14
それから僕は大学を何とか卒業して。
適当に就活して内定をもらった場所に就職して。
そうして五年の月日が過ぎ去っていた。
最初の一年、二年こそ、慣れない仕事を覚えるのに必死だったけど、それもその時だけで、だんだんと要領を得る、というか、慣れてきて上手く付き合うことができていた。
何も変わらない日常が続いている。だからといって新しい刺激を求める気にもなれず、僕は学生時代と大して変わらない時間を過ごしていた。
そんな六月のある日だ。
僕は必ず海に行く。
塀に座って一人海を眺めて、
「うーん、今日は天気悪いな」
呟く。
天気予報はどうだったか、絵を描くには画用紙を濡らしそうで怖い。
「今日は、いいか」
一応絵を描くための道具は持ってきたのだが、今日は静かに海を眺めることにする。
それにここにいれば、目を瞑れば思い出せる。
快晴の空。
青い海。
砂浜を走っていく彼女の姿。
――うん。
忘れてない。僕はちゃんと全て覚えている。
僕はしばらく一人でいると、
「よお」
後ろから声を掛けられて振り返る。
「ああ、秋貴」
「ここにいると思ったよ。家まで迎えに行こうか迷ったけど」
「ありがとう」
よっこらせと塀から立ち上がる。
「まだ見てていいぜ、俺も一服したいし」
「そう? じゃあ、僕も」
二人、塀に座って煙草を咥える。
学生時代から秋貴と付き合っているうちに、気が付けば僕も立派な喫煙者だ。両親からも冬木からも煙たがられている。
春華さんならどう反応しただろうか。
百害あって一利なし!
なんて言って怒って取り上げられたかも。いや、呆れながらも見守ってほしいな。
まあ、考えても仕方ないことか。
「しっかし、ここは何年経っても変わらねえな」
「そりゃ普通の海岸と海だもん。変わりようがないでしょ」
「いやいや、この海岸と海を一望できるリゾートホテルが経つとかさ」
「こんな田舎じゃ採算取れないよ」
「ちぇっ、夢がないな」
煙を吐く。
「今の」
「あ?」
「きっと、あの人も同じこと言っただろうなって」
「そりゃ姉弟だからな」
まあそうか。その通りだ。
「夢ってさ」
「夢?」
「うん。夢ってどうやって見るんだろうな」
「当然なんだよ。どういう質問?」
「いや」
いつかの春華さんが僕の耳元で言うんだ。
『夢がないなぁ』
会話の中であった言葉。あの時、それが大きな意味を持っていたわけではないだろう。
煙を吸って、吐く。
「ごめん。なんでもない」
気が付けば煙草も吸い切っていた。ポケットから携帯灰皿を出して吸殻を捨てる。秋貴も同じように捨てて、
「ヤニのチャージもできたし、そろそろいきますかな」
「うん。運転よろしく」
「お前も学生時代に免許取っとけよなー」
「そんな時間的余裕はなかったよ。留年寸前だったんだから」
言いながら並んで駐車場へと向かう。
目的地は秋貴の家。・・・・・・春華さんの家だ。
「ただいまー」
「お邪魔します」
玄関をくぐると春華さんと秋貴の両親が出てきて、
「おかえりなさい。春馬くんもようこそ」
「はい。今年も失礼します」
言いながら家に上がらせてもらう。一年に一回のこの日、僕は必ずこの家へと訪れるようにしている。それは海に訪れる理由と同じ。春華さんの命日だからだ。
普通ならば墓参りをするところだろうが、春華さんの遺骨は海へ散骨されたし、それならば彼女との思い出の場所と、彼女の家へ挨拶するのがいいだろうと亡くなった翌年から繰り返して今年で六回目になる。
「春馬くん」
「あ、はい。おばさん」
「晩御飯はもう食べた?」
「いえ、まだです。海にいって、そのまま秋貴にここまで連れてきてもらって」
「ならよかった。ご飯いっぱい作ったの。よかったら食べていって」
「ありがとうございます。いただきます」
あんまり食欲がない、とは言えない。
「もう少し時間掛かるから」
「あ、はい。それじゃあ、僕は春華さんに挨拶しています」
「ええ、うん。そうしてあげて」
「はい、お邪魔します」
階段を上って春華さんの部屋の前へと立つ。
コンコンコンとノックもする。返事があるわけないけど、異性の部屋だ。そういうところに気を遣わないと春華さんもきっと怒るだろう。
「失礼しますね、春華さん」
部屋のドアを開けると、一年前と何も変わらない景色が広がる。長い病院生活だったからだろう、物の少ない部屋だ。家具もベッドと勉強机、あとは本棚が一つだけ。
でも、定期的に掃除はしているそうで埃っぽいこともない。いつでも部屋は使える状態と言えるだろう。
「・・・・・・こんにちは」
部屋を見渡して、そして壁に掛けてある油彩画に挨拶する。
あの時、六年前に春華さんに頼まれて描いた遺影だ。
今見てみると未熟も未熟、拙い箇所が多くて気になるが、
『味だよ、これも』
なんて笑う彼女の姿が浮かんできて、僕は何も言えなくなる。
「・・・・・・春華さん」
返事は、ない。
「春華さんは、今どこにいるんですかね」
返事はない。
「やっぱり天国かな。だって、春華さんですもん。地獄に落ちるような人じゃないですからね。それとももう生まれ変わって別の人の人生を謳歌し始めているのかな・・・・・・。それならいつか、また、僕と・・・・・・」
分かっている。そんなの夢物語だ。
僕は無宗教だし、春華さんも何かを信じていたわけではない、と思う。死者の魂の行方なんて考えるだけ無駄な話だ。
「春華さん、僕は」
でも、まだ、あなたを愛しているんです。
会えるなら、なんでもする。なんでもしたい。
死んで会えるなら、死んでしまいたい。
生まれ変わっているなら、また出会いたい。
「ごめんなさい、春華さん。ずっと困らせてますよね」
そんなこと分かっているのに、僕は彼女が忘れられないのだ。
『幸せになってね』
あのときの春華さんが僕に言う。
ああ、そうだ。
幸せにならないと、僕は頑張って生きていかないといけない。それが今の僕が春華さんにできることだと思う。
「・・・・・・また来ますね、春華さん」
愛しています。心の中で呟いて、部屋を出る。
「よう、挨拶は済んだか?」
「秋貴。いたんなら入ってくればよかったのに」
「ばーか。二人きりにしてやったんだよ」
「そっか、ありがとう」
「飯の準備もうすぐできるって。行こうぜ」
「うん」
二人でリビングに向かうと、食卓には色んな料理が特に和食を中心に並べられていた。
「うふふ、ちょっと気合い入っちゃったわ」
なんておばさんは笑う。
「力入れすぎだろ。俺達で食べ切れるのかよ」
「残ったらしばらくはこれだから」
「そうでしょうね」
げんなりした顔を秋貴は浮かべるが、両親を想って実家に残っていることを僕は知っている。憎まれ口もまた彼の優しさなのだ。
「春馬くんもしっかり食べてね」
「もちろんです。おばさんの料理、美味しいですから」
「あんま持ち上げんなよ。年々完食のハードルが上がるんだから」
それは申し訳ない。
「さあ、揃ったことだし、御飯にしようか」
「はい」
おじさんの言葉で食事が始まる。
話題はもっぱら僕と秋貴の近況。仕事が大変だとか、趣味がどうたらとか大きな話題はない。でも、僕達は繋がっているのだという気持ちにはなれる会話。
そうして時間も過ぎ去っていき、
「ああ、そうだ。今日のためにいい酒を仕入れたんだよ」
そういって、おじさんは酒瓶を持ち上げる。
「酒、ですか?」
「ああ。よかったらどうかな、春馬くん」
「ええ、もちろん」
頷きながら、
「あの、でも、すみません。お酒の作法というのは分からないんですけど」
恥ずかしながら何も知らない。会社の逃げられない飲み会も烏龍茶で逃げてきた身だ。
「ははは、そんな堅苦しいものではないよ。私が良いと思って、君に教える。それだけのことだ。子供の回し飲みと一緒だよ」
「そういっていただければ」
茶色の瓶からグラスに注いでもらう。僕は恐る恐ると口に含んで、
「おお・・・・・・」
「日本酒なんだけどね、どうだい?」
「実は果実系以外苦手意識があったんですが、これは飲めます。というか、かなり飲みやすいですね」
「そうだろうそうだろう! 秋貴はこれのよさが分からなくてね!」
「あら」
「こうして酒を楽しめる息子みたいな人ができて嬉しいよ」
「僕も嬉しいです」
春華さんとの仲をこうして認めてもらうことができて。
そうして僕はちびちびと酒を飲みつつ、おじさんやおばさん、秋貴の話を聞いて過ごしていく。きっと春華さんもどこかで聞いてくれているはずだ。そうであったら、とても嬉しい。
「それでだな、春馬くん」
食事の会はしばらく続いて、随分と酒が回った様子のおじさんが真剣な目を僕に向けていた。
「あ、はい」
「これはなんというか、酔った勢いで訊くのだがね」
「はあ」
「その、なんだ、好い人というのはいないのかね」
「え?」
好い人? すぐに言葉の意味が分からなかった。
「おい、親父」
「分かっている。秋貴。愚問なのだろう」
酔っていると思っていた。でも、おじさんの目ははっきりと僕を見ている。
「すまない、春馬くん。君の気持ちを蔑ろにしたいわけじゃない。気が今でも抱いてくれている気持ちを否定したいわけじゃない」
「は、はい」
「そのうえで、私は、春華に縛られてほしくないと思っているし、春華もきっとそう思っていると思う。そう、あの子の最期の言葉のように」
「それは・・・・・・」
春華さんが言う。
『幸せになってね』
そんなことできるわけない。春華さんを忘れるなんてこと、僕には・・・・・・。
「今はいいだろ。ましてや今日話すことじゃねえ」
秋貴は怒気のこもった声で言うと、僕の肩を掴む。
「おい、春馬」
「うん・・・・・・」
「今日は泊ってけよ。俺の部屋で夜通しゲームしようぜ、明日も休み取ってるんだろ?」
「ああ、うん、取ってるけど、いいのかな」
「いいんだよ。ほら、いくぞ」
連れられて階段を上り、秋貴の部屋へと入る。
何度かお邪魔したことがある部屋だ。小学生の頃から使っているらしい学習机に木製のベッド。部屋の真ん中には小さめの卓袱台と、その上には大きめのガラスの灰皿。この部屋の中で新しくなるのはゲーム機のハードくらいだと以前笑って言っていた。
「ほら、一服しようぜ」
「うん」
卓袱台の前に腰を下ろす。「どっこいせ」と向かい側に座った秋貴も煙草に火をつけていた。
「あー、家だとここでしか煙草許されてないから喫煙者にはきついよな」
「僕はベランダだけだから、こうやって部屋がある分マシだよ」
「まあ、そうかも」
煙草を胸ポケットから取り出して火をつける。
深く深く吸って、煙を肺に回してまた深く深く吐き出す。
「親父の言うことさ」
「うん?」
「好い人つーか、恋人つーか、そんなの探せとか、気にしなくていいからな」
「ああ、うん」
チリチリと燃えていく煙草の先を見つつ、
「でも、そういってくれるのは、きっとありがたいことなんだと思うよ。生者は死者に囚われ続けちゃいけない。うん、たしかにその通りだと思う」
「春馬」
「でも」
灰皿に煙草の伸びた灰を捨てる。
「僕はまだ、いや、ずっと。春華さんが好きなんだ」
「まあ、そうでしょうね」
「それより君こそどうなのさ。この前会社の同僚に告白されたって」
「あー」
秋貴は言いにくそうに言葉を濁して、
「なんつーか、別れた」
「へ?」
「いや、良い人ではあったと思うんだけど、価値観合わないつーか、束縛もあったし、やっぱ年齢考えたら結婚も意識しちゃうしさ。噛み合わなくてさよなら」
「そっか」
人と人の問題だ。そりゃ噛み合わないこともある。
「姉貴にはちゃんとしろって言われたんだけどな」
「・・・・・・うん」
僕達は春華さんの言葉を忘れられないでいる。
「あ」
「どした?」
「ここは冬木とかどうかな? 君のことも慕っているし、実際仲も良いだろう? ここから先結婚しても上手くやっていけそうな気がするけど」
「・・・・・・はぁ」
煙草の煙と共に深い溜息をつかれた。
「お前、それ絶対叶に言うなよ」
「え?」
なんで?
「考えるまでもないだろ。アイツだって重い恋抱えてるんだからさ」
「そうかな」
「無自覚なふりやめろって。叶は今でもお前しか見てねえよ」
気づいてはいた、というべきか。そうだ。気づいてはいるのだ。
でも、僕はあの時の告白から気持ちを応えられないでいる。
「ままならないな、僕達は」
「そうだな」
気が付けば煙草も吸い切ってしまった。灰皿に吸殻を捨てると、秋貴がゲームのコントローラーを差し出してくる。
「今日は何をやるの?」
それを受け取って、
「二人で遊べるゲームだからな。延々とゾンビを狩るやつでもしますかね」
「いいね」
はっきり言って僕はゲームの類が苦手だ。対戦ゲームなんてサンドバッグにしかならないから、それなら協力ゲームの方が遊べそうである。もちろん足は引っ張るのだが、まあ、秋貴の足ならいいだろう。
僕達は胸に残るモヤモヤを振り払うようにゲームに集中した。僕と秋貴は交互に風呂に入り、一人になってもコントローラーを握り、気が付けばそれを握ったまま意識が飛んでいて、
「よお、俺のベッドでよかったら使っていいぜ」
「ああ、悪い」
僕はまだ半分眠ったままの頭でベッドへ入る。
掛け布団に包まるとあっという間に意識は闇に落ちて、
そして、夢を見た。
すぐに夢だと分かった。
だって、二人で座って、肩の触れ合う温もりとか。パタパタと揺れる長い茶色の髪とか。
「まーた、泣きそうな顔して」
彼女は言う。僕は何も言えない。
「泣き虫だなぁ、青年」
違います、違うんですよ。あなたが、あなたが僕を泣き虫にしたんです。
だって僕は友達も少なくて、でも、一人でも過ごせていたんです。一人で生きていけたんです。それなのにあなたが、あなたに出会ってから、僕は弱くなった。ずっとあなたといることを想ってしまったから。
「春馬」
あなたのせいだ。
あなたが、あのとき僕を見つけなければ。
「うん」
見つけなければ、悲しみも、苦しみも、何も知らないでいられたのに。
僕は、僕は、僕は・・・・・・。
隣の熱が離れる。それだけで酷い喪失感。
でも、すぐに。ぎゅっと頭を包む温もり。
「よーしよし、春馬は強い子だ」
てんてんと後頭部を叩かれる。まるで赤子をあやすかのように。
「春馬」
なんですか・・・・・・。
「およ? ちょいと不機嫌?」
さっきまで泣いていた自分が馬鹿らしくなる。でも、そうだ。僕の愛した人はこういう人だったと思う。
「春馬、ごめんね」
ごめん?
馬鹿言ってんじゃないよ。
「へ?」
「そこは、ありがとうでしょ? 春華さん」
言い終えたのが先だったか、ぱっちりと意識が戻った。
「・・・・・・春華、さん」
涙が伝って頬が濡れていた。泣くほどいい夢だったのか、悲しい夢だったのか、もう思い出せない。ただ彼女が傍にいた気がする。・・・・・・それだけで十分か。
上体を起こして身体を伸ばす。部屋を見渡すとゲームオーバー画面で放置されたゲームのモニターとコントローラーを握ったまま流石に電池が切れたのであろう秋貴が倒れていた。
「ベッド、ありがとね」
言いながら掛け布団を掛けてやる。
ポケットに突っこんだままにしていたスマホを見ると時刻は九時を過ぎたところだった。思ったよりも寝ていたみたいだ。まあ休み取っているし別にいいか・・・・・・。
なるべく音を立てないように部屋を後にして階段を降りる。リビングに顔を出して、
「あ、おはようございます、おばさん」
「あら、おはよう。春馬くん。秋貴は?」
「マジで夜通しゲームしてたみたいなんで、もしかしたら昼まで起きないかもです」
「あらあら」
おばさんは「まあお休み取ってるみたいだし良いんだけどね」と言いつつ、お茶を一口。
「おじさんは・・・・・・」
「主人なら仕事。・・・・・・昨日こと、すまないって」
「いえ、僕も直接話せればよかったんですけど。お気になさらずとだけ伝えておいてください」
「わかったわ」
「はい」
「そういえば春馬くんは今日これからどうするの? 秋貴のこと起こさなくて平気?」
「うーん、そうですね」
特に予定もないが、荷物の中身に鉛筆と画用紙を入れてきたことを思い出した。
「秋貴は寝かしといてやってください。僕は一人で大丈夫ですから」
「そう?」
「はい、今年もお世話になりました」
「いいのよ。あなたが来たら二人とも喜んでくれるし」
「また来ます。今日のところはこれで」
「ええ。またね」
玄関まで送ってもらって、僕は駅へと向かう。自宅に戻って着替えてからでもよかったのだが、そうすると気力がなくなってしまうかもしれないから、そのまま電車に揺られて、僕はまた海に来た。
「うん、今日は天気が良くていいね」
快晴だ。絵を描くならこうでなくちゃ。
「さて・・・・・・」
いつもの塀に座って鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出す。そして、海を感じながら絵を描き始めた。
思い出すのはいつもの光景。
僕と春華さんで並んで書いた海。
見える景色はいつも違うものだけど、イメージは変わらない。
しばらくスケッチブックへと描きこむことに集中していると、
「げ、先輩?」
「ん?」
げ、とはなんだ。
「冬木?」
「やっぱ先輩だ。なんでいるんすか」
「こっちの台詞だし、今日平日だろ。仕事は?」
「私のところシフト制ですもん。今日は休みで」
「そうか。・・・・・・で、君は」
彼女の手にしているものが目に付いた。数輪の花束だ。
「ま、私は面識ないですけどね。一応、ライバルだと思ってるので・・・・・・。これくらいはしたいと思ってるんですよ」
「ライバルって」
「私、まだ諦められてませんもん」
言いながら、冬木は砂浜に降りて花束を海へと離した。
春華さんは喜んでいるだろうか。愚問か。めちゃくちゃ喜んでいるに違いない。こんなに可愛いライバルができたって振り回すのだ。そういう人だった。
「ふう」
「ありがとう、春華さんに」
「いいえ。勝手にやってることですから」
「毎年やってくれてたの?」
「ええ、まあ」
「申し訳ないな」
「なんで先輩が申し訳なくなるんですか。あれですか、亭主面ですか」
「いや、そんなつもりは」
たしかに僕の今の目線はおかしかったか。
「ま、いいんですけどね」
言いながら隣に座って、
「私のことは気にせず、絵の続きどうぞ」
「ああ、うん」
と言われて集中できるものではないけど。僕達はお互い口を開くことなく時間だけが過ぎていった。
「あー、っと。冬木」
「なんですか」
「タバコ、いい?」
空白の時間がしんどくて言うと、冬木は頷いて。
「私にもください」
「え?」
「タバコ。いいでしょ?」
「別にいいけど、冬木って喫煙者だっけ」
「いえ」
僕は胸ポケットからタバコの箱を取り出して、その中から一本渡す。
「おー、これが先輩や秋貴先輩を誑かすものなんですね」
「誑かすって・・・・・・」
たしかに誑かせれているかもしれないけど。
「ほら、冬木。火つけてやるから。咥えて」
「あ、はい」
「最初は勢いよく吸うなよ。絶対にむせるから」
「ふぁい」
大丈夫かなーなんて思いつつ火をつけてやって、案の定、
「ゲホッ、ゲホッゲホッ」
煙にむせていた。やれやれと僕は冬木の指からタバコを取って、
「どうだった? 初めての喫煙は?」
「け、煙味でした・・・・・・」
「まあ、だよね」
冬木から取ったタバコを今度は僕が咥えて一服。
「あ・・・・・・」
「どうしたの?」
「い、いえ、間接キスだなと」
「そんなこと気にする歳でも間柄でもないじゃないか」
「まあ、そうかもですけど。ちょっと気にしてくれたら嬉しいなとか」
もごもご言う冬木。僕はそれを聞かなかったことにして。
「とりあえずタバコなんてやめときなよ。百害あって一利なしだから」
「はい。てか一生無理です。煙まずすぎ」
「僕も最初はそう思ったよ」
だけども、これが案外慣れてしまうものなのだ。
スパーっと煙を吸って、吐き出して、気が付けば燃え尽きていた。僕は吸殻を携帯灰皿に捨てて、
「さて、僕は絵描きに戻るよ」
「はい」
「冬木は? 暇じゃない?」
「大丈夫です。横で見てます」
「そっか」
僕は静かに鉛筆を動かす。隣を意識することもなくなって、そんな頃。
「あー!」
小さい女の子の声。
「ん?」
「先輩、知り合いですか?」
「ああ、うん」
鉛筆を置いて女の子に手を振る。
「やあ」
「こんにちは、先生!」
「うん、こんにちは」
今日も元気いっぱいだ。
「今日もお絵描きする?」
「お絵描きじゃなくて、絵画! おかーさんが言ってた!」
「そんなレベルの高いことしてないよ」
思わず苦笑して、
「ああ、冬木。ごめん説明が遅れた。この子はこの近所に住んでいる女の子なんだ」
「はあ」
「で、僕がこの辺で絵を描いてることに興味を持ったらしくてね、この子やそのお友達に絵を教えてるんだよ。たまにね」
「夏目蒼です! よろしくお願いします!」
蒼ちゃんは深々と冬木に頭を下げる。
「あ、ど、どうも・・・・・・。冬木叶です」
なんで小学生に及び腰なんだ。
「冬木さんは!」
「は、はい」
「先生の助手さんですか!」
「あ、い、いえ、私は・・・・・・」
「彼女さん?」
「あー」
頷こうとするな。僕は冬木の後頭部にチョップを入れて、
「友達だよ。大切な友達」
そう代わりに答える。
「で、蒼ちゃん。今日は絵を描きに来たの?」
「ううん、学校帰り」
「そっか。でもそれなら、寄り道は感心しないな」
「うぐっ」
「まあまあ、この子――蒼ちゃんにも事情はありますよ。ねえ?」
「う、うん」
冬木はそう言って塀から降りると、
「でも、蒼ちゃん。帰りが遅くなったらおとーさんもおかーさんも心配するよ?」
「・・・・・・うん、あのね」
蒼ちゃん曰くテストの点数が悪かったらしい。でも、自信ある科目だからと親に見栄を切っていたそうだ。そんなことだから顔も合わせづらく、いつも遊びにいく浜へと来たとのことだった。
「大丈夫だよ、蒼ちゃん」
「ふえ?」
「テストの点数なんて。そりゃちょっとは勉強しろって言われるけどさ、それも大事なことだからさ。うーん、だからその」
「くよくよするな!」
僕は冬木の言葉を引き継ぐように言った。
きっと、きっと僕の大好きな人はそう言ったはずだから。
「大丈夫だよ、蒼ちゃん。そんなことで君のお母さんもお父さんも悪く思ったりしないよ」
「う、うん」
「そうだ。僕――先生が絵だけじゃなくて勉強も見てあげるよ。そうしたらお母さん達も安心しない?」
「うん!」
蒼ちゃんはキラキラした目で、
「約束だよ?」
「もちろん。次の土曜日はここにいるから、君もお友達とおいで」
「うん!」
キラキラしたままの彼女は「約束ねー!」と家路につく。
「いいんですか、そんな約束して」
「うん。どうせ、ここで絵を描いてるつもりだったから」
「ですか」
「うん」
「先輩、そんなに子供から好かれてるなら教師になればよかったのに」
「え?」
何を突然。鉛筆を落としそうになる。
「あからさまに動揺しちゃって。・・・・・・誰かにも、似たようなこと言われたことあるんでしょ」
「・・・・・・ああ、うん。そうだね」
初めて、人に絵を教えた光景が頭に過る。あの時の彼女も僕にそう言ったのだ。
「ま、僕なんかじゃまだまださ」
「そうですか?」
「そうだよ」
でも。
「頑張っても、よかったのかもしれないな」
「教員免許?」
「うん」
「今からでも頑張ればいいじゃないですか」
「いやいや、会社を辞めるわけにもいかないし、今はたまにこうやって絵を教えるくらいが性に合ってるよ」
「ですか」
「うん」
頷いて、また会話が途切れる。
僕はスケッチブックに絵を描き込むことに集中しようとして、
「ねえ、先輩」
「ん?」
鉛筆を動かしながら答える。
「どうかした?」
「私達、結婚しましょうよ」
「ああ、うん・・・・・・って、え?」
とんでもない単語が聞こえてきた気がする。僕は思わず手を止めて、隣の彼女に向き合う。
「もちろんすぐって話じゃないですよ」
「え、あ、いや、うん」
「そうだなー。あ、漫画とかでよくあるやつ。私が三十歳になったとき、そのときにお互い恋人がいなかったら、私と結婚してください」
「・・・・・・本気で言ってる?」
「あなたの後輩は、こんなこと冗談で言う後輩でしたか?」
「まあ割と」
「そんなことないですけどねー」
「・・・・・・ふう」
僕は天を仰いで、息を吐き出した。
どっちとも取れない。冗談な気もするし、本心であるような気もする。
だいたい五年後の話だ。そんなの今考えたってどうしているか分からない。僕はこの町から離れているかもしれないし、冬木がこの町から、お互いがどこか遠くに行く可能性だってある。
「あ、あはは、あの、もしかして、ちょっと真剣に考えてくれてます?」
そりゃ、そんなの。
「当たり前でしょ・・・・・・」
「いやあ、さくっと流してくれても、その、ダメージ少なくていいかなって思ったんですけどね、あはは」
「僕は、決して君のことが嫌いなわけじゃないよ」
むしろ好きだと思う。
ずっと一緒にいてくれた異性だし。接してきた長さで言えば春華さんよりもずっと長い。
「でも、僕は、僕は・・・・・・」
「・・・・・・忘れられませんか?」
残酷にも取れる問いにこくりと頷く。
僕は春華さんを忘れられない。こうして海を描いていることだって、春華さんの影を追いかけていることに他ならないのだ。心の中にいる彼女を追い出して、他の誰かを好きになれるのか? 愛せるのか? それができないなら相手の気持ちを裏切り続けることになる。
「でも、それなら丁度いいじゃないですか」
「丁度いい?」
「事情を知ってる私なら、あなたから春華さんを追い出したりしませんよってことです」
「それは・・・・・・」
甘美に聞こえた。
その通りだと思ってしまう。
「・・・・・・ダメだろ」
「先輩?」
「だめだよ、そんなの」
「なんでですか?」
「冬木、君はもっと幸せになれるよ。僕なんかに構う必要はないんだ。自分を傷つけるようなことは言っちゃいけないんだ」
僕は、冬木とは幸せになれない。
僕は、冬木を幸せにできない。
そうして引いた手を、掴まれた。
「冬木・・・・・・」
「先輩。大丈夫ですよ」
大丈夫?
「私、そんなに弱くないですから。どれだけ先輩の初恋が強烈で、どうしても忘れられなくて、余所見すら考えられないとしても、強引に、顔面固定して振り向かせますから」
「顔面固定って」
「はい。だから、せめて私のチャンス奪わないでください」
「・・・・・・僕は」
僕はこんなときでも春華さんの姿を思い出している。
最期の姿を思い出している。
「僕はね、一途なんだよ」
カチャリと眼鏡を掛け直して、
「だからさ、もしかしたら君を傷つけるだけかもしれない。いや、かもしれないなんかじゃない。絶対に傷つける。泣かせることになるよ」
「はい」
「それでも、そうだとしても、あと五年も待てるの?」
「待てますよ」
即答だった。
「てか、五年くらい余裕ですよ。それで先輩が手に入るなら」
「・・・・・・五年ってさ」
「はい」
「短いかな、長いのかな」
「あっという間なときもありますし、そうでないときもあります。なんせ時間ですから」
そうだよな。
僕はその時間の中で、春華さんへの気持ちに折り合いを付けられるのだろうか。
答えは誰もくれない。
「冬木」
「はい」
「ちゃんとカウントしておいてよ? 僕はずるいから先延ばしにしちゃいそうだ」
「え?」
「え、じゃなくて」
「いや、あの、は、はい!」
泣き笑いみたいな表情を浮かべる冬木を横目に、僕はまたスケッチブックへと意識を戻す。
春華さんの言葉を思い出した。
『幸せになってね』
そう言った彼女の姿が、僕のすぐ傍にあった。
前に進む時が来たのかもしれない。
「よし・・・・・・!」
そうだ。冬木に、秋貴に、色んな人に押されてきた背中だ。もう前に進む時なのだ、きっと。
僕はスケッチブックを閉じて、
「冬木」
「はい?」
「今日のお絵描きは終了。ご飯でも行こうよ。あ、時間ある?」
「え、あ、大丈夫ですけど、いいんすか?」
「いいよ。今から電車乗って戻ったらいい時間だろうし」
「で、ですね」
「よーし。秋貴も誘ったら来るかな」
さすがにもう起きているとは思うけど。
「あ、あの!」
「ん?」
「今日は先輩と二人がいいす・・・・・・」
「そっか」
「だめですか?」
「いいや、じゃあ、今日は二人でご飯にしよう」
スケッチブックと鉛筆を片付けつつ、「何食べようかなー」なんて呟く。秋貴の家ではがっつりと和食を食べさせてもらったから、中華とか、激安のイタリアンレストランでも財布的には助かる。
「冬木、なんか食べたいものある?」
「えと、あーっと」
本調子じゃない冬木に手を差し出して、
「そんな調子じゃ五年ももたないぞ?」
「も、もちます! もたせますから!」
言いながら僕の手を掴む。
「でも、今だけは、今だけはちょっと感動させてください」
「・・・・・・うん」
これでいい。
これでいいんだ。
こうして僕はゆっくりと前へと進んでいく。失ったものは置いて、僕は新しいものを掴んでいく。
『幸せになってね』
そう笑った彼女を思い出す。
はい。
僕は幸せになります。
これでいいんですよね。
僕、間違えてないですよね。
――答えはない。当然だ。
これは僕が決めないといけないことなのだから。




