噂とは
噂というものは、誰かが口にした瞬間に事実になるのではなく、誰かが「そうかもしれない」と思った瞬間に生まれるのだと思う。
石造りの城は音を反響させるから、廊下の角で交わされた囁きは薄い布のように伸びて、意図せず耳にまとわりつく。
「最近、殿下はあの金髪の側近ばかりだな」
「第二王子は女好きだと思っていたが……まさか男にまで?」
「いや、操られているんじゃないか。田舎者のくせに、妙に口が回るらしい」
俺は足を止めず、顔の筋肉も動かさずに通り過ぎたが、背中に氷水を垂らされたような感覚だけは誤魔化せなかった。
厄介なのは、その矢が俺に刺さるだけでは終わらないことだ。
王子が誰かの言いなりだと囁かれた瞬間、彼の決断の全てが疑いのレンズを通して見られ、些細な采配すら政治の罠に変わる。
(……俺がロンゲールの弱点になってるってことか)
執務室に戻ると、ロンゲールは窓辺に立っていた。
いつもなら笑って迎えるのに、今日は空気が乾いていて、窓の外の風の音がやけに大きく聞こえる。
「聞いたな」
振り向かずに彼は言い、俺も隠す気力を捨てた。
「耳にしました」
「気にするな、とは言わん。あれは気分の悪い話だ」
そこでようやく振り向いた目には笑いがなく、怒りと、それよりも深い苛立ちが沈んでいた。
「俺が、お前を側に置くせいで余計な口が動く」
否定したかった。俺は彼の側にいたい。
だが同時に、俺が側にいることで彼が傷つくのなら下がるべきだという理屈も立つ。
言葉が遅れた俺を、ロンゲールは沈黙ごと握り潰すように続けた。
「午後の小会議に出る。お前も前に立て」
「わ、私もですか?」
嫌な予感がした。
「あぁ。俺と、俺の可愛い可愛い臣下が舐められたんだ。面と向かって言えるのか見てやろう」
・
小会議室に集まっていたのは若い貴族たちで、表向きは税の確認、実際は第二王子の品定めだ。
ロンゲールが入った瞬間、空気が一段冷えた。
噂という面でイニシアチブを取っていたのは貴族達だったが、彼らの顔は明らかにロンゲールへ気後れしている。
「面白い話を聞いた。俺が側近に操られているらしいな」
なんの起こりもなく、ごく自然にロンゲールは言った。
誰も否定しない沈黙は、噂の正体をそのまま示していた。
「リンタロウ。俺に命じろ。俺は操られているんだろう?」
俺は一瞬、言葉を選んだ。
派手にやれば面白がられ、穏当にやれば彼が納得しない。
(だったら……これを逆手に取ってやる)
わざとらしく考える素振りを見せ、口を開く。
「では殿下。三ヶ月の間、不要な宴席への出席を控えてください。酒と女の噂が増えるほど政務の信用が削れます」
沈黙が形を変えて広がった。
噂が求める下世話な結論から最も遠い言葉だったからだ。
ロンゲールは嬉しそうでも不服そうでもない顔で頷いた。
「いいだろう。従う」
そして立ち上がり、笑った。
陽気さで場を和ませる笑いではなく、牙を見せて喉元を押さえる笑いだ。
「聞いたか。俺は自分で選ぶ。こいつを側に置くのも、こいつの言葉に従うのもだ。操られていると思うなら、次は俺の前で言え。その時に下される指令は、目の前の小動物を狩る事かもしれないがな」
会議はそれで終わった。
噂は陰でしか生きられないから、陽の当たる場所に引きずり出されると死ぬ。
廊下に出たとき、俺はようやく息を吐いた。
胸の奥の硬い塊がほどける一方で、別の痛みが残る。
彼は俺を守ったことになる。
それも、公の場で。
俺が彼の弱点になるという恐れごと、笑って叩き潰したのだ。
「……やりすぎではありませんか」
「噂は放っておくと育つ。畑の雑草と同じだ」
「私は雑草ですか」
「違う。お前は……そうだな、芋だ」
「芋?」
思いもよらない答えに首をひねる。
「芋だ。色んな食い方ができるし、栄養もある」
「なる……ほど?」
多分、褒められているのだろう。
歩きながら彼の横顔を盗み見ると、黒髪は乱れていないのに、眉間だけが僅かに寄っていて、さっきまで会議室を支配していた余裕が、俺の目の前でだけ剥がれ落ちているように見えた。
あの場で俺を「側だ」と言い切った口が、次の瞬間には何事もなかったように軽口を叩けるのは、彼が強いからではなく、強くあろうとしているからだろう。
そう考えた途端、噂に腹を立てていたはずの感情の底に、別の熱が混じった。
守られたことへの安堵と、守らせてしまったことへの負い目が同じ場所で絡まり合い、言葉にしてしまえばどちらも壊れてしまいそうで、俺は結局、大したことは言い返せなかった。
それでも胸の奥が落ち着かないのは、噂そのものより、あの瞬間の視線のせいだった。
彼は皆の前で俺を盾にしたのではなく、俺を立たせた上で「俺が選ぶ」と宣言した。
これは支え合いだ。
俺が彼を支え、彼が俺を守る。
・
噂というものは、一つ潰せば終わるほど素直ではない。
ロンゲールが公の場で俺との関係を明言した翌日から、城内の視線はあからさまに変わった。
昨日までは「王子が怪しい」だったものが、今日は「側近が怪しい」にすり替わっている。
――田舎出身の男が王子の懐に入り込んだ。
――出世目当てに取り入ったに違いない。
――第二王子は情に厚いからな、騙されやすい。
耳に入る度、胸の奥が静かに冷える。
(……予想通りだ)
ロンゲールを傷つけるよりは、俺を疑う方が安全だろう。
王族を真正面から貶すより、無名の臣下を悪者に仕立てる方が簡単だからだ。
だがそれは同時に、彼の「選ぶ」という言葉を否定する行為でもある。
ある日の昼下がり、俺はわざと若手貴族たちの集まる書庫へ足を向けた。
資料を探すふりをして棚の間に立つと、案の定、ひそひそと声が落ちてくる。
「例の金髪か」
「王子の寵臣様だ」
「農民上がりのくせに、よくやる」
視線が突き刺さる。
だが今回は背を向けない。
「失礼」
俺はゆっくり振り返り、頭を下げた。
「何かご用でしょうか」
貴族の一人が鼻で笑う。
「用はない。ただ、お前は大した策士だなと思ってな」
「策士、ですか」
「第二王子に取り入るとは。あの方は優しいのだろう?」
皮肉は分かりやすいほど分かりやすい。
俺は静かに息を吸った。
「では、一つお伺いします」
相手が一瞬だけ眉を上げる。
「第二王子殿下は、取り入られるような方に見えますか」
問いは柔らかいが、刃を隠すつもりはない。
「何?」
「殿下は自ら選ぶお方です。この前の会議でご覧になったはずでしょう」
あの日の宣言は、すでに城内に広がっている。
貴族たちの表情がわずかに揺れた。
「私は殿下に付き従っていますが、殿下の決断を曲げる力は持っておりません。もし私が出世目当てならば、もっと無難な王子を選んでおります」
「無難、だと?」
「第一王子殿下は王位継承に最も近いお方。そちらに取り入る方が、よほど効率的でしょう」
書庫の空気が、ぴたりと止まった。
これは危うい線だ。だが言わねばならない。
「私は、第二王子殿下が楽な道を選ばないと知っているから仕えております。出世のために選ぶ相手ではありません」
貴族の一人が腕を組む。
「それを証明できるのか」
「できます」
即答ではない。
静かに、噛み締めるように。
「私は殿下から俸給以上のものを受け取っておりません。土地も、特権も。もし疑われるなら、帳簿を開示していただいて構いません」
周囲がざわつく。
特権の辞退は、噂を潰す最短距離だ。
「さらに申し上げれば、私はいつでもこの地位を返上できます」
自分で言いながら、胸の奥がわずかに痛んだ。
「殿下が望まれれば、私は村へ帰ります。殿下の評判を損なう存在であるなら、残る理由はありません」
それは本心だ。
俺は彼を支えるためにいる。アンリとの幸せの踏み台。
彼の足を引くためではない。
沈黙が落ちる。
先ほどまで嘲る側だった男が、視線を逸らした。
「……そこまで言うなら」
「噂は、疑う側の心が作ります。ですが殿下の名誉を守るためなら、私はいくらでも疑われます」
言葉を重ねるうちに、胸の震えは消えていた。
「ただし一つだけ」
俺は穏やかに続ける。
「殿下を操られる方と見なすのはおやめください。あの方は、誰よりも自分の意志で立つお方です」
書庫の窓から差し込む光が、埃を照らす。
長い沈黙の末、貴族の一人が小さく息を吐いた。
「……噂は、消えない」
「承知しております」
「だが少なくとも、我らは軽々しく口にしないようにしよう」
それで十分だ。
俺は深く頭を下げた。
「感謝いたします」
書庫を出た途端、膝の力が抜けそうになる。
(怖えぇ……)
だがその時、背後から低い声がした。
「ほうほう。さぞかし頼りになる方なんだろうなぁ」
振り返ると、柱にもたれたロンゲールが腕を組んでいた。
「聞いておられたのですか」
「全部な。なかなか格好良かったぞ」
口元は笑っているが、目は真剣だ。
「帰るって言ったな」
「事実です」
「俺が望めば帰ると?」
「はい」
頷くよりも早く、数歩で距離を詰められる。
視界が黒で埋まる。
「俺は望まん。お前がいないとつまらん」
軽口のようでいて、どこか本気の色が混じっている。
「……では、ロンゲール様の後光を、もう少し利用させていただきます」
「はは、利用か」
ロンゲールは俺の肩を軽く叩いた。
「俺たちは互いを利用している。良いことじゃないか。対等だろう?
その言葉が不思議と胸に落ちる。
噂は消えないが、皮肉にも噂のおかげで俺たちは、背中合わせではなく隣に立っている気分になれた。
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