9
「すまなかった!」
春華さんと面会できるようになって数日後。
僕は大学の食堂で秋貴から深く頭を下げられていた。
「い、いや、待ってくれ。何で謝るんだよ」
「両親のことだ。お前に危害を加えてしまった。それに姉のことを黙っていた。大きな迷惑をかけただろう」
「そんなことないよ。むしろ連絡とかくれて助かったし、謝ることじゃないし、とりあえず頭を上げてくれ」
このままだと変な噂が流れかねない。
「しかし・・・・・・」
「いいんだ。むしろ僕こそありがとう。春華さんのお見舞い、ちゃんと行けたよ」
「そ、そうか」
安心した表情を浮かべる秋貴。
「実のところ、姉貴もずっと心配していたんだ。・・・・・・もしかしたらもう春馬が見舞いにこないかもしれないと」
「そんなこと・・・・・・」
ないとは言えない。
秋貴の連絡を受けたときはまだ迷っていた。本人からのメールで僕は動けたのだ。
「これかも姉貴を頼む。春馬に心を開いているようだから」
「そんなことないだろ。春華さんの性格だよ」
「でも、きっと春馬は特別だ」
「特別?」
「ああ、そうだ」
「そんなことないと思うけどな」
だって、そう言われてもしっくりこない。
僕の気持ちはそうだと言えるかもしれないが、春華さんにとってはあくまでも親しい友人といったところだろう。
「まあ、今はいいさ」
「含みのある言い方だね」
「そんなことはないよ。ただ、姉貴とは仲良くしてやってくれってだけだ」
「それはもちろんだけど、でも、ご両親は否定的なんだろ?」
「親は関係ない」
秋貴は声を低くして、
「姉貴も怒っていた。春馬は気にしなくていい」
「そういうわけには」
「いいんだ。春馬と、姉貴が望む通りに生きてくれれば」
「そ、そう言うなら・・・・・・」
強い言葉の意思を感じて、僕は頷く。
「あのー、そろそろいいですか」
そんな声が横から入ってきて、
「冬木」
「叶」
「二人ともどこで真面目な話をしようと結構ですけど、かなり目立ってますよ」
冬木は座席を指差して「こっち座ったらどうですか」と促してくれる、どうやら自分が確保した席を提供してくれるらしい。
「ごめん、ありがとう」
「すまん」
二人で頭を下げると、
「い、いいですから、そういうの。ほら、早く座ってください」
「うん」
言われるがまま僕達は椅子に座って、一息つく。
「先輩、憑き物が落ちたような顔してますね」
「え、そうかな」
「そうですよ。少し前までひどい顔してましたもん。一番やばかったのは雨の中で拾ったときでしたけど」
「雨の中で拾う?」
「そうなんですよ、秋貴先輩。二週間ほど前だったかな、先輩、デートだって浮かれてたのに何故か道路で倒れてて」
「いや、その話はいいから」
気恥ずかしくて中断させようとするが、秋貴はいつの話か察しがついたようで。
「すまない」
「いや、秋貴が謝るようなことじゃないって」
「私もそう思いますけど。どうして謝るんです?」
「ああ、叶も関わったなら、事情を話しておかないとな」
そう言って秋貴は今までのことを軽く説明する。
「はー、なるほど。先輩のお相手の弟さんだったんですか」
「ああ」
「そう言われると納得がいきますね」
「納得?」
僕が訊き返すと、冬木は頷いて、
「いやだって、ぼっちの先輩にこんなイケイケな友人が唐突にできるとかないでしょ」
「失礼だね、君」
まったくもって事実ではあるけども。
「ともかく黙っていて悪かった。春馬にも、叶にも」
「いいですよ、そんなの」
「そうだよ。気にしないでほしい」
「そう言ってくれると助かる」
秋貴はもう一度頭を下げた。
「それより」
冬木は話題を切り替えるように口を開いた。
「先輩は伝えることが出来たんですか」
「まあ、どうなんだろう」
厳密に伝えられたわけじゃない。でも、春華さんは笑顔でいてくれて、僕も笑顔になれてそれが答えなんだと思ってしまった。
「何の話だ?」
事情を知らない秋貴だけが首を捻る。
「ああ、まあ、なんでもない話なんだけど」
恥ずかしい気持ちはあった。
でも、別に言えないことじゃない。実はかくかくしかじかなことがあったと説明する。
「なるほどな」
話を聞いた秋貴は神妙に頷いて、
「やっぱりお前は特別なんだな」
「特別?」
「春馬」
「な、何かな」
「俺は、お前が後悔しない道を選んでほしいと思う」
真剣な表情だった。
理由は、分かっているつもりだ。
春華さんは長くない。きっと一緒にいれば、親しくなればなるほど訪れる別れはつらくなるだろう。
「でも、俺としては伝えてほしいと思ってる。その方が姉貴もきっと幸せなんじゃないかって、勝手な想像でしかないんだが」
「・・・・・・うん」
僕はどうすればいいか答えを出すことが出来なかった。
その横で冬木が口を開く。
「私はこのまま、今のままでいる方が思いますけどね」
「叶?」
「これでも事情は聞きましたし、先輩が傷つくかもしれないって分かってます。誰も得しないじゃないですか、それなら何も伝えない方が嬉しいかなって・・・・・・」
「最終的には、当人同士が決めることだ」
「分かってます、分かってるつもりです」
僕達の周りはどんよりとした重い空気になってしまったようで、心なしか息苦しい。
何か言いたいのだが、上手く言葉が出せないまま、二人とも授業があるとのことでその日はそのまま解散となってしまった。
僕は授業もないし、今日はバイトもない。
こういう日は普段ならば自宅に戻ってダラダラ過ごすところなのだが、とてもそんな気にはなれなかった。僕の足はまっすぐ帰ることはせず、春華さんのいる病院へと向く。
「あ・・・・・・」
突然訪れて迷惑だったりしないだろうか。
そう思ったときはすでに病院の前に着いていた。
「まあ、いいか」
迷惑になりそうだったら帰ればいいだろう。
受付で面会の手続きを済ませて、彼女の病室へと向かう。
春華さんは一人部屋で生活している。病室のドアをノックすると、
「はい」
「あ、僕です。春馬です」
「春馬? 入っていいよ」
許可を得てドアを開ける。春華さんはベッドの上で外の景色を眺めつつ、鉛筆を握ってスケッチブックと向き合っていた。
「ごめんね、もうちょっとで一段落だから」
「いいですよ。いくらでも待ちます」
当然来訪したのは僕の方だし、それに、春華さんが絵を描いている姿を見ることが出来るのも新鮮だ。
まじまじ見ているのも失礼かと思ったが、どうしても目を離すことが出来なくて彼女の姿を見つめ続ける。
それから少しの時間が経って、
「描けたー!」
「お疲れ様です」
「待たせちゃってごめん・・・・・・っていうか、適当に座って待ってればよかったのに」
春華さんは「ほら、椅子座ってよ」とパイプ椅子を指差す。僕は促されるまま座った。
「ねえ、ほら。結構上手く描けてると思わない?」
そう言って春華さんはスケッチブックに描いていた絵を見せつけてくる。たしかに、彼女の言う通りよく描けていた。描き始めた頃よりもずっと成長している。
「ほんとだ。上手いです」
「でしょー? なんかコツが掴めてきた気がするんだよね」
ニコニコと笑って、自分の絵を眺める彼女を見て、
「なんか嬉しいです」
そんな感想がこぼれた。
「え、何が?」
「こうやって、僕の渡したスケッチブックで絵を描いてくれてること、僕が好きなことを好きになってくれているような気がして感慨深いというか、なんか上手く言えないんですけど」
「すっかり春馬に染められたところはあるね」
「染められたって」
「だって私の病院での過ごし方なんて、他の入院患者の世間話に付き合うか、適当に持ってきてもらった本を読むかってもんだったんだよ。それなのに最近は絵のことばっかり考えてるし。これも春馬の影響だよ」
「そうですか」
そう言われるとやっぱり嬉しい。
「それで、今日はどうしたの?」
「え?」
「あれ、ごめん。お見舞いの約束してたっけ」
「ああ、いや、今日はしてないです」
連絡先を教えてもらってから見舞いに行く前日には必ず連絡を入れるようにしていた。
「今日は僕が勝手に来ただけで、春華さんが謝ることじゃないですよ」
「そっか、それならよかった」
「はい」
「それなら、何か用事でもあった?」
「いや、用事ってほどでもないです。足が向いたというか」
「そっか。ま、春馬ならいつでもウェルカムだけど」
春華さんは僕の心を見透かすように。
「何か悩んでる様子かな、青年」
「そりゃ、悩み事の一つや二つくらいありますよ」
「私には話せないこと?」
目を合わせていると心臓が跳ねる。けど、逸らせない。
「い、いや、そういうことはないんですけど」
伝えるべきなのだろうか。僕は心の中で逡巡して、
「知り合いの」
「知り合い?」
「知り合いからされた話に悩んでいて、聞いてもらってもいいですか」
どっちの決心もつかずに僕はそう切り出した。
「いいよ。お姉さんに何でも話したまえ」
「はい。・・・・・・その、知り合いには、その、好きな女性がいるそうなんです」
「お、まさかの恋バナだ」
「ま、まあ、僕も周りも年頃なんで」
「青年だしね」
「はい。で、・・・・・・話を戻しますけど、知り合いとその女性の二人は友人関係で仲良くしているそうなんですが、今度、女性の方が遠くへ行ってしまうことが決まってしまったらしいんですよ」
「ほうほう」
「それでですね、告白を考えていたらしいんですけど、今更告白しても迷惑になるんじゃないかって悩んでいるんです。他の友人に相談してみたら傷つくからやめた方がいいっていう人と、今からでも告白した方がいいって正反対の意見がでてきたらしくて、更に悩んでいるというか」
「なるほどねー」
春華さんはうんうんと頷いて、
「その、春華さんの意見を聞かせてもらってもいいですか」
「私かー」
顎に手を当てて悩む素振り。
そして、少しして口を開いた。
「私は告白する派かな」
「そ、そうですか?」
「うん。だってこれだけグローバルな世界だよ? 遠くに離れたってパソコンやスマートフォンのメールだってあるし、電話だってできる。えすえぬえす? とかも使えば距離なんてあるようでないようなものじゃない?」
「・・・・・・それは、そうですね」
「死に別れるんだったら話は違うけど」
「え」
そう言われてドキッとする。
「だって死者とは流石にお話しできないでしょ?」
「え、ええ、そりゃまあ」
どうやら僕の話とは気づかれていないようで胸を撫で下ろす。
「春華さんは」
「ん?」
死に別れるとしたら、告白してほしくないですか。
訊きたかった。でも、それを言葉にする勇気はない。
「いえ、すみません。なんでも――」
「私は相手が傷つかない選択を選びたいな」
僕のことに被せるように春華さんは言った。
「私の場合は死に別れだからね。好きって気持ちに応えて、やがて訪れる別れが相手を傷つける結果になるなら応えられないかな」
「春華さん・・・・・・」
「なーんて。そもそもここで生活している以上は出会いもないけど」
「そう、ですか」
「ま、知り合いに伝えてあげなよ。自分が後悔しない答えを選びなって。それが一番だよ。春馬もそう思わない?」
「・・・・・・はい」
頷く。
「他人の言葉も大切だけどね。でもさ、好きって気持ちは、自分の気持ちだからさ。伝えるも伝えないも自分が正しいと思ったことが正しいと思うよ」
「はい」
もう一度頷いた。
「ちゃんと、伝えておきます」
「うむ」
「すみません、こんな話」
「いいよ。春馬から相談なんて珍しいし、それに」
「それに?」
「頼られた方が、私からも頼み事をしやすいしね」
「え? 春華さんが僕に頼み事ですか」
いったいなんだろうか。
というか、そもそも春華さんの頼み事だったら無条件で叶えてあげたい。もちろん可能な範囲の話だけども。
「絵をね、描いてほしいの」
「絵ですか」
「うん」
「それは全然構わないんですけど、えっと、何を描けばいいんです?」
「えーっとね」
春華さんは少しだけ恥ずかしそうに言い淀んで、
「私のこと」
「はあ」
春華さんのこと。
一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「え、春華さんのことを描くんですか」
「そう。できる?」
「そりゃ、できないことはないですけど、でも、僕、人物は全然描いたことないですし。そんなに上手く描けるか自信もないですよ?」
「大丈夫。モデルもやるから!」
「・・・・・・とは言いますが、動かないでじっとしているのって本当に大変ですけど」
「それも承知」
「そうですか・・・・・・」
それならばお安い御用と言いたいところなのだが、やっぱり春華さんの負担になることは極力したくない。どんなことが起こるかも分からないし。
「理由を聞いてもいいですか?」
「理由?」
「はい。自分を描いてほしいだなんて、何か理由があるんでしょう?」
「あー、言わなきゃダメ?」
「無理にとは言いませんけど、できれば教えてほしいです」
「・・・・・・まあ、頼んでるわけだし不誠実はよくないか」
春華さんは何か決心するように呟いて、
「遺影をね。描いてほしいの」
「え?」
素っ頓狂な声が出た。
「あの、もう一度言ってもらっても」
「遺影だって」
「いえい、ですか」
真っ先に思いつくのは死後飾るような写真のことなのだが・・・・・・。
「多分、春馬の想像したもので合ってるよ」
「・・・・・・マジですか」
「マジマジ。大マジ。写真って好きじゃなくてさ。でも、私が死んだ後に写真を使う機会はあるでしょ? それが春馬の描いた絵だったらいいなって思ったの」
「それは・・・・・・」
そんなの。
そんなの素直に喜ぶことなんて出来ない。
「今はまだ自分の足で歩けるし、こうして座って話せているけどさ。時間が経てばそれすらできなくなると思う。だからね? まだ元気なうちに絵を描いてもらいたくて」
「それは」
彼女がそう言うなら、そうなのかもしれない。
「ダメかな?」
本当は断りたい。
そんな理由で春華さんを描きたくなかった。でも、僕が断ったところで訪れる未来が変わるわけでもないのは分かっている。
「・・・・・・僕が描いても、それが遺影として使われるか分からないですよ」
「遺書に書いておくよ。使わなかったら呪うって」
「笑えませんからね、それ」
「えへへ、ごめん」
どう答えればいいのだろう。
描きたくないというのはとても簡単だ。
頼むにしてももっとプロの人にお願いするとか、僕なんかが手を出すべきじゃないとか、いろんな言い訳が浮かんでは消えて。
「・・・・・・描きます」
でも、結局だ。
僕は断れなかった。いや、断れるわけがなかった。
「描きますよ、春華さんのこと」
深く息を吐きだして、そう伝える。
「いいの?」
「描いてほしいって言ったのは春華さんじゃないですか」
「それは、そうだけどさ」
「春華さんはどんと構えていてくださいよ」
「うん、分かった」
春華さんは頷いて、
「じゃあ本格的に頼むよ、青年」
「ええ、分かりました」
そうと決まれば色々と用意しないといけない。僕は心の中で段取りを考え始める。
そうして、そんなやり取りから数日後。
「・・・・・・さて」
僕は途方に暮れていた。
問題なく絵は描ける・・・・・・描けるはずだ。
人物を描く――しかも遺影に使われるとしたら、水彩画というよりも重厚感のある油彩画になると思う。幸いにも僕はどちらも経験があるし、技術的には問題ないはずだ。もちろん写真のようにそっくりとはいかないかもしれないけど。
油彩画の道具もちゃんと用意した――絵具は流石に病室持っていけないのだが、それ以外の道具をどうやって春華さんの病室まで運ぶのかまでは考えていなかったのだ。
「どうしたもんかな」
がしがしと頭を掻く。
病院がいくら徒歩圏内といっても流石にキャンバスとイーゼルを背負って歩くことはできない。
「・・・・・・いや、でも仕方ないか」
一つずつなら持てないことはない。往復して運ぶしかないか。
そう決めたところで、スマホから短い通知音が鳴った。
「ん?」
内容を確認するとメッセージアプリ。秋貴からだった。
『姉貴から今日は絵を描いてもらうって聞いた』
『なんか手伝えることあるか?』
そんなメッセージに少し悩んで、
『車、持ってたりする?』
『荷物が大きくて困ってるんだ』
僕はダメ元でメッセージを送り返すと、すぐに既読が付く。
『迎えに行く。住所教えて』
僕はすぐに住所を伝えると、それから三十分くらいして秋貴は車で迎えに来てくれた。
「よお」
「ごめん、無理言っちゃって」
「気にすんな、姉貴のためなんだろ」
「うん」
「だったらその家族の俺は協力して当然だ」
「でも、ありがとう。助かったよ」
「おう」
荷物を積み込んで病院まで向かい、その荷物を病室まで運ぶのも手伝ってもらってしまった。
「こんにちは、春華さん」
病室のドアをノックすると、
「おー、春馬。こんにちは。待ってたよ」
デートのときで観た私服姿、黒いワンピースを着て出迎えてくれる。
顔色もよかった。今日は調子がいいのかもしれない。
「邪魔するぜ」
「あれ、秋まで。どうしたの?」
「荷物持ち」
「絵を描くための道具を一人じゃ運べなくて、それで手伝ってもらったんですよ」
言いながら、イーゼルを使いキャンバスを立てる。病室は個室で、これといって何か物が置いてあるわけでもない質素な部屋だった。イーゼルもキャンバスも邪魔にはならないくらいに。
「そうだったの。・・・・・・てか、なんか本格的だね」
「本格的にやってくれって言ったのは春華さんじゃないですか」
「そうだった」
忘れていたのか、この人は。
「じゃ、俺は一度戻るわ。帰りも迎えにいくから連絡してくれ」
「帰るのか?」
「ここに残っても野暮ってもんだろ。じゃあな、姉貴。春馬もあとよろしく頼む」
そう言って病室から出て行ってしまった。
「野暮ってことはないだろうに・・・・・・」
気を使わせてしまったようだ。
「いいよいいよ、秋は昔からああいうところあるから」
「ああいうところ?」
「変に気を使いすぎるんだよね。だから、春馬は気にしないで」
「そうなんですか」
頷く。今重要なのは春華さんの絵だ。キャンバスの前に椅子を置いて腰かけると、
「・・・・・・それじゃあ、気を取り直して。それでは、描いていきましょうか」
「うん、どんとこい」
「つらくなったら必ず言ってくださいよ」
「意地でもならないから安心しろ」
「そういう無理して倒れたらたまったもんじゃないですよ」
「大丈夫だって」
「はあぁぁ・・・・・・」
わざとらしく大きな溜息を零した。
春華さんはこうなると頑固だ。
どれだけ言っても僕の話を聞いてくれることはないだろう。それならできる限り早く描き上げてしまった方がいい。
「あ、お話ってできる?」
「動かなければ話くらい付き合いますよ」
ここで描くのはデッサンまでだ。あとは自宅で絵具を使うことになる。
「じゃあ、いつも通りの雰囲気だ」
「そうですね」
僕が絵を描いて、春華さんが傍にいる。
「あ、どこかおかしいところとかないかな」
「大丈夫ですよ、いつも通りの春華さんです」
「いつも通りって、それがおかしいってことはないよね」
「ないですよ。大丈夫です」
そうだ。いつも通りの彼女。
整った顔立ちも、ポニーテールに結われた栗色の髪も、私服姿にはちょっと浮いているスリッパも、全部僕の知っている春華さんだ。
「緊張しないでくださいよ。はい、リラックスリラックス」
「そう言われてもさぁ、男の子にそうまじまじと見られるのなんて初めてだし。そりゃ春馬は慣れてるかもしれないけどさ」
「僕だってまじまじと見るの初めてですよ。前にも話した通り、人をこうして描くなんて経験ないですし」
「そんなことも言っていたような・・・・・・」
「そうですよ。でも、緊張していたら描けないですからね。鋼の意思で耐えているところです」
手は震えていないが、いつもよりは鼓動が早い。
「初めて同士です。リラックスしていきましょうよ」
「なんかその言い方いやらしくない?」
「気のせいですよ」
時折冗談も挟みつつ、そんなやり取りをしながらも春華さんは動かずにいてくれて、僕も手を動かすことができていた。
「ところで、だ」
「はい」
「青年の目線からして、秋は上手くやれてるかね?」
「上手く? 学校生活って話ですか?」
「うん、そう」
「うーん」
どうだろうか。
僕と同じ授業を取っているのは専攻ゼミだけだ。最近はサボらずどの授業も出席しているが、成績は褒められたものではないらしいと本人の談。
「昔はさー、昔は何か気の弱い奴だったんだよ」
「秋貴が、ですか?」
「うん」
どうもイメージができない。
今の秋貴は孤高な強さがあって、でも、彼を慕う人も多くて。少なくとも気が弱いなんて言葉が似合う人なんかじゃない。
「秋にはさー、幸せになってほしいんだよね」
春華さんは零すように言った。
「親がね、やっぱ、ずっと私のことばっか見てたからさ。寂しい思いもさせたと思うし、恨まれても仕方ないなーって思うんだけど、アイツ、昔から変わらず私に接してくれるから、なんか私が申し訳なくなってくるし」
「・・・・・・春華さん」
「ごめん。今のなし! ちょっとナイーブだった!」
「大丈夫」
そんな確証のない言葉が真っ先に出た。
「秋貴は大丈夫ですよ」
僕は彼のことをまだまだ知らないけど、でも、芯のある男だってことは分かっているつもりだ。そうのは、多分、簡単に揺らぐものじゃない。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、安心だね。春馬もいることだし、ちゃんと友達続けてやってよ」
「そんなの僕が頼む方ですよ。僕、友達少ないですから」
「うん」
なんか重たい雰囲気になってしまった。
「そ、そうだ。休憩しましょうか。そろそろ!」
「え、あ、うん。でも、まだ大丈夫だよ?」
「いいんですいいんです。休めるときに休んでおかないと、僕の集中力も切れちゃいますから。のんびりやっていきましょう」
「うん、そういうことなら、わかった」
春華さんは頷いて椅子の深く座った。やっぱり肩には力が入っていたらしい。
「そういえば」
「ん?」
「春華さんの病室って初めて来ましたけど、なんというか、あれですね。結構質素ですね」
「あー、うん。意外?」
「いや、それほどではないですけど」
年頃の女性ではあるのだ。もう少し物があってもなんら不思議ではないと思う。
「まー、私、病院生活長いからね」
「はい」
「あんま余計なものは置きたくないっていうか、置かないようにしてるんだよね。片付けのときにしんみりされても困るし」
「そう、ですか」
「あ、でもね!」
「じゃーん」なんて言いながら、春華さんは僕のあげたスケッチブックを取り出してきた。
「ちゃんと大切に使わせてもらってます」
「それならよかった」
「うん、もっと早く取り組めばよかったなー。時間の有効活用的な、ね?」
「絵を描くのって結構時間使いますからね」
そんな雑談をしながら、絵にも取り掛かって。
やがて。
デッサンを描き終えることができた。
描く範囲も胸から上までということもあって時間も多くは使わなかった。とはいっても面会開始時間の十四時から始めて、もう十八時を過ぎたところだ。
「とりあえずこんなもんか・・・・・・」
ここからまだ調整していくことにはなるのだが、ひとまず良しとしよう。
「お、描けた?」
「一応ですけど。どうします? 見ます?」
「うーん、後の楽しみにする」
「そうですか?」
「なんか自分を見るって、ちょっとこそばゆいし」
「わかりました。・・・・・・あ、でも、あとで下手くそって言わないでくださいよ」
「言わない言わない。どんな絵でも大切にする。だからって適当に描くのはやめてよね?」
「もちろんですよ」
むしろ僕の中で最高傑作にしようと思うくらいの意気込みである。
これが、これだけは僕だけができることのはずだ。
「春馬?」
「え、な、なんです?」
「ううん、なんか思い詰めた顔してた気がしたから」
「・・・・・・いや、そんなことないですよ」
「そう?」
「はい。ただ、この絵をどうやって仕上げようか考えていただけです」
「それならいいけどさ。あんまり背負い込まないでね。私としては軽い気持ちでいてほしいかな」
「そんなこと・・・・・・」
できるわけがない。だって、この絵が彼女の最期に遺されるものかもしれないのだ。
「できるだけ、そうします」
でも、できないとは言えなくて。僕は頷いてそう答えた。
春華さんの期待に応えられない自分ではいたくなかった。
「ねえ、春馬」
「なんです?」
「私、どんな絵でも春馬の絵が好きだから」
「それは、はい、ありがとうございます」
「だからさ、無理しないでよね」
「分かってますって」
「・・・・・・分かってないよ、きっと」
「春華さん・・・・・・」
僕はそんなに心配させるような顔をしていたのだろうか。
「大丈夫ですよ」
僕は絵から離れて、春華さんの元へ近づく。そして彼女の手を取って、
「無理せず、完璧に、この絵を完成させてみます」
少し大胆だっただろうか。そう考えだしたところで、春華さんも手を握り返してくれた。
「信用してるぞ、青年」
「はい」
それから僕達は何気ない話をして、いつものように解散して。
その数日後だった。
春華さんが倒れたと連絡を受け取ったのは。




