第二話 森にて ①
昨夜、里の娘のサキが襲われた。ダラシの仕業だ。何とか一命は取り留めたものの、手足と腹に大けがを負って、全治するのに丸一年はかかるらしい。当然、傷跡は一生残るだろう。年頃の女の子には酷な話だ。
手当てを受ける彼女の周りで、数人の大人がじっと彼女の様子を見守っていた。誰も、何も言わなかった。仕方がないことと思っているのだろう。今年の山が近年最悪のレベルで不作なので、月輪熊のダラシが里に下りてきてしまったのだ。
こういうことが起こらないように、これまで里では、一丸となってダラシを仕留めようと作戦を練ってきた。しかしダラシは常識外れの巨体に加え、敏捷性、知性も並外れて高く、弓連隊で取り囲もうとしても器用に包囲網をかいくぐってしまう。このあいだも、仲間の一人がダラシに追いすがろうと急ぎ過ぎたために、近くにいた母熊に気付かず、不意の一撃を喰らわされたばかりだ。彼は今、大墓地に眠る死者の一員に名を連ねている。
俺は誰にも何も言わず、独りで仇を討ちにきた。誰かに何かを言おうものなら、必ず反対されるからだ。そもそもこの時期の狩りは危険で、絶対に一人で月輪熊と対峙してはならないことになっている。熊の側も気が立っているし、雪が無いために姿の発見が困難で、足跡も追えないからだ。
そして、反対される一番の原因は、この背中に背負った銃だろう。まだこの地域の人間が国との繋がりをもち、文明の力を借りていた時代の遺物。俺はこれを、バラン岳の頂上付近に建っていた寺の廃墟から見つけてきた。こんなものを、弓と刃物での狩猟を誇りにしている長老たちに見せようものなら、銃はバラバラに解体され燃やされ捨てられた挙句、ひょっとしたらこの俺も、銃と同じ運命を辿ることになるかも知れない。いずれにせよ、里は追放される。
しかし、銃が弓より優れているのは明らかだ。弓に自信が無いわけじゃないが、万全を期することこそが野生に敬意を払うことにつながる。
やはり思った通り、木の実一つ落ちてない――。
俺は山の中を歩き回っていたが、これほどの凶作ではダラシが里に下りてくるのも無理のない話だと思った。
人も熊も同じ動物であり、ひとたび熊が人を傷付けたなら、相応の報いを人が熊に与えねばならないというのは当然の理屈で、つまり俺がダラシを絶対に仕留めるということに変わりは無いのだが、それにしたって、日本栗鼠が俺の足音にも気づかない程どんぐり探しに夢中になるというのは異常だ。ダラシにも同情の余地がある。
見ろ、あの栗鼠を狙っていた青大将の方は、肉食専門ゆえ食い物にそれ程困ってないのか、早々に俺に気付いて獲物を諦め、水楢の森の何処かにあるだろう巣穴の方にひっそりと帰ってしまった。そんな背景に気付くこともなく、栗鼠はまだ湿った落ち葉や倒木の上をせわしなく歩き回っている。
ダラシを見つけるため、俺は風を読んだ。
東からの気流がやけに強かった。恐らく先の大雨で、沢の流れが強くなっているのだろう。賢いダラシなら感覚を乱される東の沢は避け、恐らくは西の沢、シロの建っている方へ行くに違いない。城というのは、これも前時代の遺物の一つで、巨大な建築物だ。そこに登って景色を見渡せば、鷹のように目の良い動物なら、獲物を探す格好の展望台となる。
そう思ってシロの方へ向かうと、案の定、たった今付けられたばかりという風な爪痕が、橅の森の中に点々と残されていた。でも……何かがおかしい。
それは、俺がサキの傷跡を見たときに微かに抱いた違和感と、同じ種類のものだった。
本当にダラシか――?
というのも、傷跡が大きすぎるのだ。普通、月輪熊の爪といえば人の小指一本分といったところで、巨体を誇るダラシともなれば、目測で中指一本分程もあるだろうということが里の会議でも散々話題にのぼった。
でも、この橅に付けられた傷跡に俺が掌を合わせてみると、なんとその長さがピタリと一致してしまったのだ。人の掌と同じ長さの剛爪――ありえない。こんなものは見たことがない。いくらダラシでもこれはない。
俺はまた、思い出してもいた。昨夜、サキの太ももに走った凄惨な切り傷。大人たちは巨大なダラシの爪によるものと信じて疑わなかったが、俺は傷跡付近に唾液の跡が残っているのを見逃さなかった。爪でひっかいたところに、どうして唾液が付くのだ? 月輪熊が“ひっかいてごめんね――”とペロペロ舐めるとでもというのか?
ダラシじゃない。
あのサキの太ももの傷は爪ではなく、牙でつけられたものだ。ダラシよりデカい奴が、爪ではなく、普通は爪よりも小さい牙で太ももを噛んだ。そう考えれば、この橅に付いた桁違いに大きい爪痕との辻褄も合う。
この森に、ダラシよりデカい何者かがいる。つまり“化け物”級の奴が。
そう思った瞬間、俺の心は高揚感に包まれた。
ソイツを仕留めたい。ダラシよりデカい獲物を仕留めれば、長老たちも俺を認め、連隊の頭にしてくれるかも知れない。
それに、そんな奴を仕留めたとなれば、銃を持ちだした罪だって不問になるかも知れない。どうにかしてその化け物を、是非とも仕留めたい!
俺は、シロへと続く山道を、沢伝いに登った。ダラシは森の守り主だ。もし彼より強大な動物がこの森に侵入してきたとなれば、それを放っておくはずはない。恐らく足跡や糞、爪痕を追跡して、ダラシも化け物を追うだろう。
高揚と緊張で動悸がしてきた。冷静な狩人を自負する俺としては、山を登っているせいだと思いたかったが、しかしそれが緊張から来るものであることは自分でも分かっていた。まだ十八、しかしもう十八。山登りで息切れする歳はとっくに過ぎた。
やがて俺の感情は、更に高ぶった。橅と水楢以外にも色々な木々が混生する雑然とした森の中で、巨大な爪痕だけは、俺を彼の元に案内するかのように、確固として続いていた。間違いない。未だ見ぬ化け物はこの先にいる。
しかし、俺は同時に不思議に思ってもいた。
最初に探していた――肝心の?――ダラシの痕跡が、一切見つからないではないか。ダラシは何処へ行ったのだ。あのサキが受けた傷と、木々に刻まれた剛爪の跡が未だ見ぬ怪物のものだとして、ではダラシの痕跡はどこへ消えてしまったというのだ。この大凶作の森の中、食いだめもせずに冬眠することは月輪熊にだって出来やしないだろう。
そう思いながら、俺はふと、道の右側を少し下ったところにある崖の淵を見た。木々の間から淵の下を窺うと、沢が陽光に煌めいているのが見える。上流の方で城に一旦せき止められているせいで、大雨でもなかなか増水しないのだが、その流れの内側、砂利が堆積して白く日光を反射している場所で、何かポツンと、黒く丸い物体がうずくまっているのが見えた。
何だろう――。俺は目を凝らした。どうやら動物の死骸だ。しかもかなり大きい。月輪熊か?
俺はほぼ垂直に切り立った崖を、二、三突き出た岩を足場にしながら飛び降りた。着地の音を消せるようになったのは最近の話だが、結局、砂利を踏む音はせせらぎに掻き消される。でも、練習は出来るときにしておかねばならない。
俺は死骸に近づいた。蠅がたかっている。まるで寝台に横たわるかのようにして右半身を青空に向けているが、脇腹の辺りから出血している。傷口は大きく、流れ出た鮮血で砂利がぬらぬらと光っている。その他の複数の場所で、砂利が大きく掘り返され、黒い土が剝き出しになっているところを見ると、どうやら“戦闘”は相当に激しかったらしい。
我ながら、随分と冷静に状況を分析していたものだが、死骸は紛れもなく月輪熊のものだった。その死骸の爪に、俺の中指を宛がってみる。ちょうど、一本分……。
沢の対岸では本土狐がこちらを窺って、鮮やかなオレンジを木立の間に見え隠れさせている。遥か上空の蒼々とした中に影を投じているのは、熊鷹か狗鷲のどちらか。いずれにせよ、この巨大な月輪熊――里の皆を恐れさせ、この数年は山の守り主とまで言われていたダラシ――の死肉を目当てに、俺の一挙手一投足に気を配っているのだろう。彼らも気が立っている。油断すれば俺も攻撃対象になる。
俺はそっと、その場を離れた。もと来た崖を五歩で登り直し、努めて冷静に考えた。
ダラシは死んだ。俺がこの森に入ったのはダラシを仕留めるためだった。里の掟では、人は他者の仕留めた死肉を里に持ち帰ってはならないことになっている。もはやあの月輪熊に関してやるべきことはない。
そして、その月輪熊を惨たらしく殺して見せた正体不明の化け物は、つまりは月輪熊を惨たらしく殺せる程に強いということだ。
やれるか――?
俺は一瞬だけ躊躇した。しかし、一瞬だけだった。
いや、やろう。ソイツを倒し、頭になろう。俺が頭になれば、今よりもっと多くの獲物がとれる。里が豊かになる。サキの怪我を癒す薬も、沢山作れる。
すると、にわかに、森のざわめきが止み、時までもが停止したような錯覚に囚われた。木々がとまり、風がやみ、沢の流れが凍り、対岸にいた本土狐も上空の猛禽も、等しく生きながらにして剥製にでもなってしまったかのような、世界が停止したかのような感覚に囚われた。
咆哮だ。今確かに、遠くで咆哮が聞こえた。今まで聞いたことのない、巻き上げられた砂埃のような、吐き出すような、苦しげな怒りを孕んだかのような巨大な唸り声。
橅の傷跡の主だ――。
直感的に、俺はそう思った。発生源からしてシロ付近。俺にではなく、反対側に向かって吠えているから、遠ざかっている最中だろう。
俺は、未だ見ぬ怪物の後ろ姿を想像せざるを得なかった。
どんな姿をしている? 大きさは? 毛の色は? あの巨大な爪はどんなふうに生えてる? 単にダラシよりデカいというだけではないだろう。デカいだけでは、俊敏で知性に優れたあの抜け目ない山の守り主を、一刀のもとに惨殺することなど出来ない。
そもそも熊なのか?ひょっとして、太古の最古の大昔に地球を支配したっていう、恐竜の仲間なんじゃ?
守り主は既に、守り主としての役目を終えた。死骸となり、掃除屋たちの胃袋に納まり、糞となって大地に帰るだろう。大地は草木を育み、草を食む日本羚羊に咀嚼され、そうやって同じ所をぐるぐる回りながら、やがて何百年何千年か先、再び守り主となってこの地に現れるのだ。
世界が再び動き出した。本土狐が沢を軽快にジャンプしながらダラシにかぶりついた。狗鷲が徐々に高度を落とし、場合によっては本土狐を獲物にしようとしていた。木々が「行け、行け」とざわめいた。道は示されていた。幹に、まるで矢印のように刻まれた剛爪痕。
俺は、怪物の後をつけた。
それは里の狩人としての悲しい性だったろうか? 違う。じゃあ、人が本質的に備えている好奇心? そんなに小難しいモンじゃない。だったら……山への恐怖が正常な判断を狂わせたのか? いや、それも違う。俺は山を恐れていないし、そもそも山への恐怖は、人間の判断を原点に立ち返らせるだけだ。狂わせるのではない。