第六章 後編
馬車の揺れ。
座席の柔らかさ。
全てに親しみがない空間で、ルクレアは自身を抱きしめるように腕を組み、俯いていた。
「何故領主様に呼ばれたんだろうな」
「……さあね」
いつもと変わらない様子で正面に座っているロイドの言葉にルクレアは少しだけ、顔を上げる。
いや、いつもは横に並んでいるか後ろをついて行っていることが多い。
正面から向き合うのは少しだけ新鮮だった。
「……どうした?」
「……何でもないわ」
首を傾げたロイドは、少し考えてから自身の荷物を探り出す。
そして、ルクレアに軽食のクッキーが差し出された。
「……なんのつもり?」
「緊張や馬車での酔いならば、腹の中身が空なのはよくないだろう?」
至極真面目な顔で告げられた言葉に、ルクレアは呆れたようにため息を吐く。
「馬車の中でこんなの食べたら、舌噛むわよ。そもそも、こんな豪華な馬車を汚していいわけも、食欲があるわけもないでしょ」
「……それもそうだな」
呆れながら、もう一度ため息を吐いたルクレアは腕を解いて、座席に座りなおす。
胸元の聖女の証の重みが、軽くなった気がしていた。
柔らかい地面を蹴る音が硬い石畳を叩く音に変わっていく。
馬車の揺れが収まってくる。
窓から見える森が途切れた。
ゆっくりと速度を落とした馬車が開かれた門の先へと進んでいく。
大きな館の前で、馬が足を止めた。
「降りろ」
開かれた扉から、ロイドがすたすたと降りていく。
差し出された手を取り、ルクレアも馬車から足を踏み出した。
「執務室で領主様がお待ちです」
馬車から降りた二人を出迎えた従者が恭しく、頭を下げる。
今更、嫌だ、なんて言えない。
言える立場でもない。
「分かった」
返事をしてついて行くロイドの少し後ろをルクレアもついて行く。
柔らかい絨毯。
旅で草臥れた靴で踏むのには躊躇してしまう。
美しく磨かれた窓硝子。
映りこむ姿から目を逸らした。
目の前の背中だけを視界に捉え、震える腕を抑え続けた。
従者が扉をノックする。
「聖女ルクレア様と騎士ロイド様をお連れしました」
「入りなさい」
ロイドとルクレアは部屋に入り、礼を取るために恭しく頭を下げる。
部屋にはインクと紅茶の香りが満たされていた。
領主がペンを置き、咳ばらいをする。
「楽にしてくれて構わない。立ち話もなんだからね……どうぞ、かけてくれ」
指されたソファに目を向けて、一瞬、ルクレアは動けなくなってしまった。
しかし、もう一度頭を下げてソファに腰かけたロイドを見て、急いで後を追う。
「よく来てくれたね。君たちのおかげで領民に被害も出ずに魔獣が倒せたと報告を受けている。改めて礼を言わせてくれ」
向かいに腰かけて柔和な笑みを浮かべた領主に、ルクレアはどうしていいか分からないままに頭を下げることしかできない。
「それで、ここに呼んだ理由は、礼をしたい……だけではないんだ」
膝の上で握った手に力がこもった。
時計の音がやけに耳につく。
「君たちも聞いているかもしれないが、実は……」
領主の言葉が扉の向こうから響く足音で遮られた。
全員の視線を集めた扉が勢いよく開かれる。
「お父様!! 聖女様が来たって本当ですの!?」
跳ねるような快活な声。
輝きに満ちた瞳。
美しく整えられていたであろう黒い髪は乱れ、ドレスを振り乱しながら部屋に入ってくる。
扉に手をつけ、息を乱している少女に向かって、領主が大きくため息を吐いた。
「……セレス」
セレスと呼ばれた令嬢は、ずかずかと部屋の中に踏み入ってくる。
そのままソファの傍まで来るとルクレアの手を取り、無理やりに立ち上がらせようとしてきた。
「え……?」
「聖女様! 早く来てくださいまし!」
貴族令嬢の手を振り払うわけにもいかず、ルクレアは引きずられるように立ち上がる。
ロイドが一瞬手を伸ばすが、ルクレアは首を横に振る。
部屋の外へと連れ出される前に、穏やかだった領主が叱るような口調で令嬢を呼び止めた。
「セレスティーナ! まだ、お父様が話をしているだろう!」
令嬢、セレスはびくりと肩を震わせてから領主の方を上目遣いで見つめる。
「で、でもお父様……怪我をしている方たちが待っているんですのよ」
「それでも、だ。ちゃんと話をしてお願いしないといけない。何も分からないまま、力を行使させるだなんて、強盗と何も変わらないだろう?」
諭すような口調の領主にセレスはルクレアの手を掴む力を緩める。
ルクレアはそっと手を離し、少し後ろに下がった。
「娘が、失礼したね。どうか、もう一度話を聞いてもらえるだろうか?」
「……はい」
目の前に居るのは、本当に貴族、領主なのだろうか。
ルクレアは少し混乱しながらも、促されるままにソファに座りなおす。
セレスは領主の隣の椅子に腰かけた。
どうやら、今度は大人しく話を聞いているようだ。
「改めて、ここに呼んだ理由だが……聖女様に、力を貸してほしくてね」
真っ直ぐ見つめてくる領主の視線から逃れる様に、ルクレアは手元のティーカップの中で揺れる紅茶の波紋を見つめる。
「知ってるかもしれないが、ここ最近隣国との情勢がよくないんだ。元々小競り合いはよくあったが……それで収まらなくなってきている」
紅茶の香りが鉄の匂いに変わる。
時計の針の音が拒絶と苦悶の声に聞こえた。
そんな気がして、ルクレアは軽く腕を抑える。
そんな筈はない。
「こちらにも、相応の被害が出ていてね」
「……貴族を癒す聖女ならば、他に居るのでは?」
ルクレアの言葉に領主は苦々し気に頷く。
そして、眉を下げて窓の外を眺めた。
「勿論、我が領にも聖女様が来てくれていたが……奉仕の拒否をされてね。無理強いをするわけにもいかない。新しい聖女様を教会が手配してくれる間、どうか、助けて貰えないだろうか?」
「私に、戦場で、国境警備隊の治癒をしろと……」
嫌な記憶に蓋をするように、早口で告げれば領主は眉を下げる。
「勿論、君の安全は保障できるように……後方、教会の治療院に運び込まれた怪我人だけでも助けて貰えれば、それでいい」
眩暈がする。
ここにはない筈の赤が目の前に散っているような気さえして、吐き気がした。
だけど、分かっている。
領主、貴族の命をたかだか平民出身の聖女、罪人が断れるわけがない。
「……俺たちは、魔獣退治の王命を受けています」
ルクレアが頷く前に、ロイドが口を挟んだ。
領主はその言葉に、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「分かっている。だが……」
「魔獣も大変ですが、今死にかけている方が大勢いるんですのよ!!」
勢いよく机を叩き、セレスがルクレアに顔を近づける。
真っ直ぐこちらを射抜くような瞳は残酷なまでに澄み切っていた。
「……報酬次第です。それと、治癒する対象は、命が危うい怪我だけ」
真っ直ぐな光から逃げるように、ルクレアは視線を逸らす。
目の端で、セレスが眉をつり上げた。
「怪我を治せるのに、苦しんでいる人を助けないつもりなの!?」
「セレス!!」
食って掛かろうとする勢いで腰を浮かせたセレスの腕を領主が強く掴んだ。
そして、娘を席に座らせた領主は立ち上がり、頭を下げる。
「……聖女様のご協力に、感謝する」
たかが、国に動かされる平民聖女。
教会から正式に派遣される貴族出身の聖女様とは、何もかもが違う。
目の前の領主がそれを分かっていない筈はない。
「……報酬があるのなら、仕事ですから」
「ありがとう。魔獣討伐やここまでの移動で疲れもあるだろう。今夜は休んでくれ。明日から……お願いするよ」
「……はい」
頷きを返したルクレアにロイドが黙って視線を向けた。
目の前ではセレスが唇をわなわなと震わせている。
領主の厳しい視線がセレスを止めていなければ、ルクレアに掴みかかりそうな程だった。
「部屋と食事の用意をさせよう。他にも必要なものがあれば、屋敷のものに言うといい」
三人からの視線がルクレアに集まっている。
その場から駆け出してしまいたい気持ちに、自身を抱き締めるように回した腕に、痛い程に力を込めていた。
久しぶりの暖かい湯と味わったこともないような食事を堪能したルクレアは、ベッドにゆっくりと沈み込む。
天井が遠い。
触れたことが無いほどに柔らかなシーツが、ルクレアの身体を受け止める。
ぼんやりとしたまま腕を額に当てれば、水気の残った肌がしっとりと貼り付く感覚がした。
疲れに身を任せるままにうとうととしていたルクレアの耳にノックの音が届く。
緩んだ身体が強制的に強張り、急いでベッドから身体を起こした。
「俺だ」
扉越しに聞こえた声にルクレアは肩の力を抜く。
起き上がり、扉を開けば、そこにはロイドが立っていた。
「すまない。寝ていたのか」
「寝てないわ。ちょっとゆっくりしてただけよ」
ロイドの視線が向かった髪を手で直しながらルクレアは憮然と答える。
「どうしたの?」
「……大丈夫か?」
真っ直ぐとルクレアを見つめるロイドとルクレアは目を合わせない。
「……平気よ」
「そうは見えなかった」
ロイドの言葉にルクレアは眉間に皺を寄せ、顔を上げた。
しかし、ロイドの静かな表情に、口を開けなくなる。
「治癒魔法の対価を求めるのは分かる。当然のことだ。だが……それだけでは、ない気がしている」
ルクレアの鼓動が早さを増していく。
震えそうになる唇をきゅっと噛み締めた。
「何か、癒したくない理由があるのか?」
責めるわけでも、怒りをぶつけるわけでもない。
静かな問いにルクレアはどう返せば良いのか分からない。
黙り込んだルクレアにロイドが手を伸ばそうとした時、後ろから怒鳴り付けるような声が聞こえた。
「どうして、治療を拒絶しますの!? 聖女様!!」
二人の間に割り込むようにセレスがルクレアに詰め寄ってくる。
「セレス様」
「止めないでくださいまし!! 騎士様!!」
ロイドの静止を振りきるように、セレスはルクレアとの距離を詰めようとする。
ルクレアは咄嗟に後ろに下がろうとするが、固い扉がそれを阻んだ。
「お父様はああ言っていましたが、わたくしは納得できませんわ!! 今、こうしている間にも苦しんでいる人がいますのよ!!」
「……領主様には明日から治癒を行うようにと言われました」
逃れられない距離に、ルクレアはせめて視線だけはセレスの真っ直ぐな瞳から逃れようとする。
「あなたにも、人を助けたい、救いたいという思いはある筈でしょう!! 聖女なのだから!!」
指先が凍えるように冷たくなる。
しかし、胸の鼓動は早さを増して、胸の辺りが熱く、息苦しい。
「どうして、力があるのに正しく使おうとしませんの!!」
正義に満ちた瞳がルクレアを責め立てる。
セレスの瞳から零れ落ちた涙が、頬を濡らした。
「……あたしは、仕事をしているだけですから」
魔獣の巣で失った命を思い出してしまう。
思い出したくないけど、忘れたくはない記憶がルクレアの心を蝕んでいく。
胸が熱くなって、肺が上手く動かなかった。
「人を思いやる、優しさもなくて……それでも、聖女なんですの!?」
セレスの言葉にルクレアの心が冷えていく。
貴族に対する礼儀。
聖女として相応しい対応。
そんなものは全て頭から抜け落ちていった。
目の前のセレスに向かってルクレアは静かな、低い声で言葉を投げる。
「あたしだって……治してるだけで正しいって、優しいって言って貰えるならそうしてたわよ!!」
セレスが目を大きく見開いた。
そのまま息を飲んで固まってしまう。
貴族令嬢に感情をぶつけるように怒鳴り付けるなど、誰もしなかったのだろう。
飲み込みきれなかった感情で渦巻く心と反対に冷静な頭が、自分の処遇を考え始める。
また、牢屋にでも入れられるかもしれない。
いや、それもいいかもしれない。
そう考えながら、ルクレアは無意識に隣の彼に視線を向ける。
「セレスお嬢様!!」
沈黙を破ったのは、騒ぎに気がつき、駆けつけた館のメイドの声だった。
「何をなさっているのですか!! また、領主様に叱られてしまいますよ!!」
「でも……」
「でもも、なにもございません!!」
長く勤めているのか、気が強いのか。
メイドはそのままセレスを引っ張っていってしまう。
「……もう、休むわ」
何も見たくないと俯き、ルクレアは客室へ戻る。
ベッドに横たわるルクレアに穏やかな眠りが訪れることは無かった。
昨夜の処分を言い渡される事もなく、ルクレアは治療院へ向かう馬車に乗せられる。
向かいに座るロイドはルクレアを見つめているが、何も言うことはなかった。
馬車が教会に着き、昨日と同じように先に降りたロイドが手を差し出す。
ルクレアは躊躇いながら、その手を取った。
清廉な空気。
厳かな雰囲気。
ルクレアが教会に足を踏み入れれば、それらは霧散して消えた。
信徒達が遠巻きにルクレアに鋭い視線を向けていた。
胸元の聖女の証に集まる視線に嘲笑される。
「……平民聖女が何のつもりだ」
「……自分の分も弁えられないのか」
そんな空気を破るように、奥から聖職者が一人駆けてくる。
彼はルクレアの聖女の証に安堵の表情を浮かべた。
「聖女様!! よくお越しくださいました。到着して早々で申し訳ありませんが、こちらにどうぞ」
奥の治療院の方へと通されれば、周囲は慌ただしく走り回っていた。
周囲は消毒液と鉄の匂いが満ちている。
水桶を抱えて走る見習いの少女が躓き、転んでも、誰も助けを差しのべる余裕すらない。
ロイドが一瞬、少女に駆け寄ろうとする。
しかし、ルクレアを見て、その場に留まった。
「治癒魔法を必要としている者達はこちらの部屋におります」
部屋の前でルクレアは足を止めてしまう。
周囲の足音に拒絶の声が混ざる。
人でなし、と誰かがルクレアを指差した気がした。
いつもの時間。
ルクレアを使う者の指示が。
「ルクレア。……大丈夫か?」
隣に立っていたロイドがルクレアの顔を覗き込んでいた。
汗が首を伝っていく。
周囲で駆け回る聖職者たちの声が聞こえてきた。
「……大丈夫よ」
目の前の扉を開き、中に入る。
消毒液の匂い。
血が滲んだ包帯が巻かれた怪我人が等間隔に寝かされている。
彼らの傍で必死に手当てする者がルクレアを見て、瞳に輝きを灯した。
「聖女様が来てくれたぞ!! 絶対に、助かるからな!!」
寝かされた怪我人がルクレアを見て、瞳から涙を溢す。
「たすけ、て……」
苦痛に顔を歪めながら、溢れた言葉にルクレアはなにも返せない。
ただ彼の傍に膝をつき、手をかざした。
苦痛に満ちた声。
助けを求めるように伸ばされた手。
ルクレアの治癒魔法によって怪我が治っていく。
治癒魔法の作用による激痛。
苦しむ顔をルクレアは再び脳裏に焼き付けることなった。
最後の一人の治癒を終えた頃には、傍にいた付添人もあまりに痛々しさに顔を歪めていた。
降ろした手の感覚がない。
汗で服が貼り付く感覚にももう慣れてしまっていた。
「聖女様。本当にありがとうございます」
いつの間にか戻ってきていたらしい案内人の聖職者がルクレアに深く頭を下げる。
「……仕事をしただけよ」
素っ気なく返したルクレアに周囲が視線を向ける。
いつもの痛みはなく、何故か胸元の聖女の証が軽く思えた。
「立てるか?」
差し出された手を取り、立ち上がる。
久しぶりにまともに血が流れて、頭が重くなり、足元がふらついた。
「抱えていくか?」
「……要らないわよ」
そんな悪目立ちするだなんてごめんだと、真面目に尋ねるロイドをじとりと睨む。
扉の外に出れば、涼しい空気が頬を撫でた。
一瞬立ち止まり、視線の先にいるセレスに気が付いてしまった。
「あ……」
彼女もルクレアに気が付き、立ち止まった。
セレスは開きかけた口を閉じて、包帯を抱え直し、昨日よりも丈の短いドレスを翻して走り去る。
貴族令嬢とは思えない程に汗をかき、髪を乱して駆け回るセレスが眩しく見えて、ルクレアはまだ震えを残している手元を見つめた。
辺境領に来て数日。
馬車で運ばれるのにも慣れ始めた頃。
「聖女様。こちらもお願いします」
「分かったわ」
聖女様、という呼び方に違和感なく返事をしたルクレアは、今日も重傷者の治癒を行う。
最初の方こそルクレアの様子を傍で見守っていたロイドだが、今ではいつもの人助けに、教会中を駆け回っているようだ。
治しても治しても、怪我人は減らない。
昨日治した者が次の日にまた運び込まれる、なんてことも珍しくない。
しかし、戻りたくない、治さないでくれと言う者は居なかった。
志願兵である彼らの決意と強さに、ルクレアはもう少しここでこうしていてもいいかもしれないと、そう思っていた。
正式に任命された聖女が来るまでは。
「聖女様が来られたぞ!!」
明るい声が教会中に広まっていく。
皆の心に新たな希望が灯された。
ルクレアを除く皆に。
治癒を終えて部屋から出てきたルクレアの目の前に美しい聖女が立っていた。
柔らかな表情。
たおやかな仕草。
銀色の髪が光を反射している。
美しく澄んだ瞳がルクレアを捉えた。
「代理の聖女様にお礼を伝えに来たのですが、あなたは……もしや、聖女ルクレアですか?」
ルクレアは一瞬黙ってしまうが、嘘をついても仕方がないと、首を縦に振った。
目の前の美しい聖女の顔が憎悪に歪む。
「ここに一体、何をしに来たのですか!! まさか、ここでも……!!」
腕を乱暴に掴まれ、痛みに顔をしかめる。
「いきなり、なんなのよ……!!」
引っ張られた腕を振り払い、ルクレアは鏡写しのように眉を吊り上げる。
周囲は突然起こった争いを見ていること出来ない。
「なんなの、ですって!? 知らないと思っているの!? あなたが、過去に徴兵された平民の皆様に、何をしたのか!!」
ルクレアの心臓が凍りついた。
呼吸が出来ない。
視界が狭まって、世界が遠くなっていく。
「あなたが、治療を拒絶した兵を無理矢理に癒し、戦場に立たせ続けたことも! 悪戯に民を苦しめ、喜んでいたことも!! 全て知っているのよ!!」
遠巻きに囲んだ人たちが声を潜め、ルクレアを見つめる。
ルクレアの罪が知られてしまった。
ここでなら、自分でも役に立てる筈だったのに。
もう、罪を犯さなくてもいい筈だったのに。
「ここでも、怪我人にわざと苦しみを与えるような真似をしていたのでしょう? でも、わたくしが来たからにはそうはいかないわ!!」
正義に断罪される。
誰も異を唱える筈などない。
ルクレアは切り捨てられる、代わりの聖女に過ぎないのだから。
力の抜けた腕をだらりと下げたルクレアの視界の端で、何かが動いた。
「あなた、いきなり来てその言葉は、あまりにも失礼ですわ!!」
ルクレアと聖女の間に割って入ったセレスが、ルクレアに背を向けて大きな声を出す。
「失礼だなんて……わたくしは本当のことを言っているだけよ!」
「本当のことですって!? 彼女は他人の命を救ったのでしょう!! それが間違っている筈なんてないですわ!!」
セレスの真っ直ぐな言葉に足元がぐらりと揺れた。
振り返り、瞳に涙を溜めたセレスがルクレアの手を取る。
「あんなことを言ってしまい、申し訳ありませんでした。わたくし何も分かっていませんでしたわ」
目の前のセレスが眩しくて、思わず目を逸らしてしまう。
セレスはきっと正しい。
では、彼女はどうだろうか。
ルクレアを睨みつける聖女に目を向ける。
彼女も間違えていない。
ルクレアが、多くの人を苦しめたことは事実だ。
では、ルクレア自身は。
思考を断ち切るように、ルクレアはセレスの手を振り払い、駆けだした。
何が正しいのか分からない。
どうすればいいのかも。
正しくいられなかった。
悪にもなりたくなかった。
そんなルクレアに居場所などはないのが当然だ。
疲れている足を動かして、教会の門をくぐった。
正式な聖女が来たのならば、罪人であるルクレアに役割などはない。
胸が裂けそうなほどに足を動かす。
誰にも責められない場所を求めて、街の外れの路地に入ってルクレアはしゃがみ込んだ。
鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。
零れ出そうなそれを、必死に抑え込むように唇を引き結ぶ。
冷たい壁に背を預ける。
誰の声もしない静かな路地。
ルクレアの唯一の居場所だった牢屋。
そこにはなかった声がした。
「……ルクレア」
ただ、ルクレアを見つめるだけのロイドが立っていた。
「……何よ」
何かに抗うように、眉を上げてロイドを見上げる。
ロイドはやはり表情を変えずにルクレアを見ろしていた。
「……突然、駆け出して行ったから追いかけてきた」
「なによそれ。別に追いかけて欲しいなんて言ってないわよ」
膝に顎を乗せ、唇を震わせながらルクレアは地面を見つめる。
路地の入口に立っていたロイドが歩み寄る気配がした。
「言われていない。ただ、一人にしない方がいい気がしただけだ」
隣に腰を下ろしたロイドの表情は見ることは出来なかった。
ただ、旅の道中と同じ。
二人だけの空間にルクレアは詰めていた息をそっと吐きだす。
「……聞いてたんでしょ」
「何をだ?」
「……あたしのしたこと」
「聞いていたな」
責めるわけでも、距離を取るわけでもない。
ロイドの態度に、ルクレアは戸惑いを覚える。
「何も言わないの?」
「何を言って欲しいんだ?」
少しの沈黙の後、ルクレアは膝に顔を埋める。
ぽつりぽつりと、震える唇から言葉が零れ始めた。
「あたしは、確かに治したわよ。けど、それで苦しんだ人が居るのも本当のこと」
冷たい命令の音。
拒絶と恐怖の瞳。
苦悶の声。
全て、ルクレアが聞いてきた事実だ。
「聖女って、言われても……あたしはただ治せるだけよ。苦しみたくないなんて、生きたくないなんて言われても、あたしにだって、どうしようもないのに!」
目の奥が熱い。
それでも、それを認めたくはなかった。
ルクレアの涙に価値などないのだから。
膝を抱えた手が暖かくなる。
そっと重ねられた鼓動にルクレアは顔を上げた。
「俺には、あまりよく分からない。だが、少なくとも俺はルクレアの治癒で苦しみはしない。お前のおかげで助かっている」
困ったような顔で告げるロイドを見つめる。
励まし、のつもりはないのかもしれない。
それでも。
「……もう、ここには用はないわよね」
「ああ。聖女が来たのなら、俺たちはもういいだろう」
「なら、早く次に行きましょう」
少しだけ、暖かいこの場所で。
ルクレアは隣にだけ聞こえるような声で呟いた。




