魔獣様はもふもふがお好き
魔界きっての大公爵であるエルンストには一匹の使い魔がいる。
もちろん使い魔といってもそのへんに掃いて捨てるほどいる小物ではない。
漆黒の毛並みを持つしなやかな肢体の獣は、人界でいうところの豹よりもさらに大きい。もっとも秘めた魔力を正確に現すのだとしたら、それこそ豹どころの大きさではない。あえて生活しやすいために小さい形態をとっているに過ぎないのだ。そして、その瞳はどの獣よりも賢い光を帯びている。
現魔王であるエルンストの兄さえも喉から手が出るほど欲しがるその美しく獰猛な姿は、魔界に住まう者たちすべてを虜にする。かくいうエルンストも孤高の彼に惚れこみ、再三通いつめたほどだ。
何度も所有権をかけて魔獣と戦い続けて、最近ようやく下した、魔界で最強という名をほしいままにするその獣の名は――。
「――ジル! どこにいる!」
ルロワ公爵家の邸内に今日もまた魔獣を呼ぶ主人の声がこだまする。いささか苛立ったそれに気づいたのか、ようやく当の魔獣はのそりと姿を見せた。そう、誇張ではない。本当にさも面倒だと言わんばかりにのそりと現れたのだ。
「おい。なぜさっさと来ない! おまえは私の使い魔だろう」
エルンストの怒りはもっともだ。ここ最近使い魔であるジルはエルンストの呼びかけに対して3回に1回は無視を決め込むのだ。ようやく出てきても嫌々といった体である。
「まったく。おまえ以外にも使い魔がいるから仕事にはなっているが、主人に逆らうとはどういったことだ」
使い魔は魔獣は言葉を使えない。だからこそこれは主人であるエルンストのただの思い込みにしかすぎないのだが、あながちそうとも言い切れない。
気だるそうに主人に向かって一声鳴いてみせると、それきりジルは興味もないと言わんばかりにさっさとその場を後にする。
「おい! なんだ!? おまえのご主人様はここだぞ! どこに行く!?」
取り残されたエルンストが怒鳴るが、もはやジルは振り返りもしなかった。
(――待っていろ、灰色)
怒鳴り続ける主人のエルンストにはまったく興味を示さない魔獣だったが、はやる心を抑えつつとあるところに向かっていた。無駄に有り余る魔力を使い歩くのももどかしいと文字通り空を急いでいた。
何故豹の身体を持つ魔獣が空を飛べるのかというと、それもこれも強力な魔力を持つが故である。
空を飛ぶことなど彼にとっては造作もないことなのだ。
(待っていろよ、私の、灰色)
文字通りジルの心はもとよりここにはなかった。口うるさいばかりの自己顕示欲まみれの主人とか名乗る黒髪の青年などとうに頭にはない。そもそも使い魔になったのもある目的の為であって、ジルにとっては下ってやった、という認識なのである。
当の青年は欠片もそう思ってはいないのだが。
して、灰色、とは何かである。
魔界の外れにある鬱蒼とした森の奥深くにある小さな家を見つけると、ジルはその手前に降り立った。
ルロワ邸から時間にして数分である。あまりの速さにジルはよしよしと前脚を一舐めする。
肉食獣から草食獣へと変化するように身体の大きさを変化させた。少しだけ大きい猫ほどまでに。
(灰色を怯えさせてはいけないからな)
毛並みを繕い、ジルは平然と家の周囲を覆う結界をあっさり破って中に入っていく。
ここはさる侯爵家の御令嬢が恐ろしい継母から逃れるためにひっそり暮らす小さな小さな家なのだ。
対外的には苛めているということになっている御令嬢の義姉が、ばれないようにここに家を建てて御令嬢をかくまってあげているという、なんとも面倒な家である。
ジルにとっては朝飯前の結界ではあるが、この森の中のどんな獣もこの結界の前には無力だろう。主人であるエルンスト並でなければ魔界の住人ですら厳しいに違いない。
この恐るべき強力な結界は義姉のお手製というから銀髪朱瞳の侯爵令嬢の実力はなかなか侮れない。
(おかげで私も安心してここにあれを置いておけるというもの)
ここに住む御令嬢は金髪碧眼というなんとも麗しい御令嬢だがもちろんジルの目的は彼女にはない。彼女ではなく、彼女の――。
「うにゃーん」
家の周囲は鬱蒼とした森のはずなのに結界の中は外界とは違っている。
花々咲き乱れる庭がこじんまりとしてあり、注ぐはずのない太陽の光は眩しいほどだ。わざわざ結界の中にこのような空間を作り上げる義姉恐るべし、である。
ジルはこの義姉はいずれ絶賛伴侶募集中の魔王あたりに捕まるだろうと他人事のように考えた。
「ふふふ、だめよ」
声がする方へジルは歩き出す。最初にここにそれを持ち込んだ時は警戒されたが、日参していく間に義姉のお墨付きで出入り可になったので、邪魔されることはない。
「あら、また来たのね、貴方」
ジルに気づくと御令嬢はふわりと笑ってみせる。
はかなげで守ってあげたいと思わせるその容姿はエルンストの好みの直球だろうとジルは思った。だが、今の彼の意識は灰色に向かっている。庭先で椅子に座りながら、膝にのせたそれをあやすのは、金髪碧眼のアネットという御令嬢だ。
「にゃ~」
その膝で甘えた声をあげるのは、ジルをここ数日夢中にさせている灰色の、灰色の、灰色の。
(なんということだ!? 灰色ではない!?)
ジルは驚愕のあまりその場に立ち止まった。
アネットの膝で丸まった毛玉の色は彼が見知っているものではなかった。どころか、なにより眩しすぎた。
「驚いているの? そうよねえ、私もこの子を洗ってあげるまで気づかなかったんだけど、とっても綺麗な銀色よね、まるでお姉さまみたいな綺麗な色でしょう」
(ぎ、銀色だと! し、しかも少しばかり白みがかかって……)
白銀色といった方が正しいだろう。ジルのような短毛とは違う毛足の長い美しい魔猫がアネットの膝でちょこんと座っている。
(か、可愛すぎる。なんだこの生き物は!! いや、前々からなんというか可愛かったんだが、今は容姿そのものが極上というか!)
「こんなにこの子が綺麗な猫だったなんて全然気づかなかったわ。灰色でくしゃくしゃでとってもみすぼらしくって、だからとっても可哀想で……まるで以前の私みたいで……ああ、ごめんなさいね。今はお姉さまのおかげで幸せだからこんなこと言ったらいけないんだけど……。なんだかこの子が羨ましくなったわ」
くしゃくしゃの灰色の毛玉。数日前までのこの猫は確かにそういう状態だった。
魔力をそうたいして持たない魔猫の拠り所はその美しい容姿にのみあるのだ。
だからこそその容姿を持たない者は生きてはいけない。美しくないと飼い主からは捨てられ、拾ってくれる者などそもそもいない。強く生きる野生の魔猫はそんな魔猫達を受け入れはしないのだ。
――待つのは死のみ。
この灰色もまたそんな魔猫のうちの一匹だった。
『助けて……』
よってたかって痛めつけられ風前の灯だった灰色を、救ったのはジルだった。力なく地面に横たわった灰色の毛玉に気づいたのは、その、もふもふ加減だった。
そう、魔獣はもふもふに目がなかった――。
ついでに言うと、灰色が薄汚れて傷だらけだったわりにはその顔もなかなか可愛らしかったということもある。若干邪な気持ちを抱きつつ、最強の魔獣らしく幾分尊大な感じで助けてやることにしたのだ。
傷を治すという名目で魔力を分け与える為にそのもふもふを存分に舐めつつ、自分の匂いを刷り込む。幼い灰色は徐々に元気を取り戻し、最終的にはジルに抱きついてくれた。
もふもふ最高、あくまでも尊大な態度を崩さないままジルは歓喜した。
しかし、この灰色は魔力をたいして持っていない。治療という名のマーキングを入念にして口でかぷりと毛玉を咥えて、このお気に入りのもふもふを隠す良い場所はないかと思案した結果、この家へとたどりついたのだった。結界を破って降り立ったはいいが、たまたまいた義姉と一戦交えかける羽目になったというおまけつきで。
まあ可哀想な子猫ちゃん、とアネットが灰色を抱きかかえたので、ジルは安心して住処へ帰ったのだ。
おいそれと侵入できない強力な結界の中にもふもふを預けて。
心優しい侯爵令嬢は灰色を可愛がってくれた。
毎日のように日参してはもふもふを存分に堪能し、いずれ自分の身を守れるくらいの大きさになったら側に置いていつでももふもふしようという野望を抱く。
そしてその為にある程度の権力を持つ主人は必要だろうと考慮の結果、上手くエルンストの使い魔として寝床を手に入れた。だが、仕事は適当にさぼった。
適当に仕事をして、存分にもふもふしようという予定だった、予定だったのだが。
「あらあら、ルーがとっても綺麗になったから驚いているのね。今日は撫でてあげたり、じゃれたりしないのかしら」
「なーん」
たん、とアネットの膝を飛び降りるとルーと呼ばれた魔猫はジルのもとへ駆け寄った。
『こんにちは、ジル様』
『う、うむ』
『えへ、とっても綺麗になったの、見て見て。私ずうっと灰色だと思ってたんだけど違ったみたい』
『な、なかなか綺麗になったではないか』
撫でて撫でてとぐりぐりと頭をこすりつける灰色もといルーにジルは動揺する。もふもふは好きだが、どうしても急に綺麗になったルーを前にその手が出ない。
『ジル様?』
『な、なんでもない!』
『……変なの』
側におきたいというのはそういう意味ではなくて、と違う種類の汗をだらだらと流しながらジルは後ずさる。最強の魔獣らしからぬ失態である。
『ジル様?』
愛らしく上目遣いで尋ねる白銀の子猫に、ジルはくるりと背を向け、そして――。
『もふもふなんて、もふもふなんて、もふもふなんて嫌いだ!!!』
一目散に慌てて逃げ帰る黒猫を、まあと驚いてアネットは見つめた。足元にはなんだかよくわからないけれど傷ついた白猫が一匹。にゃーと鳴いて首をかしげてアネットの膝元へと戻っていく。
――最強の魔獣様の恋は、まだ始まったばかり。