術のための原動力にするためにも用いられた。

 今では、二つの穴を塞いでいた扉はどちらも壊れてしまい、一方はどこかに流れ、もう一方は長老たちによって文字を彫られて、邪術を戒めるための石碑としてシロの足元に立っている。シロは、今やアラ川の流れを“一旦緩やかにする”以外になんの能も有りはしない。

 

 あの化け物は、その大昔の遺物の頂上に立っていた。まるで堰堤を――文明を――、踏みつけにでもするようにだ。

 巨大な……熊? 確かに熊だ。だが月輪熊じゃない。

 彼の頭上で嘴細鴉カラストビがぐるぐると空を回っている。まるで化け物が冠を戴いているかのように。

 彼は南から来る陽光に茶色い毛並みを輝かせ、ぐぉぅ、ぐぉぅ、と低い咆哮を上げた。凄まじい大音声だ。今まで聞いてきた月輪熊の鳴き声が、女子供の悲鳴のように思えた。


 大丈夫、大丈夫。こっちは風下だ。俺の匂いは届かない――。


 俺は、必死に自分に言い聞かせた。シロからいくらも離れていない鬱蒼とした茂みの中で、懸命に身を隠しながら、それでも目線だけは、木々の枝の隙間から見える化け物から離すことが出来なかった。“目を離さない”、それは里で最初に教わることだ。

 

 途端、またあの世界が静寂に包まれるような感覚がやってきた。時が停止している。自分が何か、小さな小さな世界の中心に吸い込まれていくような、不思議な感覚。吸い込まれていく俺を、あの化け物が見つめていた。堰堤の上から、かなり距離のある茂みに隠れた俺を、確かにその両目で捉えていた。


 見つかった――!


 背中に担いだ銃の照準器が光を反射し、俺の居場所を知らせたのだろう。



× × ×



 ぐぉぅ、ぐぉぅ!

 堰堤の上から、毛並みを金色に輝かせた熊は盛んに吠える。


 さんざん獲物を射止めてきた。十五歳を過ぎる頃には既に里一番の弓の名手と言われ、月輪熊以外にも、冬なら豪雪に隠れ潜む日本野兎ウサギの眉間、夏の夜なら飛んでいる山蝙蝠コウモリを仕留めることだって出来た。

 でも、オオ長老オサはいつまで経っても、俺を連隊の頭にはしてくれなかった。


『自分に足りないモノは、自分で探すしかない。他人に言われて何かを体得できるほど、ヒトとは上等な生き物ではない』


 大長老は俺にそう言った。

 俺に足りないモノってなんだ?もう誰よりも弓は上手いじゃないか。

 移動法だって完璧になりつつあるぞ。一山を超える速度はシシより速いし、鎌を使えば日本猿サルより自由に木を渡れる。

 そうやって己の技能を磨き、獣の能と競い、森を恐れず、月輪熊を恐れず、ただ冷静に獲物を仕留めるのが――荒ヶ森の狩人なんじゃないのか?


 俺は今、ようやくわかった。

 足りないモノ。

 それは恐れだ。山への恐れとかそんな漠然としたものじゃない。

 敵に見つかり、喰われる、今俺はアイツの獲物になっているという、悲しいまでに具体的で本能的な恐怖だ。それを理解し、殺し殺されの血生臭い絆の中に身を置いてこそ、人は真に山と調和でき、そして調和して初めて本当の狩人になれる。

 

 俺は茂みから出て、手頃な木を探した。


 ああ、あのカツラがいい。


 株立ちした桂が、おあつらえ向きに聳え立っていた。

 俺は山刀ナガサを使って枝の上に登り、銃を構えた。化け物は完全に俺を睨みつけていた。そうだ、俺はここに居る。


 今まさに、俺は殺される。だから、殺される前に殺す――。

 

 それこそが究極の真理だ。それこそが荒ヶ森の狩人だ。


 試し撃ちは何度かした。誰にも銃声を聞かれない森の中で。精度は弓の七、八割といったところだろう――。

 

 奴のどでかい頭に鉛弾が吸い込まれていく軌道を頭で描きながら、俺は引き金を引いた。

 飛び出した銃弾が、真っすぐの純真無垢な殺意になって、俺と彼とを結ぶ血濡れの赤い糸になる。赤い糸はそのまま彼の皮膚を通り抜け、肉を穿ち、熱と痛みを刻みつけながら再び外に飛び出していく。

 貫いた! ……しかし、頭を外した!

 俺の放った銃弾は彼の左肩付近に当たり、確かに少量の飛沫が上がったのを見たが、それでもあの化け物は何がどうなったいう風もなく、じっとそのまま俺を見つめている。

 

 なんてこった。奴は比喩じゃなく、本当に化け物だったのか!? 撃たれても倒れないなんてことがあっていいのか!?


 ぐぉぅ、ぐぉぅ!!


 再びの咆哮が森に響く。俺は身構えた。何をしてくるかわからない。緩やかに傾斜した堰堤の表面を滑雪スキーのように滑り、飛び越え、一目散に俺の元へ突進してくる……そう思ったのだが、奴はぐるりと向こう側に向き直ると、そのまま堰堤の反対側の、川幅が広くなっている方へ、飛び降りてしまった。

 まだ、ぐぉぅという声が向こうから聞こえてくる。

 それきり、彼は姿を見せなかった。


「……終わったのか?」


 俺はしばらく桂の木の上に立ち尽くした。



× × ×



「……で、お前はその化け物を鉄砲で撃ったと」


「はい」


「当然、里の掟を忘れたわけじゃあるまい?」


「……はい」


 里に帰った俺は、長老たちの集まる家屋で罪を問われていた。偶然山を見回っていた里の者が、偶然銃声を聞いたんだそうだ。

 主だって俺を詰問するのは、長老三番手のハンゾウ爺さんだった。


「全てを覚悟の上でやったというのか?」


「追放される覚悟は出来ています」


「はあ……どうするよ、オオオサ」


 ハンゾウさんがそうオオオサに判断を仰ぐ。

 部屋の奥に置かれた篝火が、列をなして座る七人の長老たちの影を揺らめかせている。全員かなりの歳で、影の揺らめきがそのまま命の揺らめき――そう思える程、真ん中に座るオオオサの影は一際小さかったが、背筋を伸ばし、相手を真っすぐ射竦める姿は、長い人生を歩んで全てを知った人間にしか出せない凄みを含んでいた。

 

 オオオサが、厳かな調子で言葉を発した。


「セイタロウ」


「はい」


黄金こがね色の熊を見て、そなたは何を感じた」


「恐怖です」


「ふむ、恐怖か。いい顔をするようになったな、セイタロウ」


「……はい?」


「明日、頭として山に入ってみろ。勿論弓を担いでな。アレは燃やす。燃え残った鉄はどこかに埋めてしまうがいい」


 オオオサがそれだけ言うと、もう誰も何も言わず、集まりは解散になったようだった。

 あとに残ったのは唯一の女性長老、シズさんと俺だけ。



× × ×



「お前が見たのは、ヒグマだね」


「ひ……ぐま?」


 なんという響きだ――と俺は思った。、熊? 熊に非ざる?


「遠く北海道の地にいるという、獰猛な熊さ。まだの地が日本の一部だった頃の資料を調べたことがあってね。直接見たことは無いが」


「本当ですか? あ、あの熊に名前が? あれは王です。神の化身です」


「そう崇めたくなるのも無理はない……もっとも、お前の言うように大人三人分というのでは、ちとデカすぎる気もするがの」


「嘘じゃありません。あの熊は間違いなく、俺の背丈を三倍したくらいはありました」


「では“大人”三人分ではないの」


「……俺はもう十八ですよ」


「ほほほ……」


 シズさんは俺の体術の師匠だ。背丈も体重も足りない女なのに、自分の身体を思い通りに操る術に関しては右に出る者がない。それは五十を過ぎ、既におばあちゃんと呼ばれる歳になっても変わらず、里の男五人がかりでもシズさんを組み伏せることは出来ない。


「明日……またあの非熊を見つけることが出来るでしょうか」


「さあ、出来るかも知れん。出来ないかも知れん。お前がカシラなのだから、お前次第だよ」


 俺はその場を後にしようとした。

 突然、背後から短刀が飛んで来た。

 それを読めていた俺は難なく躱し、戸口にはシズさんの放った刀が突き刺さってまだふるえていた。


「シズさん、祭壇の小刀を投げるのは止めてください」


「ほほほ、頑張りなさい」



× × ×



 ここまでが、俺たちが後に“荒神の森”とよばれる場所を発見するに至る経緯だ。

 オオオサの言葉通り、俺は荒ヶ森の里の中でも指折りの狩人たちを連れて、羆の探索に出た。

 一人で来たのと同じ道を歩き、疑り深い仲間には爪痕を見せてやり――ダラシの死骸は無くなっていたが――、シロに辿り着く頃には誰もがそこに羆がいることと疑いもしなかった。

 しかし、彼は出てこなかった。

 俺は、傷を癒すためにもっと奥地の巣穴で休んでいるに違いないと言った。事実として、昨日俺に撃たれた羆は、堰堤の奥へと姿を隠してしまったのだから。

 連隊は普段あまり狩場にしないところまで進んでいった。というのも、あまり北へ北へと行き過ぎると、かつてそこを狩場にしていた別の里――青森アオモリと呼ばれていた地区――の狩人たちの領域に入ってしまうからだ。もっとも既に青森は、東京の人間が拵えた邪術の施設の爆発によって、見る影もない地獄と化してしまっているが。

 かつて秋田と青森を隔てていた境界のギリギリまで、通常三日もかけて歩くような場所を、俺たちの連隊は半日で踏破した。それはひとえに、爪痕や糞、足跡等の痕跡がそこまで続いていたからだ。そうでなければ俺以外の全員が、すげなく里に戻ってしまっていただろう。

 

「……おい、あれを見ろ」


 連隊の一人、“音無しヤジロウ”が月輪熊の姿を発見した。

 

「月輪熊じゃないか。奴の五感を借りるという手もあるぞ」


 雄の月輪熊の縄張り意識を利用して、羆を見つけてもらおうという意味だ。

 そんなわけで、その月輪熊を追跡していたとき、俺たちは見つけたのだ。荒神の森を。


「……何かこの辺り、様子がおかしくないか」


「ああ。妙に動物たちが騒がしい。というか……」


「こんな鳴き声聞いたことも無い」


 そこには、俺たちの聞いたことのない動物の鳴き声で溢れていた。サル……しかし日本猿サルじゃない。イヌ……しかし飼い犬(イヌ)じゃない。

 追跡していた月輪熊が突然歩みを止めた。

 ナァ、ナァと月輪熊特有の高い鳴き声。

 その姿を見つめていた連隊全員の表情が、驚愕に打ちのめされていく。

 熊の身体が徐々に変化し始めた。骨格は大きく、爪は長く、毛並みは茶色に。額が盛り上がって凄まじい咬合力を予感させ、甲高い程だった声音はドスの利いた擦れた低音になった。


 ぐぉぅ、ぐぉぅ。


 月輪熊が、羆になった。

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