15
「せんせー?」
そんな声にハッとする。気が付けばぼけーっとしていた。
「先生、大丈夫?」
「あ、ああ、うん、いや、大丈夫ですよ」
随分と懐かしい記憶を掘り起こしていた。
「えーと。どこまで話しましたっけ?」
「先生が初恋の人の命日に、その人の家族と食事するところまで」
「ああ、そうか・・・・・・」
そこまで話したのか。
絵を描きながらというのもあって無意識だった。
「続きは、あるの?」
「うーん」
少しだけ考えて、
「いや、だいたいこんなもんですかね」
ここから先はほとんど自分の話だ。あの頃の思い出とは関係ない――とまでは言えないけど、きっと、切り離して考えるべきことだ。
「ま、それからはだいたいこんな日常です」
僕はあれから代わり映えのしない毎日を過ごしている。
ただ、海の絵を描くことが増えたかもしれない。
それだけだ。
僕はこうして生きている。
「――ま、そんなところですよ。別に面白い話じゃなかったでしょう?」
「ううん、そんなことない」
女の子は首を振って、
「むしろ、ごめん。なんか気軽に聞いていいことじゃなかったかも」
「気にしないでください。話したのは僕ですから」
「・・・・・・先生さ、その、つらかったよね」
「つらかった、か」
たしかにつらかった。のだと思う。
でも、あの時に負った傷は、もう癒えているのだろう。僕は周りに救われたから。
それに。
「僕は」
「うん?」
「あの人に、幸せになってと言われました」
「うん」
「ずっと背中を押してもらってます。友達もいます。君達みたいに僕の絵を理解してくれる子供達がいます。・・・・・・僕は報われてますよ」
「そっか」
「はい」
少女――蒼ちゃんは塀から降りて、ぐっと体を伸ばす。
「うん。ちょっとすっきりしたかも」
「僕の話は役に立ってなさそうですけどね」
「そんなことないよ!」
にかっと笑って、
「これでも先生には憧れてんだから」
「憧れる? 僕に?」
「私はさー、先生に長く絵を教えてもらったけど、そんな才能ないなーって思うし、きっとこれから画家になるとかは無理だと思うけどさ」
「はい」
「でも、教えていく気持ち? 魂? そういうの引き継いでいたらなーなんて思っちゃうんだよね。私ごときができるかどうかわからないんだけどさ。でも、そういう道もあるんだなーって、背中を押す連鎖みたいなの、今日、先生の話聞いて思ったんだ」
「背中を押す、連鎖」
なんだそれと思ってしまうけど、笑顔の蒼ちゃんが答えをくれた。
「私ね、恐縮ながら教師ってやつを目指したいかも!」
「教師・・・・・・。教師?」
「うん!」
「それは、また」
今からそれなりに勉強して、大学に進学して、単位を取って、別にどうしようもなく難しい夢ではない。でも、理想だけでは如何ともしがたい職業というのも教師というものだとも思っている。
「賛成してくれない?」
「いや、いい夢だと思いますよ」
「まあ、先生の考えてることもわかるよ。色々ニュースも観るしさ、きっと、簡単に導いていけることなんてないんだろうなーって」
「そうですね」
正直、そう思う。
「でも、ずっと思ってた。今日も話して、もっと思った。こうなったら挑みたいって思ってる。もちろん両親と相談することになるけどさ」
「・・・・・・蒼ちゃん」
僕も塀から降りて彼女と向き合った。
今の彼女に、僕は何を言えるだろうか。
短くない時間を重ねてきた、つもりだ。そんな彼女が夢を語ってくれている。僕は一歩引いて言葉を投げかければいいのだろうか。
「蒼ちゃん」
「ん?」
「・・・・・・頑張れ」
僕が言えたのはこの一言だった。ボキャブラリーなんてものはない。別に僕のやってきたことを引き継いでもらいたいわけじゃない。でも、僕のやってきたことが誰かに継がれるとしたら、それはきっと喜ばしいことだ。
春華さんの姿が浮かぶ。
僕に言った言葉が脳裏に過る。
そんなに深い意味でもなかったかもしれない。でも、それが僕達の人生を歯車のように回して動かしていく。
「頑張れ、蒼ちゃん」
「うん、応援しててよ! 先生!」
「はい」
彼女はきっと素晴らしい教師になれる。
「あ・・・・・・」
もっと話していたいけど、夜が来る。今日はここでお別れだ。
「蒼ちゃん、今日はそろそろ帰る時間だね」
「うん、そうみたい」
「君と絵の話以外をちゃんとしたのは初めてかもしれない。楽しかったよ」
「うん、私も先生のこと知れてよかった」
「また話そう。・・・・・・次は君の話かな?」
「はーい、覚悟しときます」
そう言って、たったったと僕から離れていく。
「じゃーね、せんせ!」
「ああ、うん」
「今日はありがと!」
「うん、ご両親によろしく」
「はーい!」
元気よく蒼ちゃんは帰路に着く。
僕は、一人になって。もう一度塀に座る。
視界に広がるのは暗い、暗い、海。その海からは何も感じられない。何も思い出せない。
「春華さん」
あなたは今どこいにいますか。
思い出していた記憶を辿って、彼女の輪郭を求める。
でも、ぼやける。
あれから、長い時間が経ってしまった。僕はもう明確に春華さんの姿を思い出すことはできなくなっている。どこかぼやけた記憶になってしまっている。
「でも、これでいいんですよね」
――幸せになってね。
彼女はそう言った。
――たまに思い出すくらいでいいよ。
彼女はそう言った。
そうだ。春華さんはそう言って、実際そうなろうとしている。僕はそれを拒んでいない。拒んだほうがいいのか自問を続けているだけで。
ただ今は春華さんに会いたい。
久しぶりに思い出したのだ。会って抱きしめたい。なんて、
「浮気者だな、僕は」
もう叶わないし、叶ってはいけない。わかっているけど、でも、僕は今でもあなたを忘れられらなくて。それがまた自傷するような痛みを心に宿してくる。僕はもう、春華さんを好きでいてはいけないのに。
こんなに暗くなると絵も描けない。でも、動く気にもなれなくて。スケッチブックと鉛筆だけ片付けて、しばらくじっと座っていると、
「ん?」
見覚えのある車がすぐ近くに止まった。
「おー、春馬」
「先輩」
見知った二人が出てくる。僕も塀から降りて、
「え、二人ともなんで・・・・・・」
「今日はここだって叶が言うからさ。いつもの絵描きだろ?」
「ああ、うん・・・・・・」
「どした?」
「え?」
「なんか元気ないよ、お前」
「そんなこと」
ないよ。と言おうとしたところで、横から伸びてきた手に顔を掴まれた。
「え、なに」
「うーん、これは春華さんのことを思い出してた顔すね」
「うっ」
僕の顔を掴んだ手は、ぺちぺちと軽く叩いてきて、
「秋貴先輩!」
「お?」
「今日の晩御飯は居酒屋です! 久しぶりに三人で飲みましょう!」
「いいけど、俺、車・・・・・・」
「運転代行お願いしましょうよ。春馬も私もお金出しますから」
「まあ、いいか」
なにやら話がまとまったらしい。そうか、二人は僕を晩御飯に誘いに来てくれたのか。
「春馬」
「・・・・・・はい」
「いいんすよ、酒に任せていっぱい吐き出しちゃいましょ。溜め込んだらいつか病気になっちゃいますよ、あなたの場合」
「君には聞かせられない、聞かせたくないんだよ」
「そういう配慮、逆にきついっす」
「叶・・・・・・」
「さ、行きましょ?」
「ああ、うん」
手を繋がれて、僕はようやく歩き出す。秋貴の車の助手席に乗ってシートベルトを締めると車はゆっくり動き出した。
「居酒屋ならどこでもいい感じ?」
「あ、私の勤め先で聞いたお店行ってみたいす!」
「おー、おすすめのメニューは?」
「もつ煮込み」
「・・・・・・相変わらず叶の食の趣味って渋いよなぁ」
「え、美味しくないっすか」
「嫌いじゃねえけど。春馬も大丈夫か?」
「ああ、もちろん。もつ煮込み美味しいよね」
それから僕達は何気ない会話を広げながら目的地の居酒屋へと向かう。二人との時間は昔から変わらない空気で、僕は少しだけ心に余裕を持てていたのだが――、
「で」
居酒屋にて。三人でビールとおすすめらしいもつ煮込みをつまみながら。
「春馬はどうしてなえなえぴょんぴょんになってたんすか」
「なえなえぴょんぴょんって・・・・・・」
「まあ、でも、元気はなかったよな」
「・・・・・・まあちょっとね」
ジョッキを傾けてビールを流し込む。
「蒼ちゃんって分かるっけ?」
「あ、はい。あの海辺の近くに住んでる女の子すよね」
「うん、彼女に昔話をしてほしいって言われてね、たまにはと思って思い出しながら話したんだ。僕が大学生とき、そう、足の骨を折って入院したときからのことを」
「おお、そりゃ」
「あー」
もうただの思い出のはずなんだ。
だって、あれから随分と時間も経った。
それなのに。
「叶、ごめん」
「春馬・・・・・・」
「こんな僕と結婚させちゃってごめん、君のことはもちろん愛しているはずなのに、君のことが一番好きじゃないと、なのに、僕は何も成長できなくて」
情けなくて泣けてくる。というか泣いている気もする。
「おいおい春馬、まあ落ち着け、ナイーブになりすぎるな。そうだ、水でも飲むか?」
「ビールをくれ。あとたこわさ」
「ああ、いいけどさ」
「あ、私は日本酒の――これがいいす。あといかさし」
「・・・・・・あいよ」
秋貴は僕達の注文を店員に伝えてくれて、
「春馬」
「はい」
「いいんすよ、大丈夫すからね」
「大丈夫じゃないだろ。君は僕を甘やかしすぎだ」
「好きな人は甘やかしたくなるタイプなんすよ」
「いや、それは」
そうだったかもしれない。
「ま、部外者の俺が言えたことじゃないが、正直、春馬の姉貴病は今に始まったことじゃないしな」
「病気みたいに言うな」
でも、実際はその通りだ。定期的に落ち込んで、叶と秋貴には迷惑をかけている。
「まあ、でもさ」
ぐいっとビールを飲んで、
「姉貴も喜んでると思うぜ」
「え?」
「ここまで好きだって思ってもらえたらさ、誰だって嬉しいだろ。嫌な気持になんかならねえよたぶん」
「私もそう思います」
「・・・・・・でもさぁ」
僕はそうも言えない立場になっているんだよ。叶との約束はあった、でも、それとは別に僕もこれからを彼女と生きていきたいと思ったのは決して嘘じゃなくて。だから僕は、春華さんを忘れないといけないのに。
「ちくしょう、ださいな、僕は」
「いや、春馬がこの件でかっこよかったことないすから」
「わかってるんだよぉ」
泣きそうになる。
「まあ、でも」
秋貴も自分のビールを注文しつつ、
「でもさ、叶がポジティブなのはちょっと気になったな。今の春馬って浮気者のクソ野郎に見えない?」
「あー、そうですね」
叶はちょっと考えて、
「いやもちろん良い気持ちはしないですけど」
「ですよね」
「だよな」
「でも、それ以上に春華さんが好き! って話を聞きすぎてますし、お会いしたこともありませんし、なんかこう、例えるなら一人のアイドルを追いかけられている気持ちなんですよね。私も結構オタクですし、まあ、春馬の推しに春華さんって人物がいるのは別にいいかなーって」
「あー、まあ、そう言われるとそうか」
そうかな?
疑問に思うけど、野暮なことは言うまい。
「ま、そういうことでね、春馬」
「うん?」
「一周回って私に戻ってきてくれるって、信じてますから」
「・・・・・・うん。ごめん、叶」
戻ってくるよ。なんなら離れるつもりもないんだよ。それをはっきり口にするのは恥ずかしくて、僕は誤魔化すようにビールを飲む。
「二人とも、あれだな」
「ん?」
「なんですか?」
秋貴に視線が向かう。
「子供でも作れば、春馬も結構変わるんじゃねえの?」
「ごふっ!」
げほげほと咳き込む。いきなりなんてことをぶっこむんだ。
「結婚してるんだし、別に、むしろ遅いくらいじゃない?」
「で、でも、そんなデリケートな話を・・・・・・」
「まあ授かりものでもあるしな。でも、二人だって考えてないことじゃないだろ?」
「それは」
「まあ」
僕達は視線を交わして、
「たしかに。私はずっと二人でも別にいいかなとか思ってましたけど、春馬にはパパになってもらうのもいいかもしれませんね」
「父親か、父親・・・・・・」
とは言われてみても、まだできたわけじゃない。今この瞬間に実感がわくものではないけども。
「叶と家族が増えるのはいいよな」
簡単なことだけじゃないだろうけど、叶とならきっとやっていけるはずだ。
「うんうん。ポジティブなのはいいことだ」
秋貴もビールを流し込んで、
「次は俺だなぁ」
「え、相手見つかったんですか?」
「これから探すんだよ」
「しばらく彼女もいなかったよな?」
「独り身ってのは楽でなー」
言いたいことはわかるけども。
「まあでも、ちゃんとしないとって思いはしてるんだよ。これでもね」
「・・・・・・そうか」
僕たちは進まないといけない。
僕は二人に手を引かれて進んでいて、秋貴もまた進みたいと思っていて。
「ときどき思うよ。生きていくのって、大変だよな」
そんな言葉が漏れる。
「ですねー」
「当たり前の話だけどな」
三人で苦笑する。
それでも足を止められない。止めてはいけないのだから。
それから僕達は居酒屋のラストオーダ―まで中身のあるような、ないような話を広げて過ごした。
その帰り道。
秋貴は車の代行運転だから乗っていけば? と言ってくれたが、歩けない距離ではなかったので叶と並んで歩くことにした。酔い覚ましには丁度いいだろう。
「久しぶりにがっつり飲めて楽しかったー」
「叶は相変わらずお酒強いね」
「まあ、弱いとは思ってませんね。春馬だってめちゃくちゃ弱いことはないじゃないですか」
「まあね。明日は久しぶりに二日酔いかもだけど」
今日はちょっと飲みすぎた。
でも、そのおかげか気持ちは少しすっきりした気がする。少なくとも、今の僕は春華さんの影に引っ張られていない。
「あ、あの」
「ん?」
「さっきの話、えっと、本気にしなくていいすからね?」
「んん?」
何の話だろう。色んな話をしていてすぐには答えに辿り着けない。
「えっと、あの、子供がどうとか。パパになってほしいとか」
「え、あ、ああ」
「春馬のこと縛りたくないですし。私は二人でいられるだけで本当に幸せなんで」
叶はちょっと早口に言う。
「それにほら私もう三十五ですし! 世間では高齢出産がどうとか言われちゃうかもですし、面倒くさいことばっか増えちゃいますから!」
「・・・・・・うん」
「だから、全然気にしてほしくなくて」
「うん」
僕はどんな言葉をかければいいだろう。
もちろん大変なことは増えるだろう。子育てなんて未知の世界だ。でも、それが親になるってことだと思っているし、協力できることなら僕はそうしたい。叶と家族として深く繋がれるならそうしたい。
「よし、急がないとだな!」
「え?」
「奥さんに負担ばっかりかけたくないからね。えーっと、なんて言うのかな? 妊活っていうのは旦那も協力してこそでしょ?」
「ええ?」
疑問符を浮かべる叶の頭を撫でて、
「禁煙もするよ、僕」
「え、いや、あの」
「あと直すべき点は逐一指摘していただけると助かる」
もちろん僕が頼りないと言われてしまえばそれまでなのだが、努力はしたい。
「あ、ごめん。僕の話ばっかしても仕方ないよな。大変なのは僕より叶だもんな」
「いいんですか」
「ん?」
「いいんですか、そんなこと言って」
叶は、泣いていた。
なんで泣いているのか、僕にはわからなかった。
「どうしたんだよ、叶」
「だって、もし私と子供ができたら」
「うん」
「・・・・・・春華さんは、もっと遠くになっちゃいますよ」
「え・・・・・・」
僕は言葉を失った。
どうして春華さんが出てくるんだ。どうして、そんなこと気にするんだ。
「叶」
馬鹿だよ、君は。いや、もっと僕が馬鹿なだけだ。ずっと傷つけていたんだ。僕が春華さんを思い出すたびに、僕が弱音を吐くたびに、自分の気持ちに蓋をして慰めてくれていただけなんだ。
そして。
いつか、もしかしたら僕が春華さんへと出会うことを考えていたのかもしれない。
「叶」
「春馬?」
「ごめんよ、僕が、僕が弱いから」
ぎゅっと叶のことを抱きしめる。できる限り強く、でも、壊さないように。
「春馬・・・・・・」
「大丈夫だよ、僕はどこにもいかないよ」
「ほんとすか・・・・・・?」
「ああ」
春華さんは、もういないんだ。
僕は叶と生きていくことを選んだんだ。
それは、それには、誰にも邪魔させないよ。それが例え春華さんでも。
「どうしたら信じてもらえるかな。僕は、僕は本当に君が好きなんだ。本当に好きになったんだ。君のために生きていきたいんだ」
「はい」
「伝わってるかな、どうしたら伝わるかな・・・・・・」
「どうでしょう」
難しい気持ちもわかる。
だって、僕は散々他の女のために泣いていたのだから。
「春馬」
「うん?」
「ぎゅっとしてください」
「え、いや、してるけど・・・・・・」
「もっと強く」
「う、うん」
少しだけ、ゆっくりと力を込める。
「痛いくらいがいいす」
「そんなことできないよ」
「チキンですねぇ」
「君を傷つけることなんて、もうしたくないんだ」
「そういうことにしておきましょう」
僕達はしばらく抱き合っていた。叶の鼓動を感じる、どこか早くなっている心音でもしかしたら緊張しているのかもしれない。そして、それは僕も同じで。
「春馬」
「うん」
「離さないでくださいね」、ずっと一緒にいてくださいね」
「約束するよ、僕達はもっと幸せになろう」
「はい」
二度目のプロポーズ、なんて。
そんなことを思いながら僕達はどちらかともなく唇を合わせた。
もう二度と叶のことを悲しませない。僕はそう胸に誓って。




