救出
「アオさん?どこに行くんですか?」
「野暮用だ、ついてくんなよ」
仲間の元に戻ってからも、さっき会った翠蓮という女の事が気がかりで、どうにも落ち着かない。放っておけばいいのに、それが出来ない。会ったばかりの女に何の情があるってんだ。どうかしてる。
じっとしていても、落ち着かないし、気持ち悪いだけだ。それなら、いっそ、様子を見に行こう。
コウの居場所は分かる。きっと、そこに翠蓮もいるのだろう。
危険な目にあってなければいいが……。
旅館の裏手に従業員用の出入り口がある。誰もいない事を確認し、旅館の中に入った。入ってしまえばこちらのものだ。堂々としていれば、ただの客だと思われるだけで、怪しまれることは無いだろう。身なりも整えてきた。だから大丈夫だ。それに、コウの部屋には、だれも近付かないだろうからな。呼ばない限り絶対に来るな、とでも言ってあるのだろう。
案の定、人気が全くない。物音をたてないよう、コウの部屋に近付く。扉に耳を当て、気配を探る。扉のすぐ向こうには、誰もいないようだ。
ここへ来るときに拝借した、部屋の合鍵で、慎重に扉を開けた。
耳を澄ますと、微かに人の話す声が聞こえた。
身を低くして、忍び足で、廊下を進む。無駄に広い客室だ。こんなに部屋がいるものなのか。コウ一人では持て余す広さだろう。襖がいくつも並んでいる。
一つだけ灯のともった部屋を見つけた。襖の向こうに、誰かいるのだろう。慎重に近づいた。人がいる気配がする。声の主はすぐに分かった。コウと翠蓮だ。
それにしても、あまり明るい会話ではなさそうだ。途切れ途切れにしか声が聞こえてこない。大きな声でもないので、聞き取れないものがほとんどだが、楽しくわいわい話している、というものではないみたいだ。少しでも中の様子をみることが出来れば……
――バタン
突然、部屋の中から大きな音が聞こえてきた。今の音はなんだ。何かが倒れた……?
耳を澄ませろ。中で何が起きている。
『ごめん……間違え……』
だめだ、うまく聞き取れない。でも、様子がおかしい事は確かだ。どうすればいい。下手に出ていって、翠蓮が危険な目に会うのは避けたい。
……違う、今は、状況を把握して、翠蓮を助けるのが先だ。翠蓮に危害が及ぶ前に助ければいいだけだ。
覚悟を決めて、襖に手をかけた時だった。
『出てきなよ、鼠さん』
中からはっきりと声が聞こえた。コウの声だ。
鼠とは、自分の事だろう。いつからばれていたのかは分からないが、ここで逃げるより、おとなしく出ていった方が良さそうだ。
緊張を押し殺し、目をつぶった。襖を開け、その眼を開く。
「…………は?」
その眼に映ったものは、息を呑むものだった。
女が倒れている。だが、翠蓮ではない……?
「久しいな、アオ。何が目的だ」
「何でもいいだろ。それより、その女……」
ここからは女の顔がよく見えない。生きているのか、死んでいるのか、それも分からない。
少しだけ、怖い。
「この女は、俺の客だ。死んでないから安心しろ」
「客……?もしかして、翠蓮とかいう名前の奴じゃないだろうな」
冗談のつもりで言った。違うと、その言葉が聞きたかったから。
「なんだ、知り合いだったのか」
「……うそ、だろ」
本当に、翠蓮だというのか。さっきまで、あんな綺麗な着物は着ていなかった。……ああ、そうか、コウが着せたのか。でも、コウはそんな事をするような奴だったか……?
「嘘だと思うなら、そばで顔を見ればいい。そこからではまともに顔が見えないだろう」
視線で誘導される。だが、足が進まない。何か嫌な予感がする。これ以上関わってはいけない気がする。
何を考えているんだ俺は。ここまで来て関わらない、そんな選択肢はいらない。翠蓮を助ける。それだけ考えればいいんだ。
「どうした、確かめたいんじゃないのか?」
行動を起こすことを躊躇していると、コウはその女の体を軽く抱き上げた。こちらに顔が見えるように。
眠っているが、確かに翠蓮だ。確信が持てて安心したが、罪悪感の方が大きかった。もっと注意しておけばこんな事にはならなかったのだろうか。コウの元へ向かうのを無理矢理にでも止めていたら、翠蓮はこんなことにならかったのだろうか。
考えても、起きてしまったことはどうしようもない。助けることだけに集中しなければ。
「はなせ……翠蓮を、離せ」
「……ん?何か言った?」
自分でも驚くほど、動揺しているようだ。焦りも大きい。うまく言葉が出てこない。
「もしかして、この子を助けようとしてる?ははっ!」
「っ……」
だめだ。このままでは翠蓮を助けるどころか、自分まで精神的にやられてしまう。
「ねえ、アオ。ここに来るまで、どの通路を使った?」
「……は?」
「実はね、一部の通路に特殊な香を焚いていたんだよ」
「香……まさか……」
「うん、察しが良くてたすかるよ。そんな君に質問だ。今、君はちゃんと息をしてる?」
言われて気付く。呼吸……いつもどうやって呼吸をしていたのだろう。分からない。分からないと思った瞬間、今までかろうじで出来ていた呼吸が、更に出来なくなってしまった。特殊な香とは、麻薬のことなのだろう。
「運が悪かったね。一ヶ所しか仕掛けていなかったのに。まあ、裏口から入れば、必ず通るところだったみたいだけど」
裏口……。どこまで準備がいいんだ、この男は。俺が来るのを知っていたのか?
「鼠対策はいつもしていることだよ。今日みたいな、特別な日はね」
特別……?
翠蓮と会う事が特別な事なのか?そんなに大事な客なのかよ。
苦しい。身体が重い。でも、意識はある。まだ大丈夫だ。
「コウ……おまえの目的は何だ。水蓮をどうするつもりだ」
惑わされるな。意識を保て。呼吸、そんなの無意識に出来るものだ。考えるな。いつもどおり、いつも通りの自分でいるんだ。
「答える前に……アオ、おまえと翠蓮の関係は何だ」
関係か。さっき恐喝した相手だ。なんて、正直に答えてたまるか。
「深い関係は無い」
「ほう?」
「ただ、少し情がわいただけだ」
答えになっている気がしない。でも、翠蓮の人柄に惚れた。そういう事だ。
「しばらくそばに置いておくつもりだったが……おまえが来たのは誤算だった。面倒事はごめんだ。……だから、いいよ。連れていけば?」
あっさりしてるんだな。それくらいの相手だったのか……?
「今は、おまえにあげるよ」
コウの視線の先には、翠蓮がいる。初めて会った女に、そんなにも執着する奴だったか?連れて行けと言葉では言っているが、その瞳は、絶対に逃がさないと言っているようだ。翠蓮……一体何者なんだ……。
「麻薬……飲ませてあるから。気を付けて見てあげてね」
そうだった、何か飲まされて倒れているのだろうとは思っていたが、やっぱり麻薬だったか。
「呆れたもんだな」
自分も、麻薬を吸っているが、もう気にならなくなった。呑まれなければいいんだ。翠蓮も、きっと大丈夫だ。
翠蓮の身体を背中におぶって、コウの部屋を後にした。
「またね……ヒスイ」
部屋を出るとき、コウが何か言った気がするが、何を言ったのかは分からなかった。