回想 7
彼との話し合いの場は、割りとすぐに設けられた。デビュー用のドレスも作り終わり、いよいよ社交界デビューまで後数日、という日だった。場所はまたもハルムヘイマー伯爵邸。その日はお茶会と称して、彼は勿論、彼の母親の士爵夫人、主宰のクローディアおば様、アニー義伯母様、そして私とお母様が招かれていた。
ハルムヘイマー伯爵邸に着いてすぐ、士爵夫人に声をかけられた。挨拶もそこそこにあれこれ話しかけられて、何となく、士爵夫人は例の話をご存知なのかもしれない、と思った。その勘は外れていなかったようで、お茶会が始まるとそう経たない内に、士爵夫人は彼に、私と2人で庭を散策してはどうかと提案した。
特に断る理由もなかったし、彼も誘うので、私は彼と共に席を辞して伯爵邸の庭園を散策し始めた。
暫くは他愛もない話をしていた。その年はずっとドレス製作に追われていて彼と会うのは初めてだったから、お互いの近況について話したりしながら歩いていた。とは言っても主に私が、夜会用のドレス作りが如何に大変かを愚痴っていただけなのだが。それでも彼はいつものように笑いながら、時折相槌を打ちつつ聞いてくれていた。お互いに何の変わりもない、これまでの私達の普通の会話、態度だった。
だからこそ、こっそりと彼を観察していた私はますます疑問が深まったし、確信もしたのだ。彼は私に恋愛感情はない、では誰が例の話を持ち出したのか、と。……まあ、私の勘や確信はあまり当てにならないのだが。
その内、彼は庭園の木陰になる場所に然り気無く設置されているベンチに私を誘った。彼にしてみれば少年期を過ごした場所だし、私もハルムヘイマー伯爵邸は何度も訪れているので、庭園を見ながら散策、と言ってもそうそうすることがなかったのだ。毎年見事に花々が咲き誇って見惚れるが、如何せん日射しがきつい。焼けないように帽子も被り、日傘も差しているが、正に日傘のせいで手が疲れる。座らせてもらえるのは有り難かった。
ベンチに並んで――勿論、適切な距離を保って――座って、2人して暫しぼんやりと辺りの景色を眺めた。
正直、こんなことは初めてだった。だからとても戸惑った。同時に、例の話をどうやって切り出そうか、そもそも私は何を聞きたいのか、いやその前に私はどうしたいんだ、と頭の中は混乱を極めていた。要するに、この時まで私は何の答えも質問も考えていなかったのだ。なぜこんな話になったのかが気になって、他のことを考える余裕がなかったのだ。要領が悪いのも頭が悪いのも、前世から承知である。
頭の中でぐるんぐるんとあれこれ考えることに夢中になっていたから、不意にかけられた、シア、という呼びかけに飛び上がらんばかりに驚いた。声のほうに視線を向ければ、彼は私を見ながら笑っていた。
笑わないでくださいませ、と子供らしく唇を少し尖らせてみれば、ごめん、と言いつつ彼は笑い続けた。考え事をしてる時は声をかけないでくださいませといつも言っているでしょう、驚きますから、と言いながら彼の腕を叩けば、彼は笑いを堪えて真面目な顔で頷いた。そして2人で顔を見合わせたまま、少しの間。すぐにどちらからともなく笑い出した。いつもと変わらない遣り取り。……ちなみに私の話し方はお母様の真似である。中身と解離が激しいのは気にしてはいけない。
そうして暫くしてから、笑いが治まった後の彼の発言がその「いつも」を壊した。――シアもあの話を聞いたんだね? 問うその声は、確信を持っているようだった。
私はまじまじと彼の顔を見詰めた。彼の表情は穏やかで、いつもと何ら変わりない。他愛もない私の話を聞いてくれる、いつもの表情。だから一瞬、彼のいう話が、私の考えている話と同じなのかと考えてしまった。だが、いくら考えても「聞く話」と言われる話なんて例の婚約の話しか思い当たらないわけで。どう反応したら良いのか悩みつつ、とりあえず頷いた。
そうか、と微笑んだ彼は全く以ていつも通りで、どう感じているのか、何を考えているのか、相手の気持ちを推し量るのが物凄く苦手な私にはさっぱり分からなかった。ぼんやりと、拒絶というほど嫌な話というわけではないのかな、と推測するくらいしかできなかった。
どう思っているの? と問われ、当然答えを持っていなかった私は答えられなかった。代わりに、じっと彼を見詰めたまま、ジョシュはどう思っていますの? と問い返した。卑怯だとは思ったが、他に言えることがなかった。――ちなみに「ジョシュ」とは彼の愛称である。略すほど長い名前ではないのだが、初めてお茶会で会ってきちんと挨拶した時にそう呼んでいいよと言われて以来の習慣だった。私も同じように返したのは言わずもがなである。私の名前は長いのだ。――閑話休題。
彼は私の卑怯な物言いにも、気分を害した様子はなかった。ひたすらにいつも通りだったのだ。いつも通りの穏やかな微笑みだった。
だから、彼が何を言うのか、私には全く想像できなかった。そもそも想像しないのが私なのだが。
「シアが良ければ、僕は構わないよ」
彼のその言葉に、多分私は彼の顔を見たまま暫し呆けていた。彼の言ったことが頭にすんなり入ってこなかったのだ。それ故に馬鹿正直に訊いてしまった。と言うより勝手に口から問いが零れた、と言うほうが正しかったかもしれない。要するに、深く考えずに質問してしまったのだ。構わないってどういう意味ですの? と。彼は穏やかな笑顔のまま、理解の遅い私にも分かり易く言い換えてくれた。
「シアが良いなら、婚約してもいいよってことだよ」
この時、私は多分唖然としたと思う。なぜなら彼は既に社交界にデビューしていて、夜会などにも参加していた筈だからだ。そこではきっと、いや間違いなく、私よりも綺麗なご令嬢や話の合うご令嬢が沢山いた筈だ。更に言うなら、従騎士として指導騎士と共に国内のあちこちに行ってもいたのだ。市井でも沢山の女性と接する機会があった筈であった。それなのに、私と婚約するとはこれ如何に。
そう思ったから、これもまた馬鹿正直に話した。彼と話す時は大抵そんな感じなので、きっと彼も特に気にしていなかったと思う。
彼は、どなたか想うご令嬢はいらっしゃらないんですの? というある意味こまっしゃくれた私の問いに、少し声を上げて笑った。それからまた穏やかな笑顔に戻って、そうだなあ、今のところ出会えていないかな、と答えた。それからなぜか微笑んだまま、すい、と目だけを細めた。微笑みながら何かを思い出している、そんな雰囲気だった。それは分かったものの、彼が何を思い出しているのかまでは当然分からなかった私は、小首を傾げてしまった。
――今なら分かる。夜会の場で、正騎士でない紳士階級の彼がどんな風に集っている貴族達に見られていたのか。それ故のあの答え、周囲の目を思い出した故のあの表情だったのだ、と。だからこそ、本当にあの時想う相手がいなかったのかは、分からない。
彼はすぐにいつもの穏やかな笑顔に表情を戻して、シアはどう? どうしたい? と訊いてきた。私は、分かりませんわ、と正直に答えた。この時の私はまだ、恋愛というものへの未練が振り切れていなかったのだ。生まれ変わらなかったら生まれなかった未練。前世でできなかった、幸せな恋、満たされる愛。──今世でできるとは、限らなかったのに。
彼は、然もありなん、という風に頷いた。母上とよく話してみて、と助言までくれた。僕と婚約するということがどういうことかも、ちゃんと訊くんだよ、と。
彼と婚約してその先どうなるかは分かっていた。けれど私は何も言わずに頷いた。
ただ、1つだけどうしても気になっていたことだけは、訊いた。
「私がどんな答えを出したとしても、お友達でいてくださいますか? こうやって、またお話しして頂けます?」
結構切実だった私のこの願いは、破顔した彼によって肯定された。
その日、屋敷に戻ってからお母様と2人きりで話をした。彼との話し合いがどうなったのか訊かれたのだ。私は正直に全てを話した。どうしたいか分からない、と。そして。
「シアは、私は、お母様みたいに恋愛結婚がしたいです。愛し愛される夫婦になりたいのです」
前世の私が――いや、今でも私は私なのだが――こっ恥ずかしい! と叫んでいたが勇気を振り絞って、それでも姑息に顔是ない子供のように無邪気を装って言ってみた。死ぬ間際に願ったことだ。幸せになりたい、と。
お母様は私の言い分を聞いて、そうよね、と溢すように言った。ご免なさいね、とも。謝られる覚えのない私は意味が分からず首を傾げた。お母様は、ご免なさいね、と繰り返した。何度も、何度も。
結局私はお母様に説得され、社交界デビューの2日前に、彼と婚約した、とりあえず。そして密かに。その時その事を知るのは、ホストリー家――私とお母様と父、そしてダルトン士爵家、ハルムヘイマー伯爵とクローディアおば様、アルトレイ伯爵家のフェイ伯父様とアニー義伯母様とジェフ伯父様という、極々限られた人間だけだった。正式な書類に署名はしたものの、国に提出されることもなかった。本当に内密で、そしてまた、仮の婚約であった。
この時点でこの婚約が秘密裏のものとされた理由は表向き、彼がまだ正騎士になっていないから、というものだったが、実情は多分、私の願いを叶えるためだったのだと思う。それならばなぜ婚約しなければならないのか、とは思ったが、お母様にあんなに必死に説得されたら頷かないわけにはいかなかった。たとえ、引っかかることがあったとしても。
とりあえずでいいの、とりあえず、ジョシュアと婚約をしておいて頂戴、お願い、シア、あなたの為に。お母様にそう言われたことは、結局今までのところ彼に知られてはいない。
そして、「私の為に」とはどういう意味だったのかは、分からずじまいだ。そして多分、永遠に。