三、知ってはならないこと
六月、今は梅雨の時期であった。雨が降っていると皆気分が乗らないらしく、静かだ。そんな静粛が私は好きだ。何と言ったって、こんなに静かだと問題について考えることが捗るではないか。
「やっぱりこう落ち着いた雰囲気と言うのはいいものね」
有理沙も理由は違えどこの季節が好きなようだ。確かにそう言われると周りの者は皆落ちついているように見える。そんな考え方もあるものなのだな。こんな落ち着きがずっと続いてほしかった。
そんな儚い願いは叶うことはなかった。
その日、私はいつも通りの生活を送っていた。そして、いつも通りその日が終わるはずであった。それは放課後に起きた。そこには男子生徒が何人か喧嘩をしていた。そんなところを見ては止めない訳にはいかなかった。
「ちょっと、こんなところで喧嘩しないの。危ないでしょう」
いつも通り。そう、いつも通り仲裁に入ったのだった。
「うるさいな。何か悪いか」
その時私の中で何か、何かが壊れたような音がした。とても大事な、私が私であるために必要な何かが大切なものが壊れた音が。
私はそれまで、自分は正しいことを言っているそう信じていた。そして、よい行いはもっとしなければいけない。周りにもそれを広めなくてはならない。そう考えていた。
「あはっ、あはっ、あれあれ、私何しているんだろう、あれあれ、おかしいな。なんでなんで、何が正しいの、何が間違っているの。あれあれ。おかしいな。なぜなぜ、私はしてはいけないことを。ごめんなさいごめんなさい。許して許して。私を見捨てないで。見放さないで。私の声を聴いて。うぐっうぐっ」
私は泣き叫んだ。そんな私の姿を周りの者は呆然見つめていた。
三日後、私は必死に一昨日何を考えたのか思いだそうとした。だが何一つとして思い出すことはできなかった。なぜだか前と比べて私の周りから人がいなくなっている気がする。
もうなくす友人も有理沙ぐらいしかいないので、特には気なしなかったが。不思議であった。
「彩夏! 大丈夫? もう大丈夫なの?」
親友が心配そうな面持ちで私の元へと駆け寄ってきた。
「どうしたの? 私何かした?」
私は何かしでかしたのだろうか。すると有理沙はほっとしたような表情で、
「そう。ならよかった」
「なにかあったの?」
「なんでもないよ」
少し気になりはしたが、深くは踏み込まないことにした。
それからしばらく、なぜか有理沙は私に心配をかけてくれた。私は人からの親切を嫌がるような人間ではないため、ありがたくその気持ちをいただいた。こんなにもやさしい友人を持ってよかったと私は思っている。とはいえなぜここまで私を心配してくれるのであろうか。そういえば昨日の記憶が全くと言ってよいほど無い。もしかして何かあったのだろうか。私が迷惑をかけていないとよいのだが。そうであってくれと願った。
今は梅雨の季節である。雨も多い。だから私はこの季節が嫌いだ。どうも雨が降っていると落ち着かない。というより気分が乗らない。周りの皆もあまり騒がしくない。そういう点では好きかもしれない。周りが静かだと自分も静かになる。私はもともとうるさい方である。静かと言うのは慣れない。しかし、季節と言うものは過ぎるもの。時の流れに身をまかせさえすればあっという間に過ぎて行ってしまう。夏が来れば、また新たな自分を見出せるであろう。
外では、しとしとと梅雨の雨が降っている。ああ、つまらない。何もないということはこんなにもつまらないことなのか。しかしながら、安定していることも良いことかもしれない。それこそがわが同志と一緒に臨んだことなのか? それだとしたらまだ我々は何もしていない。まあ、私たちは今までにずっとこのようなことをしているのでわかる。この状態が続くのは、この梅雨の時期でしかないということを。
人を変えるためにはどうすればよいか、私はずっとずっと考えてきた。しかし、その、真の答はまだ私は見つけていない。考えるまではわからなかったが、今はわかる。この答さえ見つければこの世を変えることなどたやすいことだと。こんなことは幾人だってわかるだろう。もしかしたらこの問題も、答は案外簡単なのかもしれない。深く考えすぎてしまうのがいけないのであろうか。
私はとても厳しいので少しの間違いにもかっとなってしまう。授業中にふざけている奴らにはとてもむかつく。だがしかし、私は奴らには訴えない。訴えたところで何も変わらない。変わったとしても一時的なもので、永続的にそのままであるわけではない。
そもそも、現代は力のあり方が違うのだと私はしばしば思う。「学校」という階級社会において、最高権力者は誰であろうか? 私の答は当然「教師」ある。しかし実際にはどうだ? 生徒たちは教師をなめている。そうとしか考えられない行動、言動が多々見られる。私は先生が大好きだし、尊敬もしている。だからはっきり言って、奴らの気持ちを理解できない。なぜ教師を敬わない? 尊きものは教師ではないのか、学校の中では?
「学校」という階級社会において、一番の底辺は我々生徒である。そこからは絶対に逃れられないし、上の者には従わなければならない。下剋上なんてものは絶対にありえない、あってはならない。私がするとしてもそれは生徒のみのときであって、教師に対してなど断じてあり得ない。
では、「生徒」の中の階級社会はどうであろうか? 社会的弱者は存在する。これは権力がある以上仕方がない。では、上に立つ者はどうなのだろうか? 必ずしも強いものが立つのか、そうでないのか。明確な答を見つけるのは私には困難だ。私が階級社会のどの位置にいるのか、私の力はどれくらいのものなのか、自身で判断することは難しい。他の人から見てもらうしかないのだ。
ここで問題になるのが力のあり方である。正しい者がなぜ力を持たないのだ? 間違っている者はなぜそこまで多大な力を持てるのだ?
「学校」と言う名の社会では、真面目な者が弱者となり、力をもつ者の多くは社会的反逆者である。反逆者は排除しなければならない。しかし、それには力が必要だ。それは物理的なものもあるし、論理的なものもある。
私は前に一度、反逆者どもを一掃しようとわが同志と一緒に戦いを挑んだことがある。しかし結果は惨敗であった。敗因は明確であった。我らに加勢する者がいなかったからだ。皆反逆者に味方をする。
私たちはどうしたら勝利することができるか考えた。答えは単純だった。味方をつければよかったのだ。
すぐさま反撃を仕掛けるため、我らは戦いに加勢してくれるものを募った。誰一人として興味を持った者はいなかった。そもそも、彼らはどうでもよかったのだ。前の戦で加勢したのは、ただおもしろそうであったから、その程度の理由であったのだ。
許せなかった、ただただ許せなかった。なぜ正しいことを拒み、非に手を染めるのか。そんなことは私には理解できなかった。全員が反逆人など私にはさばききれない。我ら二人でやったとしても同じ結果となるだろう。
私たちはどうすればよいのか。私たちはどうその中で過ごしていけばよいのだろうか。
人の心というものには周りの色に染められやすい。私たちはその中を耐えてきたわけだからこの程度はどうということは無いのだが、反逆人が増えていくと思うと心が痛む。わが同志はどうなのだろうか。つらくは無いのだろうか。
私たちは反逆者の掃討を続けることをやめない。絶対にやめない。それで世界が変えられるのならば、私はどうなろうと構わない。構わないだろう、ああ私のことはどうでもいいのだ。嗚呼、誰でもいい。私の声を聞いてくれ。
こんにちは、植田です。
今回で投稿四回目となりますが、皆さんどうでしょうか。
まだまだ初心者で大変読みにくいものとなっていると思いますが、今後とも読んでくださるとありがたいです。