アイノカタチ
「家同士を結ぶための婚姻なんて、可哀想だわ」
その会話を聞いたのは偶然だった。
レティーシアは中庭を通りかかったとき、婚約者・アイザックの姿が見えて足を止めた。
数人と話をしているらしく、そのうちの一人は何かと話題の人物、マリーナだ。
彼女は平民から貴族の令嬢になったばかりで貴族の常識には慣れていない。そのせいで浮いた行動をとることもしばしばあった。これまでの暮らしと違う生活は辛いことも多いだろう。まして、貴族は閉鎖的な社会だ。新参者には不必要に厳しかったりもする。心優しい者たちは同情的だった。ところが、時間が経過するとマリーナの言動に不快になることが頻繁に出てきて、そしてそれは育ち云々とは関係ない、彼女の性格に起因するものと理解しはじめてからは風向きが変わった。今の発言もそうだ。貴族の常識がなくとも、自分に理解し難いものを可哀想と断じる思考そのものが不愉快だ。しかし、それよりも。
「可哀想、ねぇ……そうだな。まぁ、親が段取りを決めて、気がつけば婚約していたというのは不満がある」
アイザックが同意した。
レティーシアは目の前が真っ暗になった。
「やはり、そうですよね」
マリーナの喜色に満ちた声がする。
レティーシアは彼らの輪に近寄った。本来ならこのまま立ち去るべきだ。偶然耳に入ったとはいえ、彼らからすれば盗み聞きされたことに変わりない。はしたないと断じられる。だが、我慢できなかった。
「アイザック様がそのように思われているなんて知りませんでした」
レティーシアは彼らの前に出た。
唇が震える。
何故なら、彼女はアイザックを愛していたから。
そして、アイザックもそうであると信じていた。
家同士を結ぶ婚約ではあるけれど、元々二人は仲が良かったからそれならばと決めたものだと。
「この婚約は考え直すべきですわね」
真っ直ぐに彼の目を見つめて告げた。
涙は流さなかった。
◇
「そうね、ひどいと思うわ」
レティーシアは母シャティに学院でのことを話した。
実は、ここしばらくはこうして毎日愚痴をこぼしていた。教師から出された課題でグループ研究を行う。振り分けでアイザックとマリーナが同じ班になったことに不安と不満を抱いていたからだった。
マリーナは異性との距離が近い。腕に触れたり、耳打ちしたりして、幾度も注意を受けていたが改めることはなく、一部の令息が庇うものだから余計に彼女は悪目立ちしていた。婚約者をそんな相手に近づけたくはない。だが、授業の課題をこなさないわけにはいかないし、彼女には気をつけてと口煩く言うのもアイザックを信用していないような気がして母親に話して気を紛らせていたのだ。
だが、アイザックはあろうことかレティーシアとの婚約について、マリーナの発言に同意する形で、本音は嫌だったと言った。こんな裏切り、あんまりだ。
「わたくし、もうアイザック様とは婚約していられません」
「気持ちはわかるけれど、そんなにすぐに決めてしまうものではないわ。話し合いは持つべきよ」
シャティはレティーシアに同情をしつつも婚約の白紙については同意しなかった。正式に取り交わした婚約である。そんなに簡単に覆せないのはわかるが、それでも傷ついていたレティーシアは母に怒りを感じた。
「お父様に大切にされているお母様にはわたくしの惨めさがわからないからそんなこと言うのよ! 話し合ったって事実が変わるわけじゃないもの! 余計に辛くなるだけじゃない!!」
それは八つ当たりだった。
それでも止められなかったが。
「あら、お父様だって最初は最低野郎だったのよ」
「えっ……」
返ってきたのは思いもよらない内容だった。
「だから、お父様と結婚することになるとはまったく思わなかったわ。人の縁というのは本当に不思議ね」
レティーシアは絶句した。
両親は睦まじいし、何より父は母を溺愛している。二人は社交界でも有名なおしどり夫婦だ。それを否定する母にも、母が「最低野郎」なんて言葉を使ったことにも。これまで母がそのような言葉を使ったことはない。そして、たぶんこれからも。父だけが母からそう評される。それはある意味で特別といえるのだろう。
「一体、何があったのですか?」
はぁ、と頬に手を置いてため息を吐く母に、自身の怒りも忘れてレティーシアは恐る恐る尋ねた。
◇
シャティとデクスターが出会ったのは十五歳のときだ。
彼女は侯爵家という上位の家に生まれた。両親は政略結婚だがそこそこ仲が良くて、兄が二人いて、末っ子で唯一の女の子ということもありとても可愛がられていたが、べたべたに甘やかされることはなく、きちんとした教育を受けて育った。
だから、デクスター侯爵子息から声をかけられたとき、何故、わたくしに? など自分を卑下したりはしなかった。文武両道で、容姿も優れた彼は注目される存在だったが、シャティだって侯爵家の娘で、何事も人並み以上にはこなせていたので、まったく釣り合いがとれないというほどではなかったから。
デクスターはとても紳士的に接してきた。登校時間が重なれば馬車から降りるエスコートをしてくれたり、勉強でわからないところがあれば放課後図書館で教えてくれたり、ダンスの授業のときのパートナーにと誘ってくれたり、明らかに他の令嬢にはしないような素振りを見せた。
シャティは自惚れた。周囲の子たちからも彼がシャティに好意を持っていると言われていたから余計に。そのせいで、嫉妬されて嫌味の一つや二つを投げられたこともある。侯爵家の娘でなければきっともっと露骨で悲惨だっただろう。
だけど、そのまま幸せにとはいかなかった。
おかしいな? と思ったきっかけは、ある観劇のチケットを彼に贈ったときだ。
勉強を教えてもらえたおかげで成績が上がった。お礼に、シャティは父にお願いして今一番人気の舞台のチケットを二枚手に入れ渡したのだ。彼はにっこりと微笑んで礼を述べた。
(二枚渡したのに、一緒に行こうとは言ってくださらないの?)
渡した物をどう使うかは彼の自由だが、それならばご一緒してくださいますか? と誘ってくれると思っていた。二人はそういう間柄だとはっきりとさせていたわけではないけれど、そういう間柄になろうとしているはずだった。
(もしかしたら、とても観劇好きな方がいらっしゃって、その方にお譲りするのかもしれないわ)
シャティはそのように自身に言い聞かせた。
そうしながらもこっそりと当日劇場に見に行った。彼が誰と来るのか、確かめなければならない。――直感というものだ。ここで誤魔化してはいけないのだと強く揺さぶるものがあった。
彼は開場ほどなく現れた。ルーシェ公爵令嬢をエスコートして。
二人は従兄妹同士だが、親しくしているという話は知らない。少なくとも学園内で話をしているところは見たことがなかった。
(何が起きているのだろう?)
その答えがわかったのは、二週間後。
第二王子のスコット殿下からお茶会の招待状が届いた。
殿下が婚約者を探しているのは知っていたが、三人いる公爵令嬢のどなたかになるという話だったはず。しかし、シャティがそこにねじ込まれた。殿下の望みで。
一見バラバラに思える出来事が、綺麗な一枚絵になっていく。
(ああ、どうして、気づいてしまったのだろう)
「お父様、お母様、喜んでくださっているところ申し訳ないのですが、殿下からのお茶会の招待はわたくしが見初められたからではありません」
第一王子であるアスラン殿下は大変優秀な方で、スコット殿下は劣等感を持っていた。
また、スコット殿下と同じ年で将来アスラン殿下に仕えることになっているデクスターにも勝てなかったことが、いよいよスコット殿下を追い詰めた。結果、スコット殿下のアスラン殿下への怒りは代わりにデクスターに向かい、嫌がらせをしはじめる。
幼稚な行為をデクスターは受け流していたが、そうされるとますますスコット殿下は意地になった。
そして、考えた末に、スコット殿下はデクスターの思い人であるシャティを奪ってやろうとしたのだ。
ただ残念なことにデクスターの本当の思い人はシャティではない。スコット殿下の嫌がらせを理解していた彼は、本当の思い人のことを隠して、ダミーを用意した。それがシャティなのだ。
「王家と縁が持てることが我が家の利になるというのならば、そういった裏事情に目を瞑り、わたくしはデクスター様の思い人であると無知を装いますけれど、けして殿下がわたくしに好意をもっているわけではありません」
シャティの説明に、父は厳しい顔をして、母は立ち上がるとそばにきて抱きしめてくれた。家のために婚姻を結ぶのは貴族としての義務だし、両親もそうだった。しかし、嫌がらせが目的など、そんなことで大事な娘を犠牲にする気はないと言ってくれた。
父はすぐに伯母に連絡して、王妃殿下に手紙を出して面会の申し込みをした。伯母と王妃殿下は学生時代からの友人で、また伯母の嫁ぎ先は王妃殿下の親類でもある。渡りをつけてもらうには最適な人物だ。面会にも一緒に来てもらうことになり、茶会前に会えることになった。これは異例の早さだ。
面会にはシャティは連れて行ってはもらえなかったが、話し合いの結果、殿下との茶会はお流れになった。
◇
「そんなわけでお父様の計画は白日の元にさらされたのよ。といってもスコット殿下の幼稚な嫌がらせへの抵抗策にすぎないから罰されるようなことにはならない。それよりも、王妃殿下がお知りになったのだから、スコット殿下もお父様へ嫌がらせで婚約者を選ぶなんてことができなくなり、本命の彼女は守られた。お父様の一人勝ちよね」
シャティは優雅に紅茶を飲んだ。
「何それ! お父様ってばお母様を利用したのですよね? 最低じゃないですか」
「そう。最低だったのよ」
「それなのにどこをどうしたら結婚することになったのですか? お父様はお母様を大切にしているのも嘘ってことですか!?」
「だから人の縁というのは面白いのよ」
シャティはカップを置くと、うっそりと微笑んだ。
「すべてが終わったあと、わたくしは隣国へ留学することを決めた。学院に通えばお父様と顔を合わせることになる。計画が終わったのだからもうわたくしは用なしでしょう? 急に冷たくされて振られたなんて噂をされるのも嫌だったし、平静でいられる自信がなかったから。けれど、このまま黙って終わりにはできなかったので、言いたいことだけは言っておこうと思って、その前にお父様に会いに行ったの。
『わたくしは、貴方に好かれていると思い、とても浮かれておりました。殿方から好意を寄せられるのは生まれて初めてで、だからとても嬉しかったのです。それが、全部お芝居だったと知ったときのわたくしの気持ちがわかりますか? 貴方が本当に大切な方を守るための隠れ蓑にされたとわかったときのわたくしの気持ちがわかりますか? 貴方にとってわたくしは取るに足りない、どう扱ってもよい存在だったと思われていたと知って、それまで感じていたすべてが真っ黒に塗りつぶされて、わたくしは恥ずかしくて、悔しくて、何故、そのような真似ができるのかと貴方という人を心の底から軽蔑しました。せめて計画を打ち明けてくださり、協力を求めるという形であったなら、わたくしはこれほど傷つかなかったでしょう。ですが、貴方はそうなさらなかった。うまくいけば、わたくしは王子妃となる。わたくしにも利がある。そう思われていたのかもしれませんが、それを伝えられずにいた以上、わたくしは王子妃になるのだから騙されてもいいだろうと思われたのだと解釈します。あまりにも馬鹿にしておりますわね。わたくし、そのように蔑まれるいわれはありません。……わたくしの言葉など貴方には届かないでしょうけれど、それでも貴方に申し上げたかった。貴方と関わりのない、貴方が大切ではない者にも、心がある。人を見くびるのもたいがいになさってください。どうかこれからは人に対して誠意をお持ちください』
そんなようなことを言ったわ」
「……それでお父様は?」
「何も、ただ黙って聞いていらしたわ。言い終えてわたくしはすぐに席を立ったので、待っていたら何か言われたかもしれないけれど、聞く義理はないもの」
話し合いではなく、言いたいことを言うために会った――最初から言い訳や弁明など聞く気がなかった。それはシャティがデクスターとの関係修復など微塵も考えていないことを示していた。その通り、本当に言いたいことだけを言って別れた。
これが二人の決別のはずだったのに……
「でも、お二人は結婚なさいましたよね」
「ええ、わたくしが留学を終えて帰国してから再会したのよ」
◇
二年ぶりに隣国から帰国してから初めて公のパーティに出席した。
親しくしていた友人たちとの再会に花を咲かせた。
楽しく話していると背後に人の気配を感じた。振り返るとデクスターが立っていた。
「お久しぶりです」
「……ええ、お久しぶりですね」
普通に話しかけられて、シャティも普通に返した。
よく話しかけてきたな、と意地の悪いことを考えはしたが、感情は乱れなかった。
もうあれから二年も経過している。留学中、最初の頃こそ思い出して気力を奪われたが、いつまでもそのままではいられない。シャティにもシャティの人生があり、もう無縁になった相手に囚われているなどそれこそプライドが許さない。幸い新しい環境に慣れることに忙しくしているうちに、心の嵐は去っていた。
考えてみれば、彼から直接気分を害されたことはなかったのも大きいのだろう。スコット殿下に誤解させるためにシャティに好意があるように見せてはいたが、はっきりとした態度をとられたわけではない。アプローチをしているのかしら? という微妙なラインを、シャティもまた勘違いして期待した。人の心を弄んで! と腹が立ったが、勘違いしたシャティも悪い。同じ真似をされても断る者だっていただろう。全部、デクスターのせいにするのは間違いだ。
経験不足による警戒心のなさが招いた苦い青春の一ページ。ただ、それだけのことだ――そうして、いつしか思い出さなくなっていた。
それでも、再会し、顔を見れば何かしら蠢くものが出てくるかと思ったが、まったく。本当にシャティにとって彼のことは不愉快な過去でしかないことを実感できた。
デクスターはダンスに誘ってきた。
シャティは受けた。
踊りながら話したのは他愛のない会話だ。
それからお茶会や夜会で何度も顔を合わせた。その度に、デクスターは必ずシャティに声をかけてきた。
「お話ししたいことがあるのではないですか?」
そのうち根負けして、シャティは尋ねた。
デクスターの端正な顔に少しの躊躇いが浮かんだが、すぅっと短く息を吐いたあと、はじめて二年前の出来事について正式な謝罪を受けた。
彼はシャティに言われたことをずっと考えていたと言った。自分の傲岸さ、それを正面から指摘され、人を尊重してこなかったことを思い知った。もし、あのままでいたら自分はどこまでも愚かなままでいただろう。そのことに気付けたことは感謝しているし、同時に自分の未熟さでシャティを傷つけたことを後悔していた。償いたかったと。
「謝罪は受け入れます。どうかもうお気になさらず。これですべて終わりにしましょう」
話を聞いて、シャティは告げた。
正直、毎回顔を合わせては付き纏われるのも面倒になってきていたというのもある。
デクスターがシャティに後ろめたさのようなものを抱いていて、償おうとしてしているのだろうことはわかる。ただ、他の者たちは事情を知らず、二人がいい感じでいたのに突然シャティが留学してしまった。その後、帰国して再び二人が一緒にいるとなれば妙な勘ぐりをする者もいる。そうならないために、もうこれ以上、あの件を引っ張りたくはなかったのだ。しかし、
「君との関係を終わらせたくはない」
デクスターは終わりを受け入れはしなかった。
話しているうちにだんだんと当時のことも鮮明に思い出してきた。たしかに、最初はスコット殿下を欺くために近づいたが、一緒に過ごす時間を楽しむようになっていたこと。自分でも気付かぬうちに惹かれていたこと。だが、当初の思惑がバレてシャティに非難され、そのあとすぐに会えなくなった。再会して、傷つけた償いをしたいと思っていたが、そのうちシャティにまた恋をしていると気づいた。厚かましいのはわかっているがチャンスがほしいと。
それは真剣な告白だったが。
「……貴方とわたくしの間に何かが生まれるにはいろいろなことがありすぎたわ。それに、あなたの気持ちは学生時代の感傷なのではないかしら? うまくいかなかった関係にこだわるのはやめましょう」
シャティはそう返事をした。
彼の気持ちそのものを否定した。懺悔と贖罪がまざりあって、何か特別なものに感じてしまう。そういうことはある。デクスターは、この二年、本当にあの出来事を気にしていたのだろう。だからこそ正常な判断ができなくなっている。けれど、もう彼も次に進んで良い。そうしてほしいとシャティは思った。
◇
「それで今度こそすべてが終わるはずだった。でも、それからもお父様はわたくしへのアプローチをやめなかった。というよりこれ以降、本格化したのよね」
何故、こんな厄介な縁を繋げようとするのか。これは愛や恋ではなく執着にすぎないのではないか。シャティは繰り返し諭してみたが、デクスターの情熱が冷めることはなく、そのうち絆されてしまい、結婚に至ったのだという。
初めて聞く両親の馴れ初めに、レティーシアは困惑した。
「よくお父様を許せましたわね?」
「別に許したわけではないわ。あの出来事は思い出しても不愉快だし、わたくしの人生を大きく変えたもの。でも、それはそれとして、今、目の前にいる彼がどうなのかを考えられるくらい、わたくしは前向きになっていたということよね」
「前向き……」
「そうよ。だってお父様、素敵だったのだもの」
「はい?」
「あんな素敵な方に真摯に求められて、貴方はかつてわたくしを傷つけたから嫌よっていつまでも言い続けていられる人なんているのかしら? 嫌な目に遭うと悲しいし恨む気持ちはわかるし、そこにこだわることを選ぶという選択を否定する気はないけれど、わたくしはそうは思わなかったの」
そう言って微笑むシャティはとても幸せそうに見えた。
レティーシアは、それが事実であると知っている。両親は睦まじく、愛し合っている。二人の過去を知ってから、一度は疑ったが、これまで見てきたものが仮初だとやはりどうしても思えなかった。
「だからね、貴方も冷静になってもう一度よく考えなさい。貴方が幸せになれないならこの婚約を白紙にすればいい。お父様に言えばすぐよ。でもそうなれば二度と元には戻れないわ。許せないと思うことは人それぞれですからね。貴方が今回のことをどうしても許せないというならその気持ちを尊重します。けれど、許せないじゃなくて、許しちゃいけないって意固地になっているなら、それは危険よ」
レティーシアはシャティの言わんとしていることが理解できた。しかし、
「タイミングだって、大切でしょう?」
両親の間には二年という断絶があった。その時間が二人を再び結びつけた。もし、あの時間がなかったら、こんな風に結ばれなかったのではないか。
そして、それはレティーシアにもいえる。
「わたくしが感情的であったことは認めます。彼がわたくしを好きでなかったと知って、自棄になって、あの場で婚約について言及したことは浅はかでした。でも、それは否定して欲しかったからでもあったのです。婚約白紙を突き付けたら少しは慌てて、引き止めてくださるかと、そうしてくれたら慰められるような気がしました。わたくしとの婚約を望んでいらっしゃらないのだから、そのようなことが起きるはずないのに、それでもまだわたくしは夢を見ていました。結果、彼は何も。ただ呆然としているだけ。あのとき、わたくしたちの縁は終わったのです」
アイザックの発言はショックだったが、謝罪されたら許していただろう。つい言ってしまったが本心ではないとあの場で否定してくれたら信じることにした。それが愚かなことでも彼を愛していたから。でも、そんなことは起きなかった。だから、もう許してはいけない。レティーシアとアイザックを繋ぐ糸は切れた。レティーシアが彼を愛していても、彼がレティーシアを愛していないなら、意固地にならなければ、惨めすぎる。
「そう。なら、わたくしから言うべきことは何もないわ。お父様には貴方から話しなさい」
父に話せば後戻りができなくなる。本当に最後の一歩を踏み出す、それはレティーシアのタイミングで自ら行いなさいと。――後悔しないように。
◇
「お嬢様、アイザック様がお見えです」
メイドの声がした。
父が帰宅したら教えて欲しいと言っていたのでノックされたとき、いよいよだと緊張した。しかし、告げられた内容は違った。
もう夕方も過ぎ夜といってよい。こんな時間に先触れもなく訪ねてくるなど無礼だ。
レティーシアの気持ちを察して、
「どうしてもお会いしたいと、会えるまで帰らないと仰っていらっしゃいますが、いかがいたしましょう」
彼が懇請していることを告げた。
今日中に会いに来たことは彼なりの誠意なのだろう。
話し合うべきよ。
母の言葉を思い出して、レティーシアは会うことにした。母が父の無礼に対して傷ついたことを告げたように、レティーシアもまたどれほど傷ついたか、それを告げるべきだと思ったから。それがレティーシアなりのけじめだ。
レティーシアはメイドに頼んで身支度を整えた。
最後は綺麗な姿で、それもまたプライドだった。
そうして階下に降りて行き、応接室へ向かおうとしたが。
「アイザック様は玄関でお待ちになっています」
応接室にも通していない。事情を知っている使用人たちが怒りを感じてそのような接客をしたのか。皆、レティーシアを可愛がってくれているからまったくないわけではないが……相手は侯爵子息でまだレティーシアの婚約者だ。そのような真似はいくらなんでもしないだろう。ならば、考えられるのはアイザック自身が拒んだ。
どくり、と心臓が大きく鳴った。
無意識に、アイザックが昼間の詫びに来たのだと思い込んでいたが、清算しにきたということもある。もう関係なくなるから屋敷にも入らないと。
どくん、どくん、と更に鼓動が速まっていく。
レティーシアもアイザックとの決別を決めていたはずなのに、相手から言われるとなると急に怖気づいた。このまま部屋に逃げ帰りたい。けれど、会うと言った以上はそれはできない。
震えそうな手で、扉を開く。
――え。
瞬間、甘い香りがした。
見ると、玄関先が赤いチューリップの花で埋め尽くされていた。
「レティ」
アイザックの声は硬かったが、まだレティーシアを愛称で呼んでいた。
彼の手には大きな花束があった。それも赤いチューリップだ。レティーシアが一番好きな花。
「誤解を、解きたくて」
「誤解?」
「昼間のこと……君は私が婚約を嫌がっていると解釈したのだろう? だけど、あれは婚約が嫌だったわけではなくて、手続きも何もかもを両親に進められたことが嫌だったという意味だったんだ」
それは予てから感じていた不満だったという。
二人が婚約を結んだのは十二歳のときだ。親に打診されて互いに頷いて、婚約式を開いて公にした。
年齢的には少し早い部類になるだろう。
実際、最近になって婚約をする者たちが周囲に増え始めてきた。十六歳の彼らは、十二歳で婚約した自分たちと決定的な違いがあった。それは自らが相手の令嬢に申し込んだこと。中には親の主導でする者もいたが、多くは相性を見る期間を設けて、互いに納得して、プロポーズをしてから、正式に婚約をする。アイザックはその手順を踏めずにいたことを悔やんでいた。
だから、やり直そう。
もうすぐ、レティーシアの誕生日がくる。そのときに、きちんとプロポーズをする。秘密の計画を目前に、気持ちは浮き足立っていた。そんなところにマリーナが貴族の婚約について否定的な発言をした。
同じグループになってからマリーナと関わりが増え、その独善的な振る舞いを不愉快に感じていた。何故か、彼女は自分は特別だと思い込んでいるようで、貴族の古いしきたりがいかに馬鹿馬鹿しいかを教えてあげるわ、というのが見え隠れして鼻についた。だが、わざわざ指摘するのも面倒だし、そこまでの労力を彼女に割くほどアイザックはお人好しではない。勝手にすればよいと適当に受け流していたが……流石に自分の婚約を可哀想など言われては黙ってはいられなかった。しかし、真正面から否定しても、そう思い込んでるんですね、とまったく聞き入れないのはすでに他の者とのやりとりを見て知っている。だから、彼女の意見を受け入れる風を装って、不満を感じているのは婚約そのものではなく、その過程であると論点をズラして、自分は家など関係なく彼女を愛していることを、だから、改めてプロポーズするつもりだと惚気てやるつもりだった。
だが、本当に言いたいことを告げる前にレティーシアが現れた。
まさかレティーシアが聞いているとは思わなかった。――いや、それも言い訳だ。誰かに聞かれて少しでも誤解されるような発言をそもそもするべきではなかった。
レティーシアが発言を誤解して怒りに満ちた目でアイザックを見つめてきて、婚約を考え直そうと言ったとき、あまりのことに頭が真っ白で、呆然としているうちに彼女は去ってしまった。
それが一連の真相なのだと。
「傷つけてごめん」
玄関灯の光に浮かんだアイザックの紺碧の瞳が頼りなく揺れている。その瞳を見つめていると、つい先程まであった怒りや憤りが溶け出していくようだった。
「……その花束は?」
言うべきこと、言いたいことはたくさんあったが、言葉にできたのはまったく違うことだった。
アイザックは、あっ、と小さくつぶやいて一歩近づいてきた。手に持っていた花束を差し出され、レティーシアは受け取った。ずっしりと重たい。これほど大きな花束をもらったのは初めてだった。花束だけではなく、玄関先を埋め尽くす赤いチューリップの花。
「町中の花屋を巡っていて遅くなりました」
言いながら、アイザックは少し緊張した面持ちで、胸元から小さな箱を取り出し、そのままレティーシアの前に跪いた。
「愛しています。私と結婚してください」
アイザックは箱を開いた。中からは彼の瞳に似たエメラルドをあしらった指輪が出てくる。
本来ならば、レティーシアの誕生日にするはずだったプロポーズの前倒し。今しなければ機会そのものがなくなるかもしれないと、方々を駆け回り、花を買い占めて準備を整えた。
タイミングは大切だ。
「……昼間、わたくしを引き留めてはくださらなかったので、もう終わりなのだと思いました」
「やっぱり……」
アイザックが泣きそうな顔で言った。
そう。タイミングは大切。
同じようなことが起きても、たいして問題なく済むこともあれば、大問題になることもある。そんな理不尽を縁と呼ぶのかもしれない。
でも、それだけが縁を決めるわけではない。そこには人の意思が介入する余地だってちゃんとある。
「わたくしは、カッとなって簡単に口にするべきことではないことを口にしました」
「それは私に引き止めてほしかったからだろう? 私はすぐに否定するべきだった。でも、君から婚約を考え直そうと言われたことが、とてもショックで動けなかった」
レティーシアがアイザックを思っているように、アイザックもレティーシアを思っていた。だからこそ、あんな風に突き付けられた婚約破棄は、彼にとって強い動揺を生んだ。きちんと話し合えばよかったのに、反射的に関係を終わらせることを匂わせたのは、引き止めて欲しいとの願望だったが、しかし、言われた方は脅迫であり、ショックだっただろう。なのに、引き止めてくれなかったと被害者ぶっていた自分がレティーシアは恥ずかしかった。
「レティーシア。君と生涯を共にしたい。どうか、もう一度チャンスがほしい」
レティーシアは左手を差し出した。
アイザックが箱から出した指輪を彼女の薬指にはめる。彼女のために誂えたそれは寸分の狂いなくピッタリとはまった。
◇
「どうやら、落ち着いたみたいね」
執事からレティーシアとアイザックが和解したと聞き、シャティは安堵した。
二人は誰がどう見ても仲が良かった。喧嘩らしい喧嘩もしたことがないくらいだった。ところが、レティーシアが不満を言うようになった。学園内に異分子が入ってきて、その影響を受けているらしい。
波風立ったときこそ、二人の思いが試される。何もないに越したことはないが、人生そんなにうまくはいかない。何かあるからこそ深まる絆もある。その通りに、二人は無事に試練を乗り越えた。
娘の幸せを願う母として、とても喜ばしい。
「では、旦那様にお帰りくださるよう連絡をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「……そうだったわ。お願いね」
デクスターが帰ってきたら、レティーシアはすぐに婚約について話す。一応諭してはみたが直情的な性格はそれほど簡単には直らない。だから、時間稼ぎにデクスターにはこちらがよいというまで帰らないよう伝えてある。
明日までアイザックには猶予を、それ以上は娘を任せるには情けなさすぎるという判断だったが。
「奥様……旦那様が戻られましたらどうか詳しいご説明をお願い致します」
シャティはにっこり笑顔を返す。
デクスターには理由は言わずに帰らないようにとだけ伝えてある。話せば、可愛い娘を泣かすなんて! と彼の方が今日中にアイザックの家に怒鳴り込んですべてを台無しにしてしまうからである。
とはいえ、何も告げずに帰ってくるなとだけ言われては、自分が何かやらかしたのかと悶々としてしまうだろう。それでも言いつけを守り帰宅していないのは、破れば大変なことになるという、彼の危機回避に他ならない。惚れた弱み、彼は依然としてシャティに頭が上がらないのだ。
「さぁ、旦那様を労ってあげないとね」
戻ってきたデクスターを想像し、今夜は長い夜になるだろうとシャティは覚悟するのだった。
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