生きたいと望んだから。
「……シアはね、もっとずっとちいさいときに、親に売られたんだって」
家に戻り、とりあえずシアをベッドに寝かせてから、リビングでリヴィのはなしを聞く。
シアのそばについていたほうがいい気もしたけど、こうしてはなしをするならその間離れていたほうがシアも休まるだろうと考えたのだ。シアの顔色は戻っていないけれど、それでも呼吸は落ち着いていた。ゆっくり休めるといいんだけど。
「別にそれ自体は特段珍しいことでもないんだけど、だからこそ似た境遇のこどもたちと一緒に荷馬車に詰められて、そこには監視の男がいたらしいの」
からだの前で両手を組み、視線を落として淡々と語るリヴィ。人身売買は法で規制されていて、見つかれば厳罰が下される重罪だけど、彼女の言うように現実では残念ながらそう珍しくもないくらいには横行している。俺も孤児だったから、もしかしたらそういう目に遭っていたかもしれない。決して他人事なんかじゃないことは重々承知していた。
だけどそれがまさかシアの身に起きていたなんて……。はじめて知るシアの過去に、そこにどれだけの傷があるのかと思うといたたまれない。
思わず、シアが眠る部屋のほうへと視線を馳せた。
「シアはね、なにもわかってないみたいだったわ。ただ、もう両親には会えないんだろうって漠然と感じてはいたみたい。家のことに関しては、なにを訊いてもこたえなかったから」
売られる理由なんていろいろある。金銭に苦慮して、というのがいちばん多いだろうけど、どんな事情があるにせよ、売られるほうにはたまったものではない。どういう道を辿るにせよ、あまり明るい未来は迎えられないのだから。
俺も知らない闇ではないから、シアがその過去を経てなおここにいてくれたことに心底安堵する。
……正直、そんなはなしを聞けばすぐにでもシアのそばにいって、彼女がいまちゃんとここにいることを実感したいと願うのだけど、リヴィのはなしはまだ終わってはいないため、踏みとどまった。
「……シアが詰められた荷馬車の中で、しばらくしてからひとりのこどもが泣きはじめたと言ってたわ。泣いて、泣いて、監視の男がうるさいって、黙れって怒鳴っても泣き止まなくて。……そうしたら」
淡々としていたリヴィの声が、かすかに震える。
……ああ、そうか。そういう状況のとき、悪事を働く輩が……それこそ根からの悪性の人間であったなら、余計に。どういう行動に出るか、想像に易い。
「怒鳴りながら掴み上げて……ごきん、って音がしたって言ってたから、たぶん、首の骨が折れたんだと思う。泣かなくなったその子に、男は苛立たしそうに文句を言って、荷馬車から放り捨てたそうよ」
想像はしていたけど、その下劣さに腹が立つ。そういった輩にとって、売りものにする人間は人間じゃなくてただの道具に過ぎず、それは確かに大事な商品ではあるだろうけど、大切に扱うような存在ではないのだろう。
そういった輩を取り締まるための法が敷かれているはずなのに、権力を持つ人間にも腐った連中がいるから、いつまで経ったって根絶されない。それどころか、水面下では平気でのさばって甘い汁を吸っているのだから、やるせなさが尽きることはなかった。
……そのこどもだってもちろんかわいそうだが、その場に居合わせ、まだ幼い身でそんな場面を見せられたシアの衝撃はどれほどだっただろうか。
もしかして、シアの対人恐怖症はそれがトラウマになってのものなんじゃ……。
そう思い至ると同時、その思考を読んだかのようにリヴィが顔を上げ、うなずいた。
「そう。わかったと思うけど、シアの対人恐怖症はそのときの出来事が原因よ。その光景で受けたショックが引き金で、シアははじめて魔法を使ったの。無意識だったみたいだし、よくわかってもいなかったみたいだけど、荷馬車にダメージを与えて、なんとか逃げ出したみたい。そうして無我夢中で逃げた先で、偶然イスカがあの子を拾った」
「この森を通ったんだ?」
「そうみたい。不幸中の幸い、っていうのも、ちょっと無神経かもしれないけど」
だとしても、師匠さんに拾ってもらえたのはシアにとってとても大きな幸運には違いなかっただろう。過去に介入することなんてできないからこそ、俺だってイスカさんがシアと出会ってくれたその事実に感謝したくなる。
「最初はね、もう大変だったのよ。イスカにだって、あたしにだって怯えるし、ときどき叫んで暴れることもあった。夜だって眠ると夢に見るのか、叫びながら飛び起きることだってしょっちゅうだったし、ここは安全だって何度言っても追手が来るんじゃないかってびくびくしてた。イスカやあたしに慣れるまでだって、そこそこ時間がかかったのよ」
そうなのか。いまのシアの姿しか知らない俺にはすこしばかり想像に難いけど、ヤナンの村での様子を見る限り、ありえないとも思わない。いまのシアは師匠さんのことをすごく尊敬しているようだし、リヴィのこともとても大切に思っているように見えるけど、そこに至るには大変な道のりがあったというわけか。
……ん? あれ。でも、それってちょっとおかしくないか?
「え、でも、俺には最初からふつうに接してくれてた気がするんだけど……」
自惚れ、じゃないよな? いや、うん、いくらなんでも俺が特別だからとか、そんなふうには思わないけど、でもやっぱりリヴィのはなしほどの距離感はなかったと思う。
「……主従の契約を結んだからよ」
「へ⁉」
え、いや、ちょっとなんかこう、特殊ななにかがあるのかも、とは思ったけど、いくらなんでも予想の斜め上……というか、まったく予想だにしていなかったこたえが返ってきた気がするんだが。
「ちょ、え、主従? 主従って主従?」
「主従ってほかになにかある?」
「いや、そういうことじゃなく……」
なんで若干不機嫌そうなんだ、リヴィ……。突然ぶち込まれた衝撃のはなしに困惑もするけど、そもそも俺、主従の契約っていうのがなにかよくわかっていない。俺とロイサール商会が結んでいる契約とはまた違うんだろうけど……。
「魔法の一種よ。いまは禁術扱いになっているし、そもそもそうそう使える人間もいなくなってるんだけど、別名隷属の契約とも呼ばれるわね」
「れいぞく……」
「効果は一緒。呼び名がわかれているのは、使用者の好みの問題。ほんっと、人間って品性を疑いたくなるヤツ多いのよね」
……うん、正直ちょっと同感ではある。
いや、そうじゃなく。ことばから概ね想像はつくけど、俺が聞きたいのはその効果のほうだ。
「ほんとうはシアが自分ではなすか、もしくははなさないまま解除して別れるかになるはずだったんだけど、まあいいわよね。どうあれ、あなたのために使ったんだから」
「俺のため?」
「シアが言ってたでしょ? よくない方法を使って助けたって。主従の契約って、魔法による繋がりを持つものなの。その繋がりを通して契約者同士の怪我を譲渡しあうこともできるのよ。ま、本来は主となる側が負った怪我や病気を押しつけるために使うものらしいんだけど、繋がっている以上逆もできるってこと」
…………え。
怪我を、譲渡……?
それってまさか……。
「もしかして、シアの怪我って」
「あなたの怪我よ。ぜんぶ」
がつんと、頭を鈍器ででも殴られたかの衝撃がはしる。出会った当初から気になっていた、シアの肌を覆う包帯やガーゼの数々。俺の怪我が治っていくのと同様、最近ではシアの傷も良くなっているようでほっとしていたんだけど、そんな俺を思いきり殴ってやりたい。
ほっとしたってなんだ。元凶、俺じゃないか!
「まあ、シアにも畑仕事とかあるわけだし、動けないのは困るから、動くことができる範囲でって言ってたんだけど。それなのにあの子、自分だって痛み止め飲まなきゃ動けないくらいあなたの傷、引き受けたのよ。やめなさいって、何度も言ったのに」
……俺がシアの怪我について聞くたびに、シアは言っていた。気にしなくていい、と。
そのほんとうの意味を、俺はまったくわかっていなかったんだ。それは本来俺の怪我なのに、シアが引き受けてくれていて、そうして助けてくれていたのに、なにも知らない俺が気負わなくていいようにさえ気を遣ってくれて……。
「なんで、そんな……」
「生きたい、って言ったの、あなたでしょ。シアがあれだけの傷を引き受けてなお、あなたに残っていた怪我の具合は自分がいちばんよくわかるんじゃない? シアには回復魔法は使えないから、こうするしかなかったのよ」
もちろん、致命的な部分には早々にイスカ印の薬が使われたけど、と、リヴィは続ける。師匠さん印の薬を使ってもらって、さらにシアに多くの怪我を引き受けてもらって、それでもあれだけの激痛が残ったのだ。死んでいなかったことがほんとうに不思議なほどだったに違いない。
……生きたい。と、俺が、言ったから……。
正直、そう言った記憶はない。でも、言ったと言われたら、言っただろうなとは思う。
特段、生にしがみつくほどに固執するものがあったわけじゃないけど、だからって死にたいなんて思ってなかったから。生きられるなら、生きたいと。そう望んだって、確信できる。
でも、だけど。そのために、シアにあんな怪我を負わせていたなんて……。
「……あのね。あたしがバラしておいてなんだけど、気にするなってシアが言ってたでしょ。確かにきっかけ自体はあなたの願いに違いないけど、シアが自分で決めたことで、自分で行動したことなの。だからあなたはそれに関しては気にしなくてもいいのよ。ただ、シアが最初からあなたに怯えなかった理由は、出会い当初は怯える暇もないほどあなたの状況が逼迫していたからで、そのあとは主従の契約を結んだからにほかならないってこと。主従の契約って、そのことばからも察せるだろうけど、従者のほうは主人が絶対だから。あなたは、シアの害にはならない。そう契約を結んでいたからよ」
どのみち、シアに害をなす気なんてなかったけど、それを主張できるのは俺自身だけで、出会ったばかりの赤の他人のことばに信用できるだけの価値があるかといえばあるとは言えないだろう。でも、魔法で結んだ契約があれば。絶対的な保障があるからこそ、シアは俺に怯える必要はなかったのだ。
なんか……ちょっとだけ、ほんとうにちょっとだけ、浮かれていた俺、ばかみたいだ。
いや、そうじゃなくてもばかだったと思う。なんにも知らないで、知らないままただずっと、シアに助けられていただけだったなんて。
恩返しをしたい、なんてレベルのはなしじゃ済まないだろ、これ。
ここに置いてもらってからしばらく経つが、はじめて知るいろいろなことに、なんだかものすごく凹んでくる。俺は、シアになにかを返すことができるのだろうか。
思わず頭を抱えそうになったそのとき、からだの奥からなにかを突き動かすような感覚が奔った。
「……シア!」
それがなにかはわからない。わからないけど、とにかくいまはシアのもとに急がないと。一瞬にしてそれだけが思考を占め、俺はすぐさまシアのもとへと駆けだしたのだった。