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アビス・ザ・エンド  作者: 御弓
第一章
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プロローグ:黒の夜、赤の瞳



黒い霧が村を覆った夜、少年の瞳に映ったのは、赤黒い炎に包まれる家々と、牙を剥いた影の群れだった。


家が燃えている。空気が焦げていた。

足元の土は熱を帯び、どこかで誰かの悲鳴が弾ける。

瓦礫の下で、母の身体がぐったりと沈んでいるのを、少年――ノアはただ、じっと見つめていた。


血の匂いが、鼻の奥を焼くように刺さる。

必死にその手を握っても、母のぬくもりは、まるで指の隙間から零れるように遠ざかっていく。


「・・・な、んで・・・」


声は震え、吐息のように散って消えた。


父は刃を手に、影に立ち向かっていた。

けれど、黒い影が一閃した瞬間、父の身体は折れ曲がり、鮮血が弧を描いた。

その血が足元を流れても、ノアの手足は凍えたように動かない。


——“お前が呼んだんだよ”


誰かの声が頭の中で響いた。

それはノアの記憶か、幻か、それともずっと昔から植えつけられてきた言葉か。


——“悪魔の子がいるからだ”


村の者たちの声だった。

そう言われ続けた。「あの子は呪われている」「印を持って生まれた」「災いを呼ぶ」と。


霧がわずかに晴れていくなか、炎の向こうに一つの影がゆらりと立ち上がった。


それは異形だった。

漆黒の肉体に赤黒い筋が這い、無数の口が歪に笑いながら蠢いている。

三つの瞳が、まるで血のような光を湛え、瓦礫の影にうずくまるノアを見下ろした。


「おお……いたぞ、小さき者よ」


その声は、ざらついた喉で耳の奥を削るように響いた。

言葉のたびに、口々が勝手に開閉し、不気味な笑いが漏れる。


「お前の中に、嗤えるほど甘い恐怖の匂いがする……」


赤い目がすうっと細まり、黒い体から無数の影が地を這うように伸びてくる。

地面に溢れた血を踏みしめながら、悪魔はゆっくりと近づいた。


母の冷えた手を握ったまま、ノアの指がわずかに震える。


「やめろ……くるな……」


かすれた声が喉を痛めるだけだった。

震える手には、何一つ力が入らなかった。


悪魔は首を傾げ、口のひとつがくぐもった笑いを漏らす。


「なぜ泣く? お前が望んだのだろう?

力を。変化を。恐怖を。

それを望む者には、与えられる。これは、そういう世界だ」


悪魔の瞳に、赤黒い光が灯る。


「生き延びてみろ、小さき者よ。

恐怖を糧に、憎しみを力に変えて——エデンを殺せ」


その瞬間、ノアの胸に熱いものが弾けた。

その名を聞いたとき、理由もなく胸が締めつけられた。


「……エデン……?」


ざわり、と何かが揺れた。


その感情が何かを思い出す鍵なのか、それとも新たな呪いなのかはわからない。

ただ、心臓の奥で、名も知らぬ熱がかすかに灯った。


ずるりと黒い影が後退し、笑い声を残したまま、悪魔は炎の彼方へ溶けていった。


ノアの瞳から、大粒の涙がぽたりと落ちる。

それでも指は、必死に母の手を握っていた。


「……かあ……さ、ん……」


母の身体は冷たく、石のように重い。

血が胸元からじわりと染み出し、ノアの手を濡らす。

その赤が、炎に照らされて黒く光る。


「いやだ……いやだよ……母さん……」


震える声が、夜の気配に吸い込まれていく。


父の叫びも、弟の泣き声も、祖父母の優しい笑い声も、もうどこにもなかった。


「……ノア……」


かすかに、母の唇が動いた。


ノアは、泣き濡れた瞳を彼女の顔へと向ける。


「かあさん……?」


「……生きるの……よ……ノア……」

「……あなたは……生きるの……私の……愛する……ノア……」


最後に、微笑むような母の目から、光が失われた。


その指先が、ノアの頬をなぞるように滑り落ちていく。

ぬるい血が、その頬に一筋、静かに痕を残した。


けれど、もう握り返す力も、泣く気力もなかった。

ノアはただ、母の亡骸を抱いて、炎の中にいた。


遠くで、家が崩れ落ちる音がした。


炎が爆ぜる。夜が割れる。


赤く染まったノアの瞳に、もう涙はない。

ただ、胸の奥で燃えるような痛みだけが、確かに心臓を打ち続けていた。


そしてその夜の果てに、

静かな夜明けが訪れた。



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