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 それから。

 僕は春華さんの絵にできる限りの時間を費やした。

 遂には学校を休み、バイトも辞めた。自室に籠ってただ筆を動かしていく。

 これでも、一応は真面目に過ごしていたつもりだ。

 普段の僕ならサボることなんてしなかったから、両親も心配していたし、冬木や秋貴からの連絡もあったが、それでも僕は部屋から出なかった。そうしないと僕は立ち止まって進めなくなりそうだった。

 唯一の外出は春華さんのお見舞いだけだ。

「こんにちは」

 ノックして病室に入ると、今日の春華さんはベッドを起こして座っていた。

「春馬」

「どうも、今日は少し調子良さげですか」

「うん」

 頷いてくれる。

 でも、春華さんは日に日にやつれているような気がした。

「・・・・・・」

 いや、気のせいだ。

「どうかしたの?」

「いえ、どうもしてないです」

 悪いことばかり考えても仕方がない。

 僕はベッドの近くにあるパイプ椅子に座ると、春華さんの手を握り、彼女もそっと握り返してくれる。気が付けば定着していた会話のスタイルだ。

「最近よく来てくれるね」

「そうですか?」

 今の僕を春華さんに話したらきっと怒られる、だから僕は何も話さなかった。

「ここのところ毎日じゃん。学校とかバイトとか大丈夫?」

「そりゃもちろん」

「それならいいんだけど、ね、私のことばっかり優先しないでよ」

「はい」

 頷きながらも、春華さん以外に優先することなんてあるわけないじゃないかと心の中で反論する。

「んー? 反抗的な目をしているな」

「い、いやいや、そんなことないですよ」

「本当かなー?」

「本当ですよ」

「それならよろしい」

 春華さんは納得したように頷くと、

「でもさ、本当に自分を優先してよね。老い先短い私に構ってばっかじゃ損するよ」

「しませんよ」

「するって」

「絶対にしません」

「強情だなぁ」

「こればかりは譲りませんよ」

「しょうがない奴だ」

 春華さんは呆れたように笑いながらも、少しだけ頬を赤らめてくれていて。

 きっと満更でもないのだろうと、都合よく解釈しておく。

 それから少し会話を続けていると、春華さんはまた眠たそうにして。彼女が眠りにつくまで病室で過ごす。それが最近の流れだった。

「それでは、おやすみなさい」

 それだけ小声で残して、ゆっくりと手を離すと僕は病室を後にする。

 帰ったらまた絵の続きを描く。

 そんな日々を更に重ねて。

 ――やがて。

「・・・・・」

 春華さんの絵が完成した。

 僕が描いてきた中で、きっと、最高傑作だと言えるもの。

 何度も描いては修正を重ねて、ようやく完成の時を迎えたのだ。

「・・・・・・」

 けれども、だ。

 僕には完成させた喜びよりも、完成させてしまった悲しみの方が勝っていた。

 この絵は彼女の遺影に使われる――彼女の最期を象徴するものとなってしまうのだ。

 最初からそんなの分かっていたことだ。そうするように頼まれたのだから。そう言い聞かせても僕の心から悲しみが抜けることはなくて。

「思い悩んでも仕方ない、よな」

 そうだ。思い悩んでも仕方ない。

 自分に言い聞かせて、部屋の壁にかかった時計を見る。

「・・・・・・一時半、か」

 病院の面会開始まであと三十分くらい。

『ごめん、今いいかな?』

 秋貴へとメッセージを送る。すると、すぐに既読がついて、

『おう。どうした?』

『絵が完成したんだ』

 それですべてが伝わったようだ。『すぐ行く』とメッセージが来た。

 僕はキャンバスの絵に傷がつかないようにしっかりと布を掛けて秋貴を待つ。彼はまた三十分くらいで来てくれて、

「よお」

「うん」

「なんか久しぶりだな」

「そうかな」

 二週間くらいだったか。ずっと籠りきりだったし。ちゃんと顔を合わせるのはたしかに久しぶりかもしれない。

「ありがとう、わざわざ」

「いいんだ。お前こそお疲れさん」

「うん」

 そして。

 秋貴の運転で病院まで移動する。

「なあ」

「ん?」

 僕はとくに何かを考えることもなく、ぼけーっと窓から景色を眺めていると、秋貴から声をかけられた。

「その、なんだ、えっとさ」

「どうしたんだよ」

 秋貴にしてはらしくない歯切れの悪さだ。

「いや、すまん。なんでもない」

「そう?」

「ああ」

それから僕達は病院に着いて、秋貴は前と同じように病室までキャンバスとイーゼルを運ぶのを手伝ってくれると、「帰るときに連絡をくれ」と一言残して病室から出ていった。

「さて、こんにちは、春華さん」

「うん、こんにちは」

 顔色は最近の中でずっとよかった。調子が良いのかもしれない――なんて、油断できるわけじゃないけど。

「この大荷物ってことは」

「はい。・・・・・・春華さん、お待たせしました」

「うん」

 春華さんはベッドを起こして僕と向き合う。

「今日は快調でね。こんな日に持ってきてくれてよかったよ」

「そうでしたか」

「それが完成した絵?」

 布を掛けたままのキャンバスを指差す。

「そうです」

「よしよし、見せてくれよ。実は結構楽しみにしてたんだから」

「はい」

 僕は頷いて、布を取った。

「わあ・・・・・・」

 描いたのは微笑む春華さんの姿。

 いつも浮かべている優しい姿。

 背景を青くしたのは海での景色が忘れられなかったからだ。

「これが、私の」

「はい」

「不思議な気持ち。・・・・・・何ていうか、鏡を見てる感じ?」

「それならよかった。全然似てないなんて言われたら急いで描き直さないといけないところでした」

「あ、でも」

「え、なんか問題ありました?」

「なんか私より絵の方が奇麗かも」

「そんなことないですよ」

 僕ははっきりと言い切る。口にするのは照れるが、これは譲れない。

「本人の方が断然上です」

「それ、恥ずかしいんだけど」

「でも事実ですからね」

「あーはいはい。わかりました。――もう体温上がっちゃうよ、この後検温あるのに」

 パタパタと自分の手で顔を仰ぎながら言葉を続ける。

「でも、本当によかったよ。完成した絵が見られて」

「はい」

「何かお礼をしないといけないなー」

「お礼なんて、そんなのいいですよ」

「労力の安売りはよくないぞ、青年。私が依頼して、君はそれを成し遂げたんだから。そういうところはちゃんとしないとね」

「いやでも、ほら、今まで色々と相談に乗ってもらいましたし」

「それくらいでトントンになることはないでしょ」

「僕はそれでいいんですけど」

「ダメだよ、こういうのはしっかりしないとね」

 そう言って春華さんは考え始める。

「現実的なのはお金かな」

「僕達、友達同士でしょう? お金のやり取りなんて必要ないですよ」

「うーん、バイト料ってことで」

「嫌です」

「結構難しいこと言うな」

「春華さんが素直にただで受け取ってくれればいいんですよ」

「それはダメ」

 お互い主張が平行線だ。

 どうしたものかと悩みだしたところで、春華さんは何かいい案を思いついたのか「そうだ!」と声に出して、

「何か妙案でも思いつきましたか」

「うん。私も一つ、春馬の頼みを聞いてあげようと思って」

「頼みですか」

「そう。なんでもいいよ。もちろん私の叶えられることなら。・・・・・・あ、でも、できること少ないし割に合わないか」

「そんなことないですよ。でも、そうだな・・・・・・いきなり言われてもパッとすぐには出てこないんですよね」

「そんなもん?」

「そんなもんです」

 嘘だ。

 本当はすぐにでも口に出しそうなことがあった。

 でも、それを・・・・・・「生きてください」なんて春華さんに言うのはあまりにも残酷だ。

 絵から離れて、いつものように春華さんのベッドの傍へパイプ椅子を開いて座る。すると、「ん」と春華さんが手を差し出してきて、優しく握る。

「春馬」

「はい、なんですか」

「何か悩み事かね」

 触れ合って何か感じるものがあったのだろうか。

「そんなことは・・・・・・」

「・・・・・・私に頼み事ってやっぱり難しいかな」

「違いますよ」

 少しだけ手に力を込める。

「本当に、ただ思いつかないだけで」

「そうかなー」

「そうですよ」

「あ、春馬にだったらちょっとエッチなのでもいいぞ」

「なっ、と、いや、そういう誘惑しないでください!」

「あはは、じょーくじょーく!」

 まったく春華さんは。そうやって僕を笑わせてくれるんだから。

「・・・・・・頼み事考えておきますよ。近いうちに必ず言います」

「わかった」

 春華さんは頷いて、

「でも、あんまり待たせないでね。私いなくなっちゃうから」

「またそんなこと。縁起でもないこと言わないでくださいよ」

「ごめん」

 困ったように笑う。

 僕はその笑顔を見ているのがつらくて顔を伏せた。

「春馬」

「なんですか」

「ううん、なんでもない」

 そう言って僕の頭を撫でる。

「なんで撫でるんですか」

「何となく」

「そうですか」

「嫌だった?」

「いえ、そんなことはないですけど。あ、でも子供っぽく思われているなら嫌だな」

「そんなことないよ。春馬は立派」

「その言い方は逆に疑ってしまうんですけど」

「まあまあ、大人しく撫でられてなさい」

 それからはお互い無言のままで、僕は大人しく撫でられた。

 心地のいい時間が過ぎていく。

 こんな時間が長く続けばいいのに。そう思わずにはいられなくて。

「春馬」

「なんです?」

「ありがとね」

「どういたしまして」

 もっと続くように祈る。僕達がずっと一緒にいられるように祈る。


でも、現実というのは非情で、何よりも残酷だった。


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