光の教団へ
この世界には、魔法が息づいている。
風を呼び、火を操り、光を生む力が、人々の生活を支えていた。
街の灯りも、農地を潤す雨も、すべては魔法と共にあり、その力を巡って争いが起こるのも、また日常の一部だった。
だが、魔法はすべての人が使えるわけではない。
選ばれた地と、選ばれた資質を持つ者だけが、魔力の奔流に触れ、それを行使する術を得る。
それは、祝福であると同時に——時に、呪いでもあった。
***
柔らかな陽が、森の葉を透かして差し込んでいた。
空気は冷たく澄んでいて、朝露を含んだ草の香りが風に運ばれてくる。
ざっ、と落ち葉を踏む音が一つ。
黒を基調としたロングコートの少年が、まっすぐな足取りで林道を歩いていた。
首筋にかからぬ短い銀白の髪が、陽に反射してかすかに光を返す。
背に揺れているのは、大きな黒革のリュック。魔導具の拡張呪文が施されており、食料や薬草、魔道具に魔導書までがぎっしりと詰め込まれていた。
少年の名は——ノア・エルステッド。
その肩に、ふわりとした影がちょこんと乗っている。
「……ねえノア、そろそろ休まない? あと一歩でボク、足が取れそう……」
淡い黒藍色のふわふわとした毛並み。
瞳の奥には、星空が閉じ込められたようなきらめき。
フェニル族の小さな従魔——ミカエルが、わざとらしく体をぐったりと倒して見せた。
「足、ないじゃん……」
「ノア、そういうの冷たい」
「冗談だよ。もう少し歩いたら、休もう」
ノアが小さく笑って肩を揺らすと、ミカエルの羽がふるふると震える。
くすぐったそうに身を寄せながら、ミカエルは満足げに目を細めた。
ノアはふと足を止め、枝葉の隙間から差し込む光の向こうに目を凝らす。
木々の影が徐々に薄れ、視界が開けていく。
そして、二人が森を抜けたその先に見たものは——
ただ、広がる大地だけだった。
砂漠のような砂地が一面に広がり、建物も、道標も、誰の気配もなかった。
どこまでも地平が続いている。
まるで、この世界に取り残されたかのような静けさだった。
「……なにも、ないね」
ミカエルがぽつりとつぶやいた。
その毛並みが風にふわりと揺れ、空の青に溶け込んでいくように見える。
ノアは無言で歩みを進めながら、遠くの空を仰いだ。
「……道、間違えたかな。師匠の地図アバウトすぎて、よく分かんないや」
「カイルはほんと、適当な人間だね」
ノアの脳裏に、あの夜の記憶が淡くよぎる。
黒い霧と赤黒い炎の中、母の手を握って泣いていた少年を拾い上げたのが、
“生き延びた子”を探してやってきた破天荒な魔導士——カイル・アゼルリアだった。
それからの五年、ノアは彼と旅をしながら「力」を学んだ。
魔法を学び、体術を叩き込まれ、悪魔との戦いを知った。
そして今、その師は突然「もう教えることはない」と一言だけ書き残し、姿を消したのだ。
残されたのは、紹介状と、荒れた地図だけ。
ノアは大地の真ん中で立ち止まり、リュックのベルトを軽く締め直した。
ノアは背のリュックを直し、小さく息を吐く。
「……あれ、やっぱりこっちじゃない?」
空を見上げるミカエルが、少しだけ首をかしげた、そのときだった。
——カチリ。
乾いた金属音が、首筋に触れた。
ひやりとした冷気とともに、鋭利な何かがノアの皮膚をかすめる。
ほんのわずかな角度で、肌が切れるか切れないかというところ。
ノアの身体が、瞬時に凍りついた。
「貴様、ここで何をしている」
背後から聞こえた声は、冷たく平坦だった。
感情の起伏を感じさせないその声音は、命を奪うことに迷いがないことを告げていた。
ミカエルがピクリと反応し、ノアの肩の上で身を硬くする。
「ノア、うしろ……!」
ゆっくりと、ノアは首だけを回した。
刃がそれに合わせてわずかに押し込まれ、鋭い感触が皮膚を掠める。
そこにいたのは、一人の青年だった。
長くストレートな薄藤色の髪が、風に揺れている。
冷たい灰の瞳が、じっとノアを見下ろしていた。
その無駄のない体つきと、隙のない姿勢。
何より、視線が違った。
まるでノアの「内側」までを見透かそうとするようなーー魔物を狩る者の目。
(……この人、ただの通行人じゃない)
ノアは瞬時に判断し、ゆっくりと口を開いた。
「ええと……その……“黒の教団”ってとこに行きたいんですけど……道に迷ったみたいで」
青年の目が細まり、わずかに圧が増す。
「教団に、何のようだ」
その声音はさらに一段低くなり、警戒心が増しているのがわかる。
ノアは喉が渇くのを感じながら、言葉を選んだ。
「えっと……カイル・アゼルリアさんって方に紹介されて来たんです。紹介状もあります」
その名を聞いた瞬間に、青年の目がわずかに揺れた。
「……カイルに?」
そして彼はふと顔を背け、視線を宙に向けた。
「どういうことだ、ルカ」
その言葉と同時に、彼の周囲にふわりと浮かぶ、ひとつ目の球体が現れた。
直径20センチほどの球体。
白銀の金属光沢を持ち、中央には赤い瞳のようなレンズが収まってる。
それは意思を持つようにふわりと宙を漂い、ノアの方をじっと見据えた。
《さぁ、私は何も聞いていないけど》
球体の機械音声が、どこか気だるげに返す。
ノアは思わず瞬きをする。
「……しゃ、喋った……」
「だとよ」
青年は、淡々とそう返しながらも、なお刃を引かない。
むしろ、わずかに刀を動かし、ノアの喉元にぴたりと当てた。
「ちょ、ちょっと!?僕に聞かれても……でも、紹介状と置かれてた手紙に“グレイに話は通してある”って師匠が……!」
ノアが慌てて言葉を継ぐと、再び浮遊する球体が応じた。
《グレイ様に?……少し確認してくる。ユーリ、待機》
「……っち。おい、首無しになりたくなかったらじっとしてろよ」
青年ーーユーリと呼ばれた男は、それ以上は何も言わず、刀を引いた。
シュッという音とともに、鋭い気配が引っ込み、ノアの身体の硬直が一気にほどける。
ミカエルが「うぅ、心臓止まるかと思った……」と小声で呟いた。
ノアはゆっくりと首を回し、ユーリの背を見る。
まるで、最初から誰もそこにいなかったような、無音な気配だった。
(あれが……SAVIORの人間……)
神に選ばれし者……。
ノアの胸に、得体の知れない緊張が残っていた。
世界は、まだ、広い。
そして、彼の知らない“強さ”が、すぐそこにあるのだと。