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1-06【黄金の契約者達】

(疾い──!)

ゼロから百への瞬時の加速。八咫鏡により何倍にも増幅された《風》の速度は、彩花本人すら驚愕するものだった。

コンマ二桁秒にも満たない一瞬で、直線的に天叢雲剣目掛けて翔け抜ける。しかしそれに、でいだらぼっちは迅速な反応を示した。

真っ黒な身体がの表面が瞬時に形状を変える。ハリネズミのようにびっしりと生え揃った無数の針が、彩花目掛けて一斉に射出された。

針と言っても、一つ一つが彩花の身長ほどはある。さらにその速度は、掠めただけでも余波で致命傷となるだろう。彩花はその悉くを、精霊たちとリンクした超反応により往なし、流し、抑え込む。

だがその眼前に、でいだらぼっちの腕が迫った。鈍重な動きではあるが、針の嵐を避けながらでは、なにぶん大きさが桁違いなので逃げることができない。致し方なく、障壁によって正面からまともに受け止めた。

「ぐっ……でたらめな威力ですわね!」

八咫鏡の力を借りてもなお、その勢いを殺しきれずに吹き飛ばされる。すぐに空中で姿勢を整えるが、追撃が迫るため天叢雲剣に近づく余裕はない。

ならばと、精霊たちに天叢雲剣を引き寄せるよう頼み込む。しかし神器は彩花の色術による影響を受け入れず、ピクリとも動かない。

(まあ、残念ではありますが想定の範囲内ですわ。やはり物理的に持ち上げる以外に方法は無さそうですわね)

天叢雲剣との略式契約にかかる精神力を考えれば、でいだらぼっちの相手をするのに時間をかけるわけにはいかない。巨人の身体も、時が経つにつれて成長を早めている。

「だったら、出し惜しみはしていられませんわねェ!」

言うと彩花は、右手を高々と天に掲げた。精霊たちが美しい緋色の螺旋を描きながら彼女のもとへと集い、辺り一帯の空気を鈍く輝かせた。

「っだぁ!」

振り下ろす右手の動きにリンクし、圧縮された空気が赤き《風》の拳となってでいだらぼっちを激しく殴打した。でいだらぼっちは上空より直角に、跡形もなく圧し潰された。

「どんなもんです……っ!」

 しかし、すり潰されたはずのマナは自らを抑えつける《風》を侵食し、間欠泉のようにせり上がる。湧き上がるマナは勢いそのままに膨れ上がり、元と全く同じのシルエットを形どった。

「巫山戯た奴ですわね! ならば!」

一度は散らされた《風》を集め直し、でいだらぼっちを中心としてぐるりとドーム状に囲いこんだ。八咫鏡による巨大障壁。足止めができないのであれば、せめてその攻撃を凌ごうと切り替えたのである。

狙い通り、障壁は針の掃射に耐えている。とはいえそれも長くは保つまい。彩花は急ぎ天叢雲剣へと飛び退ぼうとした。

だがその瞬間、でいだらぼっちが咆哮を上げた。湯の沸き立つようなボコボコと波のある野太い音。その一声だけで、今ほどまででいだらぼっちを囲っていた障壁は瞬きの間に姿を消してしまった。

「反作用⁉ これが……!」

物質を、そして術式を、「壊す」のではなく「消滅」させる黒の特性。若葉の屋敷で目の当たりにしたものではあるが、改めて彩花は舌を巻いた。

しかし呆けている時間はない。間髪入れずに針の掃射は再開され、更にていだらぼっちはその大きな両手の先を幾枝にも分かれさせ、鞭のように振り回し始めた。攻撃の激しさは先程までとは比べ物にならない。

「こなくそォ!」

それらの隙間を縫いながら、彩花は思考する。でいだらぼっちが、そしてクロが見せた反作用の性質について。

(通常の攻撃は、あくまでも凝結したマナを用いた破壊力。触れれば裂かれ、焼かれるだけ。だけど反作用は違う。根本的に『使っている力』が違い、常時発動できる訳でもない。──ならば、こちらの攻撃も通るはず!)

最大限に練った気を八咫鏡に送り込む。義眼の光がより一層深くなり、その輝きと同じ色の風が山々を呑んだ。

「『神話に聞こえし八首八尾やくびやお。山を連ねたその巨躯のもと、喰らえ喰らえ、毒をも喰らえ』!」

詠うような祝詞。思念による術式展開を基本とする彩花にとって、それは非常に珍しいことであった。

大掛かりな術式を展開しようとすれば、術士はそれに見合うだけの精神力が必要となる。言い換えれば、どれだけ精神を高揚させる──俗な言い方をすれば、バイブスを上げる──ことができるかが鍵となるのだ。

極端な事を言ってしまえば、その鍵は意味の無い音の羅列であろうと構わないし、言葉に限らず、踊りであっても良い。どんな方法であれ精神を高めることが出来るのならば、それがその術士にとっての最良である。彩花の場合は、それは祝詞であったというだけの事だ。

潮流の様に蠢く風は唸り、うねり、絡み合い、やがて複雑に渦巻く突風へと形を変えていく。

「見様見真似ですが……死んだ後くらいはわたくしの役に立ちなさいませ!」

それは朱赤の『獄炎』を参考に、彩花が作り出した天裂く八本の竜巻。山を根こそぎ吹き飛ばさんとする風たちが、でいだらぼっち目掛けて突き進む。

「食らい尽くしなさい! 『大蛇おろち』!」

緋色の巨大な蛇たちが、一斉にその牙を突き立てた。その圧倒的な破壊力の前に巨人は胴を穿たれ、腕を千切られ、咆哮を上げながら崩れ落ちていく。

 それを見つめる珊瑚は、身を隠した木の幹にしがみつき、吹き飛ばされないよう必死に耐えていた。

「なんつう威力よ……!」

朱赤の『獄炎』はこれまで目にした中で最大威力の色術だったが、この『大蛇』はそれすら凌駕する。それでいて緋色の輝きを身に纏い空を翔ける彩花の姿は美しく、まさに緋姫の異名にふさわしいと、こんな状況ながら珊瑚は目を奪われた。

 赤き風に飲み込まれゆく巨人。好機と見た彩花が天叢雲剣の元へと急ぐが、そんな彼女に向かってでいだらぼっちの破片たちが噴石の如く降り注ぐ。

「奇っ怪な真似を!」

速さこそ無いが、体積の大きい欠片は回避に手間取る。しかもそれらは地に落ちると無数の針となって弾け、四方八方から襲い掛かる。回避行動に割く集中力は先程の数倍にも増した。

『大蛇』の攻撃も維持しているため、精神力の消耗は相当なものだ。更に皮肉なことに、そうすればするほどに欠片たちの数は増えていく。

「クッソ! 潰しても駄目、千切っても駄目! じゃあどうすりゃいいんですの⁉」

悪態を吐く彩花だが、その胸中は焦りに支配されつつあった。

(時間が経つ毎に精神力を消耗していくわたくしと、反対に力を強める化け物。このままでは限界が近い)

次の策を立てようと思考を巡らせるが、生憎とその余裕も与えられない。更に、大型術式の連続使用は確実に彩花の精神力を蝕み、僅かながら動きが鈍くなってきていた。

(どうする? 一か八、浄化に賭けましょうか。……いいえ、この土壇場で専門外の術式に頼るのは愚の骨頂)

浄化とは、悪しきを討ち倒すのではなく邪気のみを祓うことで正常化する、色術における一つの極地である。だが難易度が高い上、戦闘に用いられる色術とはそもそもの術式が異なるので、実際に扱える術士はそう多くない。特に赤の一族では浄化を操るものなど、どの時代においても一人いるかいないかだ。

(こんなことならば暴力以外の才も磨いておくんでしたわ……なんて、今更言っても詮無きことですけれど!)

でいだらぼっちはその身を崩しながらも、次から次へとマナを吸収しているため完全に吹き飛ぶには至っていない。彩花は生まれて初めて、追い詰められる獲物の心境を知った。

(どうする、どうする、どうする⁉ この場を切り開く一手、どう組み立てる⁉)

彩花の思考はドツボにはまり、冷静な判断を失い始める。焦りに歪む表情の中で、義眼はその緋色を曇らせていく。

──ここが、限界か。

そんな弱気が顔を覗かせたその時、精霊を通して見た映像に彩花の心臓が跳ねた。

「おいおい、何してやがりますの……?」

 嘘だと信じたかった。だが彼女ならやりかねない。いや、絶対にやる。

そんな彼女でなければ、自分はここにはいないのだから。

(馬鹿だ馬鹿だとは思っておりましたが、ここまで馬鹿だったとは!)

「テメェ……珊瑚! 何してやがる!」

 張り上げた声を《風》の精霊たちが運ぶ。それは確かに彼女の耳に届いたが、そんなことで止まるはずもない。

精霊が彩花に伝えたのは、木々の間を縫って駆ける珊瑚の姿。その足は真っ直ぐ、大龍穴に向けて進んでいた。




居ても立ってもいられなかった。

いくら彩花がああ言ってくれたとはいえ、自分が何も出来ていないことに変わりはない。本人が自覚しているかはともかく、あんな泣きそうな顔をして戦う彩花を黙って見ている訳にはいかなかった。

(せめて、天叢雲剣を彩花に渡せれば──!)

 足元はあちこちにマナの残骸が散らばっており、僅かにでも触れれば神経を引き裂かれるだろう。それに天叢雲剣に辿り着いたとて、それを手にすることができるのは選ばれた術士だけだ。

だが、できるかどうかの算段など関係ない。彩花に無理を強いているなら、自分だって同じだけのリスクを背負わなくてはならない。

並び立つとは、そういう事だ。

「珊瑚ォ! 今すぐ引き返しなさいませ、この大馬鹿!」

制止の叫びが聞こえるが、構っていられない。二人を救うためには、この窮地をなんとかして切り抜けなくてはいけないのだ。

「……ああもうっ! 仕事を増やすんじゃァありませんわよ! どうしてこうも振り回されなくちゃいけませんの!」

彩花は喚きながら、『大蛇』の術式を解除した。しかしそれは諦めによるものではなく、飛び散る破片によって珊瑚に被害が及ぶのを危惧したからである。

すぐさま術式を展開し、でいだらぼっちの注意を引き付けるために攻撃を行う。加えて自分を狙った流れ弾が珊瑚に向かわないように位置の調整を行い、それでも逸らしきれないものは全力の障壁によって相殺した。それらを光速の回避行動と共にやってのけるのだ、精神的な負荷は計り知れない。

だが、不思議と彩花の中に先程のような焦燥感はなかった。あるのはただ、『守る』という強い意志だけ。

(絶対に死なせねェ。貴女もですわよ、お姉様!)

そんな彩花の援護を受け、珊瑚は大龍穴の広場へと辿り着いた。封印の岩の表面から流れるマナは、もはや湖のように広場全体に広がり、でいだらぼっちの身体へ向けて巨大な河川を形成していた。

(マナの供給量が明らかに増えてる。早くしないと)

走りながら目を凝らすと、湖の中に鈍く光る剣が確認できた。不思議とそこだけぽっかりと穴を空けるように、マナは天叢雲剣を忌避して流れている。

(あれだ……!)

 珊瑚は今、斜面の上からマナの湖を見下ろす形になっている。天叢雲剣が落ちている場所は、幸いなことにそう離れていない。

「行くっきゃない、かっ!」

そう独りごちると、珊瑚は迷う素振りもなく助走をつけ、幅跳びの要領で一気に空中に舞い上がった。

セーフティスペースは、およそ半径一メートルほど。その僅かな空間に、綺麗な放物線を描きながら重力に引かれていく。

「っつぅ!」

ズンと全身を突く衝撃。転がって受け身を取ることもできなかったため、身体全体でモロに受け止める他なかった。だが常人離れした身体能力により、彼女は見事に求めた剣の目の前へと降り立ったのだ。

「これが、天叢雲剣……」

脚の痺れを無視し、無理矢理に立ち上がる。そうして眼前に横たわる神器をまじまじと見つめた。

神話に伝わるアーティファクトは、重厚な威厳を静かに湛えている。ただそこに在るだけだと言うのに、身を竦めてしまうような威圧感があった。

(これを大龍穴の傷に刺し込めば……)

 それで全てが解決するという保証は無い。しかし、今思い付く手段はそれだけだ。

『わたくしとて触れた瞬間に身を焼かれる覚悟は必要です』

先刻の彩花の言葉がフラッシュバックするが、躊躇ってはいられない。珊瑚は覚悟を決め、天叢雲剣を掴まんとその手を伸ばした。

だがその時、思いもよらない脅威が珊瑚を襲った。

「──え?」

眼前に、無数の黒い鉤爪。

彼女の周囲を覆い尽くすマナの奔流がその形を変え、一斉に襲いかかってきたのである。

「珊瑚ォ!」

彩花も気付くが、鉤爪はもう珊瑚の喉元に迫っている。

珊瑚の危機を前にしてなお、護符はもう緑の光を発さない。永遠に引き伸ばされた一瞬の中で、珊瑚は自分の命を刈ろうとする相手をただ見つめる他なかった。

(ダメだ、死んだ──)


──きぃん。


しかし、今まさにその身を貫かんとした鉤爪が、ガラスを擦り合わせたような甲高い音と共に爆ぜ散る。

目まぐるしく動く状況を把握出来ず、珊瑚は呆然と立ち尽くした。彩花も、でいだらぼっちですらも、戸惑うように一瞬その動きを止める。

「なに、が……?」

九死に一生を得たことを漸く理解した珊瑚は、胸元に広がる仄かな熱を感じた。取り出してみると、それは効力を失ったはずの守護の護符。

受け取ってから何十年も立ったかのように、その姿は朽ち果てている。そこから黒い霧のようなものがすっと立ち消えていくのが見えた。

『一回分しか込められなかったけど、お守りだよ』

「クロ……」

録音されたメッセージを再生するように、クロの思念が脳内に広がる。それで役目を終えたと言わんばかりに、護符は千切れて風化していった。

しかし、すぐに第二陣が迫る。今度こそ珊瑚には己の身を守る手段がない。

「だァから言ったでしょうがァ⁉」

だが間一髪。瞬速で舞い降りた彩花が、二人を囲うように障壁を展開する。その額には青筋が浮かび、声はこれまでに無いほど張り上げられている。

「馬鹿! 馬鹿馬鹿ばァか! 馬鹿の極地! 自殺志願者!」

「平気だって! 傷ひとつ無いんだから!」

「結果論!」

きゃんきゃんとやり合うが、猛攻に晒された彩花は身動きを取る事ができない。足止めされた二人に、『大蛇』による損傷をすっかり回復させたでいだらぼっちが、緩慢な動きで近付いてくる。

「……おいおいおいおい。来るぞ来るぞ来ますわよォ⁉」

「見りゃわかるわよ! なんとかしなさい!」

「煩ッさいですわねェ! 無理難題を次々と!」

「できるって信じてるから言ってんのよ! いいからやれ!」

「っ……後で一発ぶん殴りますからね!」

でいだらぼっちの高層ビルのような巨体が、とうとう二人の正面に仁王立ちする。そしてその両手が、天高々に振りかぶられた。

(あの衝撃に対抗し得るとしたら……翡翠様の見せた、多重障壁の永続展開。この状態のわたくしにあんな真似ができまして?)

 そもそも彩花は守りに関する術式を得意とはしていない。潤があんな芸当を可能にして見せたのも、神器の力だけではなく元来の素質の高さがあってのものだった。

加えて、潤と朱赤といった二人の宗主との連続戦闘。短時間での二度に及ぶ神器の起動。彩花の精神力は、既に底を尽きかけていた。

(ですが──)

諦めるわけにはいかない。力を持たない珊瑚が命を張っているのだ。だったら自分は彼女の遣わす風として、最期の時まで命を燃やす。

彩花は八咫鏡を胸元にきつく抱き直すと、深く息を吸った。

(大義を果たすと、大見得切ってしまいましたからねェ!)

見開かれた彩花の義眼が、これまでに無い煌めきを放つ。

「来いやあああああああああああァ!」

目が潰れるほどの輝きを放つ大型の障壁が幾重にも展開される。日中の見事な再現、いや、それ以上の純度である。それを突き破らんと、でいだらぼっちの剛腕が振り下ろされた。

衝撃。

けたたましい轟音と共に障壁は砕け散り、見るも無惨に崩れ去っていく。だが、破られる端から彩花は次々と障壁を展開させ、緩やかに減速していく腕は、遂にその進行を止めた。

「ぐっ、ぅあ……!」

だが、押し返すには至らない。依然として破壊され続ける障壁を、それに等しい速度で展開し続けているだけである。状況は若葉の屋敷の時と同じ。ほんの僅かにも集中を乱せば、貫かれる。

「珊瑚ォ! やるならさっさとしやがりませェ!」

決死の叫びを受け、珊瑚は深く息を吐いた。

彩花が必死に時間を稼いでいる。ギリギリの状態で、ボロボロになりながら。

もう略式契約を試みることができるのは自分しかいない。失敗は、絶対に許されない。

(これが、正真正銘のラストチャンス!)

意を決し、両手でその柄を握り込む。冷たく硬い感触が彼女の手に広がった。

──その瞬間、珊瑚の腕は朱色の炎に包まれた。

「うわああああああああああああ⁉」

前契約者である朱赤の残り火が、神器を奪わんとする不届き者に天罰を下す。肌を、肉を、骨すらも焼く熱と痛みに、珊瑚は思わず手の力を緩めそうになった。だがその脊髄反射の生存本能を、絶叫しながらも強固な意志で塗り潰す。

(離すな! 絶対に離すんじゃない!)

炎は瞬く間に、肩に、胴に、下腿に──全身に回る。生きながらにして身を焼かれる激痛は、地獄の釜の拷問に等しい。

己の肉が焦げる不快な臭いが鼻を突く。握った両手の感覚は既に無い。

やがて五感が薄れ、熱と痛み以外の何も感じられなくなる。もう、自分が叫びを上げているのかどうかすらわからない。

(痛い! 痛い! 痛い!)

この二日間という短い間に、何度も命の危機に晒された。しかしこれはそのどれとも違う、目の前に存在する絶対的な「死」に一秒ごと確実に近付く感覚。疑いようもなく、このままでは自分は死ぬと確信した。

『ならば、その手を離すが良い』

曖昧な視界の中、朱色の炎が人影を象った。

『痛かろう、辛かろう、苦しかろう。ならばその手を離せ。何をしても無駄だ、貴様が命を賭す必要など初めから無かったのだ』

影は口元を大きく下弦に歪めて笑う。全ての元凶である罪人は、死してなおうそぶいた。

(……ああ、そうだ。私がこんな事をする必要はどこにもなかった)

陸橋でクロに話しかける必要も、紅井たちから彼女を庇う必要も、アパートに匿って翡翠の屋敷へ避難させる必要も、こんな所まで追ってくる必要も、そんなものはどこにもなかった。どこかで目を逸らしてしまえば、手を離してしまえば、それだけで自分は無関係の一般人でいられた。

それがどうだ。余計なお節介を焼いたせいでこんな思いをしている。痛くて、辛くて、苦しくて、死んでしまうような思いを。

いや、もしかしたら今こそが手を離すべき最後のチャンスなのかもしれない。そうしてしまえば、楽になれるのかもしれない。

『そう、諦めてしまえ。誰も貴様を責めなどせん。元より分不相応な願いだったのだから』

指先から力が抜ける。全身が弛緩し、ゆっくりと前のめりに倒れていく。

そうして剣が零れ落ちようとした刹那──

 彩花の背中が、炎の向こうに映った。

(──そうだ)

大きく足を踏み出し、ふらつく身体を押し留める。弱々しく震える腕で、燃え盛る柄を固く握った。

(誰に頼まれなくても、誰に望まれなくても──)

例え誰に蔑まれようとも。

「守るって決めたのは、私なんだぁ!」

消えつつあった五感が蘇る。音が、色が、珊瑚の世界に溢れ返った。

「うああああああああああ!」

『何故だ! 何故諦めん⁉ 何故そうまで進んで己を犠牲にできる⁉』

「勘違いすんな! 犠牲にするつもりなんて、ハナからこれっぽっちも無いわよ!」

熱は更に熱く、痛みは更に鋭く。だが、珊瑚の精神はそれすらも凌駕した。

「私は生きる! 彩花やクロだけじゃない、自分自身だって守ってみせる!」

珊瑚の叫びに呼応するように天叢雲剣が眩い輝きを放った。珊瑚の全身を覆った炎が、その朱色を失っていく。

『ば、馬鹿な! この我が、朱赤赦豪が──!』

さえずるな! 死人はさっさと黄泉の国に還れぇ!」

 気高き精神は邪心をふり払い、人影を成した悪しき炎は陽炎へと立ち消える。


 そして、まるでそれを塗り替えるように、珊瑚の内から新たな炎が具現化していく。


 その炎は優しく、美しく、そして力強く。

 見るもの全てを感嘆させる優雅さを備えて、静かにゆらめいた。

「貴女、それ……」

 でいだらぼっちに対抗し障壁を展開し続ける彩花であるが、その光にあてられて、我を忘れて振り返った。

「……うん、正直私も信じられない」

 珊瑚は震える声で呟きながら、翡翠の炎を湛えた天叢雲剣を掲げて見せた。

「どうしよう、発現しちゃった」

 十九年もの間、如何な鍛錬の末にも色術を発現しなかった少女は、今最強の伝説を手に入れた。




 正直、もう駄目だと思った。

 眼前の敵は強大で、倒すどころか留めるのに精一杯。

 一度は捨てようとした命を預けた相手は、炎に焼かれ断末魔を上げ続けている。

 そして何より、それらを前にして何も状況を変えられない己の非力さ。

 障壁を破壊される速度が、それを作り出す速度を上回り始めた頃、今度こそ自分は死ぬのだと覚悟した。

 だというのに、この女は──

「美味しいところばかり、持っていきますのね!」

 実のところ神器の略式契約は、試みた例は数あれど、成功した例はひとつとして確認されていなかった。珊瑚がその提案をした際も、正直なところ十中八九失敗するだろうと彩花は踏んでいた。

(いえ、きっとわたくしだったら無理だった)

これは珊瑚だからこそ──逆境にあってこそ真価を発揮する、真の強さを持つ者だからこそ成し遂げられた偉業である。

だが彩花はそんな称賛をひとまず置く。事は一刻を争うのだ。

「何突っ立ってるんですの! 念願叶って色術を発現したのならば、さっさと手を貸しなさいな!」

「え。あ、いや、そうは言うけど……どうやって?」

 神器を手にしたとは言え、所詮は発現間もないヒヨッ子。本来であれば術式の展開方法などを、時間をかけて確立させていかねばならない時期である。だが、そんな甘えたことを言っている場合ではない。

「目ェ閉じて神経を研ぎ澄ませなさい! 精霊たちの声が聞こえますでしょう⁉ 後は手段を問いませんから、とにかく交感を図りなさい!」

「手段は問わない、って……」

 困惑する珊瑚であるが、ひとまず指示に従うことにした。

 目を閉じ、精神を集中させる。すると暗い視界の奥で、精霊たちの声がざわめきのようなノイズとして耳に届いた。

(交感。確かお父様は──)

『いいか、珊瑚。精霊たちは目には見えないが確かにそこにいる。俺たちを見守って、導いてくれる存在だ』

 幼い日、自転車の乗り方を教えるような気安さで伝えられた色術の極意。

『だからお前が良い子にしていれば、精霊たちはきっと応えてくれる。正しく生きて、そして呼びかけ続けろ。「どうか力を貸してください」ってな』

「《火》の精霊たちよ! お願い、力を貸して!」

 瞬間、珊瑚の身体から立ち昇る翡翠色の気が、天叢雲剣を通じて爆発的に膨れ上がる。その呼びかけに精霊たちは耳を傾けた。

「それでいい! そして、イメージなさい! この化け物を討ち倒す最強の一撃を!」

(最強の、一撃)

 最強。洗練された究極のいち。悪しきを断ち切り、志を貫くもの。

(イメージしろ。敵を粉々に砕く一撃を──)

 でいだらぼっちの頭上に、翡翠色をした炎球が展開する。だがその直径は、巨体を穿つにはあまりに儚い。

「足りねェ、もっとですわ! もっと圧倒的に! 完膚なきまでに叩きのめすように!」

(圧倒的な力を──)

 眉間に深く皺を刻み、イメージを加速させる。精霊が精霊を呼び、手繋ぎのように輪を広げていくと共に、炎がその姿を急速に膨張させる。

(──邪悪を燃やし尽くす、崇高にして絶対の炎を!)

 そうして具現したのは翡翠色の太陽。清浄なる精神は、暗雲に沈んだ世界を眩く照らした。

「もう、限界ですわ……ぶちかましなさいませェ‼」

「行っけええええええええぇ‼」

 叫び声と共に、天叢雲剣を天高く突き上げる。それを合図に、恒星が巨人の脳天に突き落とされた。

 その熱と質量に押し潰され、断末魔が嵐となって吹き荒ぶ。

彩花が『大蛇』を展開した時とは異なり、でいだらぼっちは煌々と輝く炎に焼かれ、欠片を飛ばすことも無くその身を焼かれていく。爛れた両腕から力が抜け、障壁を軋ませる圧力が弱まった。

「今ですわ! 大龍穴を!」

「言われなくても!」

 踵を返し、抱えた剣の切っ先はまっすぐに封印の岩へ。足元に揺蕩うマナを焼き尽くしながら、勢いそのままに突撃していく。

そして彩花もまた最後の力を振り絞り、もはや途切れ途切れになっている意識を繋ぎ止めた。。

「「うわあああああああああああァ‼」」

 

 ──ガンッ!

 

 重い衝突音が辺り一体に響き渡る。

 文字通り、全身を打ち付ける衝撃。痺れる珊瑚の両手の先では──天叢雲剣が、見事にその穴をぴたりと塞いでいた。

 世界の全てが静止したような数秒。その後に、でいだらぼっちの輪郭がどろりと溶け出した。

「ちょっ、この……!」

 彩花は頭上から降り注ぐマナの塊を防ごうとするが、最後に残った一枚の障壁はその重さに耐えきれず消滅する。飛び退いて躱そうにも、精神力は今度こそ最後の一滴まで絞り切った。

(死ん──)

「ぐぇっ⁉」

 だが間一髪。その首根っこを後ろから乱暴に引き寄せられ、すんでのところで直撃を回避した。

「あっぶなー……ちょっとあんた、やること終わったらさっさと安全圏まで逃げなさいよね」

「それが出来たらとっくにやっておりましてよォ⁉」

 えずく喉元を押さえながら、彩花はきつく珊瑚を睨む。だが珊瑚は相手にせず、真っ直ぐに正面を見上げた。

「ほら、見なよ」

「あ……」

 でいだらぼっちの巨大な身体は崩れ落ち、スライムのような塊へと姿を変える。自ら動く意思は、もはや毛ほどにも感じられなかった。

「やったんですのね、わたくしたち」

「ええ、嘘みたいな話だわ」

 しばし二人は呆然とその光景を眺めた。達成感と、少しの誇らしさと、そして多大な疲労感に身を包まれながら。

 やがてでいだらぼっちがその輪郭を完全に失った頃、珊瑚は軽く伸びをした。

「さて……っと。仕上げといきますか」

「仕上げ? これ以上何かありまして?」

「クロを救い出すのが目的でしょ? 残ったマナにはまだ悪いものがこびり付いてるみたいだし、このままじゃ手を出せないわよ」

 確かに、朱赤の影響かはたまた【根底】の本質かはわからないが、巨人の姿を失ってなおマナの塊には邪な気が残留していた。

 だが、それを祓うとなると──

「まさか貴女、浄化を行うつもりですの?」

「もちろん、そのまさかよ」

「呆れた。貴女って人は、本当に──」

 彩花ですら試みたことのないそれを、素人に毛が生えた程度の珊瑚が行うなど、本来口にするのも畏れ多いことである。

「──本当に、退屈しませんわね」

 だが、珊瑚だからこそ堂々と宣言できるし、珊瑚だからこそきっと成し遂げてしまうのだろう。

 座り込んだままの彩花は、珊瑚に向かって手を伸ばす。

「起こしてくださる? 今日はもう、自分の身体すら支えられそうにありませんの」

「別にいいけどさ、そんなんで浄化の術式使えるの?」

「当たり前のように手伝う流れになっておりますのね……。まあ、善処しますわ。なけなしの精神力を総動員させていただきます」

 引き起こした肩に腕を回し、互いの身体を支える。そしてもう片方の手のひらは、指を絡めてきつく握り合った。

「ねえ、展開の合言葉はどうする?」

「そうですわねェ……。浄化に際して適切かどうかを無視すれば、こんなのはどうでしょう」

 こそこそと、悪戯っぽく耳打ちをする彩花。珊瑚もまた、含みのある笑みで答えた。

「……ふふっ。何それ、最高じゃん。私たちらしさ全開って感じ」

 二人の身体を通う気が、絡んだ指から互いに伝わっていく。緑と赤は深く混ざり合い、一つの色を織りなした。

「準備はいい?」

「随分と偉そうですわね、目覚めたてのルーキーのくせに」

 軽く目を合わせ、二人は口角を吊り上げる。

「いつでも行けますわよ」

「オッケー。せぇのっ──!」

「「────────!」」

 そして、二人の合言葉に応えて一陣の炎風が穏やかに吹き抜けた。辺り一面のマナたちは暖かい風に抱かれ、成仏するかの如く大気中へと霧散していく。

 もう、この地に平穏を乱すものは何もない。山は静かに登りゆく朝日を望む。

 

朝焼けの空は、輝かしい黄金に彩られていた。

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