第一話 事件
どこから話すべきか悩ましいが、まずは父のことから始めようと思う。
私の父は神に殺された。といっても、生前に悪徳ばかり重ねたからそのような噂が立った、という訳ではない。父が最後に残したメッセージが「か、み」の二文字だったから、神に殺されたのではと勘繰る人間が出てきたというだけの話だ。そもそも、父は死亡したと確定した訳ではなく、また先祖代々之墓に明確に父のものといえる遺骨が納まっている訳でもない。
ただ、十年前の第一回・旧秋田調査団が消息を絶って以降、それを率いていた父の安否もわからないままだから、死んだと考える者があっても客観的にみれば文句の言えない話ではあるのだ。
十年前の今日、九月十〇日。突然音信不通になった父の部隊に、必死に呼びかける通信室のオペレーター。何度目かわからない「応答願います!」の呼びかけにやっとのことで応じたのは団長の父自身で、その言葉は「か……み……」。父さんは調査先で、神様に会ったのだろうか。そして神様に会ったのだとしたら、どうして神様は父さんを行方不明にしてしまったのだろうか。
私は通信室の前を通り過ぎるたびに、あの日、父さんは本当は何を報告したかったんだろうと想像する。
さて、私はそんな通信室を横切って、黄昏爺さんの待つ部屋に向かっている。
それは朝早く、まだ庁内の人間も誰も登庁していない時間帯で、私との仲を良好に保てる数少ない人物の一人である、黄昏爺さんでさえ、そんな時間帯に私を呼びだすことは珍しかった。
黄昏爺さん――本名は佐藤昴、御年六五。いつも獣害対策相談センター室の窓際の席に座って、何か悲しいことでも考えていそうな目を丸眼鏡の奥に潜ませながら、じっと外の景色を見ている。だから黄昏爺さんと呼ばれているのだ。
「おはよう。昴さん」
私がセンター室のドアを開けると、案の定、昴さんは白髪を後ろに撫でつけた小さな後頭部を私に向け、目は窓の外に向けていた。
「ああ、来たねリツコちゃん。おはよう」
「こんな朝早くから呼ばれるなんてビックリしちゃった。まだコーヒーも飲んでないのに」
「そのコーヒーを飲みながら、少し見てもらいたいものがあるんだよ」
彼はデスクに置いていたノートパソコンの画面を、ちょんちょんと指で叩いて示した。
「年金が増額でもしたのかしら?」
私はいつもの調子で冗談を言ったのだが、どうも昴さんの様子が変だ。冗談を返す風でもなく、かといって「増額なんぞするものか」と真面目に怒る風でもない。そもそも、昴さんは私と知りあって以降、怒ったところを見せたことがない。
「……昨日、ちょっとした事件があってね。まだニュースでも報道されていないんだ」
そう言って昴さんは私にパソコンの画面を向けた。
事件? 一体何だろう。昴さんが私に報告しなければならない事件なんて、私の身に危険が及ぶか、昴さん自身の身に危険が及ぶか、それとも両方の身に危険が及ぶかしない限りは存在しないはずだ。
それとも、あの日昴さんが約束してくれたこと――“いつか絶対、お父さんを見つけだそう――”について、何か進展があったのだろうか。そんなことはこの十年ずっと無かったのに。あの日、昴さんが通信室で、父さんの最後の言葉を聞いた九月十〇日からずっと。
昴さんが、とある動画の再生ボタンをクリックした。
その動画というのは、住宅街の月夜の風景を映したもので、防犯ドローンが低空から撮影したものだった。画面の右上に、九月十〇日 午前〇〇時〇五分 栃木 とあり、つまり日付が今日になってすぐの真夜中に、我らが生活圏の最北の地である栃木の住宅街で撮影された映像ということがわかる。
「ひったくり? 今時珍しいけど」
「いや、違う。まあ見ていなさい」
画面には一本の道路が横切っていて、その道路の手前側には草木に囲まれた公園、向こう側には一軒の豪華な邸宅が映っている。
その道路を、一人の警察官が歩いてきた。警ら中ということだろう。懐中電灯を持っている。
警察官は画面中央で立ち止まると、頑丈そうな塀と鉄門で囲われた邸宅を見上げ、インターホンを押した。十数秒。応答が無い。警官がもう一度インターホンを押す。更に十数秒。暗闇の中に、邸宅の二階の窓の電気が付いた。そこが寝室ということだ。寝ていたのだろう、しかし夜中の零時だから当然だ。
その家の主人は、きっとこんな時間の無礼な訪問に腹を立てていたに違いない。見ていた夢が良いものだったなら尚更で、インターホン越しに文句の一つでもつけたいところだ。そして、インターホンの小さな画面に映った警官の顔を見て、仰天して階段を降りてくるだろうか。鉄門は遠隔で開け、玄関のこれまた頑丈そうな大きなドアは、手動で開ける。小柄な体に急いでコートを羽織ってきたその姿を、防犯ドローンはしっかり捉えている。女性だ。こんな時間の怪しい訪問なら、普通は男の方が出てきそうなものだが、この人は独り身だろうか?
そこで私は、どうもこの女性に見覚えがあるような感覚に囚われた。
はて? この姿、どこかで見たことがあるような? テレビニュースか何かで――。
警官は、鉄門の奥に広がるこざっぱりとした庭を抜け、玄関で彼女の出迎えを受けた。
彼女は少し恐縮した様子で、警官の方は遅い時間の訪問を詫びる様子もなく、すたすたと家の中に入っていった。
ドアが閉じ、パソコンの画面に映った住宅街は、再び何の動きも無い状態に戻る。最近のドローンはほぼ無音で飛ぶことが出来るから、公園の草木の虫の声まで拾って、秋の冷たく澄んだ月夜を音だけで伝えてくる。その何も動きの無い映像が、そのまま数分続いた。
「……ここからどうなるの?」
「……」
昴さんは腕を組み、何も話さない。表情を見ても、これだという感情は読み取れない。困惑、不安、疑念、あるいは苛立ち、そんな表情だ。晴れやかな顔とは言えない。
でも、私を無視している訳ではない。昴さんは集中しているのだ。集中して考えているときに、父の元同僚で、私の面倒を十年に渡って見てくれた恩人の昴さんはよくこういう顔をする。
画面に動きがあった。邸宅の玄関が開き、中から警官が出てきた。
彼は女主人に一礼をすることすら無く――というのも、そもそも女主人は家の外に出てきていなかった――、来た時と同じように確固とした足取りで鉄門を通り過ぎ、今度は道路を跨いで、手前にある公園にまで歩いてきた。
彼は、時代遅れの遊具などを取り払われ、ただ周囲に植樹された桜を眺めるためのベンチだけが置かれた静かな公園の中央で、きょろきょろと何かを探しているようだった。右を見て、左を見て、そしてドローン越しに私たちに目線を向ける。目線はどれも桜の木に向けられていて、きっと画面に映らない手前の方にも桜は植えられているだろうから、光学迷彩の付けられたドローンに気付いている訳ではない。
しかし……、だとするなら、彼は枝だけになった周囲の桜の木を眺めて、何を探しているのだろうか。この肌寒い秋の季節、「枝だけになっても夜桜であることに変わりは無い」などと言うつもりか?
そこで昴さんが、唐突に動画の停止ボタンをクリックした。
「何でとめるの?」
「これ以上、何も起きないからさ」
「……昴さん」
「うん」
「私の朝は、“これ以上何も起きず”、且つ“これまでにも何も起こらなかった”動画を見るためにあるんじゃないの。私コーヒー淹れてくるから」
そう言って、私が少し苛立ち気味に立ち上がりかけた瞬間、昴さんは言った。
「日本狼」
「……はぁ?」
「邸宅のキッチンで死亡していた彼女の、周辺の床から、日本狼のものとみられる体毛が見つかったんだ」
「……はぁ?」
× × ×
昴さんは決して錯乱した訳ではなく、事実を述べたまでだった。
話の先を促してみると、私がどこかで見覚えがあると思っていた女性――その正体は私も何度かお目にかかっている人で、森林開発派の一翼を担う衆議院議員、権堂公世美女史その人――が、あの邸宅のキッチンで殺されていたと昴さんは話した。
「どうして……? どうして権堂先生が」
「わからない。でも、ともかく事実なんだ。彼女の噛み切られた首筋に、狼の唾液まで付着していたんだからね」
「日本狼の?」
「唾液と体毛からDNAを採取して、鑑定した。日本ではとうの昔に絶滅したと考えられていたんだが」
「でも、どうして狼が……」
「もう一つある」
「何?」
「この動画の警察官なんだが」
「もう聴取は済んでいるの? 当然参考人として呼び出したんでしょう?」
「……行方が分からないんだ。そもそもあの男は警察官ではなかった。公園のトイレの中に脱ぎ捨ててあった制服から交番の特定が出来たんだが、そこに行ってみると、全裸に剥かれた本当の制服の持ち主がロッカーの中に閉じ込められていた」
「……昴さん、本当の話をしているのよね?」
「……」
昴さんは何も答えない。ただ悲痛な表情を私に向けて、目で訴えかけている。皆まで言わせてくれるな、僕だってこんな陳腐な推理小説じみたエピソードを話したくはない――。
「と、とにかく、その警官になりすましていた男がほとんど犯人ってことじゃない。日本狼はひとまず置いといて、邸宅の中に落ちてる“警官の”毛髪なり皮膚片なりを鑑定すれば、それを照合して一件落着でしょう?」
「ところが、そうはいかない」
「何でよ」
「一致しないんだ、DNAが。日本国民三千万人の内の、誰とも」
「一致しない?」
「リツコちゃんの言う通り、人間の体毛も玄関や廊下に落ちてはいた。でも、鑑定結果を政府のデータベースに照らしても、誰ひとりとして遺伝情報が合致しない。警視庁の連中もびっくりしてたよ……それが意味することを悟って、顔を真っ青にしてね」
昴さんの言う、“それが意味するところ”。私も少し考えて、理解することが出来た。
つまり、犯人は自然民以外にないということだ。国籍を放棄し、生活圏を放棄し、一都六県以北のかつて東北と呼ばれた地域で、自給自足の生活を営んでいる人間たち、通称自然民。DNA情報の登録されていない彼らがどうにかして我々の生活圏に侵入し、日本狼を使って権堂先生を殺した……。素直に考えれば結論はそうなる。狼云々の真偽は置いておいて、だ。
警視庁の人間が顔を真っ青にしたというのもひとえにそれが理由だろう。犯人が自然民となれば、当然身元は不明、逃亡先は生活圏の外。一都六県の外を捜索する場合に当然つきまとうことになる困難――例えば、放棄されて久しい地理情報の再構築や、聞き込みの為の買収費用など――も無視できず、そもそも、捜査を進めるための道路が無いに等しい。私たち森林資源開発庁が再整備・管理している道路は、そもそもがコア発電施設を建てるための道路で、沿岸に集中しているからだ。犯人が道路に沿って逃亡してくれるとは限らない。
でも、そもそもの話……
「自然民だとして、彼らがどうやって生活圏に侵入するというの?」
生活圏と外界との境界は、極めて厳重なゲートで区切られている。もし自然民がその辺の散歩ついでに侵入出来てしまうようでは、国民管理の徹底・一元化という縮小政策の理念が、そもそも崩壊してしまうからだ。
「ゲート職員の何者かが手引きした、と考えるのが普通だろうね。警視庁も現在その線で、捜査を進めているようだよ」
「大問題だわ。国籍を持たない自然民に、一国の国会議員が殺されるなんて」
「ともかく、犯人が自分の痕跡の処理を怠ってくれたのは助かった。狼だけ捕まえてもしょうがないからね」
狼を裁判にかけるような法律は日本にはない。でも、それを言うなら自然民だって半分、いやほとんど動物みたいなものだ。文明の一切を放棄して生活しているのだから。だからきっと犯人が見つかったら、恐らくは手引きした職員の方が最大の量刑を被ることになるだろう。
というか、自然民に対して量刑なんてものがあるかどうか。いうまでもなく、日本の法律は日本人および外国人を想定して適用されるものであり、自然民は日本人でも外国人でもない。彼らについては、“拒否の原則”が定められているだけで、当然今回のような事件だって想定されていなかった――想定しなくても済むようにするための厳重なゲートでもあったのだ。
私は、全くなんて事件を起こしてくれたんだ、と暗澹たる気持ちになった。
するとにわかに、相談センター室の外が騒がしくなった。同僚たちが登庁し始めたのだろう。気づけば時計は〇七時五〇分を指している。
今日は忙しくなること必至だな――私はそう思って、昴さんにまた夜に会いましょうと挨拶し、相談センター室を後にした。
そして案の定。
その日は各方面からの問い合わせの連続で、激務と混乱の果てに記憶さえ飛び飛びになった午後十一時三〇分、気付けば私は、第二回・旧秋田調査団の計画立案、及び暫定の実行委員会委員長に任命されてしまっていたのである。
いくら十年前の父の事件と今回の事件とが関係あるかも知れないからといって、少々展開が急すぎやしないか?