夏の終わりの甘い予感
毎年お盆が来ると、僕は両親に連れられて祖母の家へと帰省した。都会のコンクリートジャングルで育った僕にとって、祖母の家がある田舎は、まさに宝島のような場所だった。そこには、都会では決して味わえない、ワクワクするような冒険がいつも僕を待っていた。
その中でも、僕にとって一番の楽しみは、従兄弟とあえることだった。僕とは5歳違いで、一人っ子の僕にとって、最高の遊び相手だった。僕らはいつも、二人で連れ立って林や神社へと探検に出かけた。都会では見ることのできない木々が生い茂り、聞いたことのない鳥の声が響くその場所は、僕らにとって秘密基地そのものだった。
その日も、僕らは林の奥深くへと足を踏み入れた。生い茂る草木をかき分け、土の匂いを胸いっぱいに吸い込む。都会の排気ガスとは違う、清々しい空気だった。
「わあ、カブトムシがいっぱいいる!」
僕が思わず声を上げると、目の前の木には、いくつもの黒光りする塊が蠢いていた。ツノを誇らしげに掲げたカブトムシたちが、まさにそこにいたのだ。僕は目を輝かせ、その光景に夢中になった。
「前の晩に蜜をぬっておいたんだ。去年の夏は取れなかったからね」
従兄弟がそう言うと、僕は驚いて顔を見上げた。
「準備してくれてたんだね?ありがとう」
僕の感謝の言葉に、従兄弟は少し照れたように笑った。
「うん。甘い蜜の香りに惹かれてたくさんのカブトムシが寄ってくるんだよ」
従兄弟の言葉に、僕はさらに興奮した。
「僕の家の近所の木ではセミはよく鳴いてるけど、カブトムシはスーパーにしか売ってないんだ。だからこんなに沢山みれてすごい嬉しい!」
都会では、カブトムシはお金を出して買うものだった。それが、こんなにも自然の中に存在していることが、僕にとっては信じられないほど感動的だった。
「ふふ。俺はお前の笑顔が沢山見れて嬉しいよ」
従兄弟の言葉が、僕の胸にじんわりと染み渡る。僕の笑顔のために、こんなに準備してくれていたんだ。
「えへへへ。いつもありがとう」
僕の素直な感謝に、従兄弟は再び優しい笑顔を見せた。この瞬間が、僕にとって何よりも大切だった。
その日の晩は、神社の境内で盆踊りがあるというので、僕らは連れ立って出かけた。色とりどりの提灯が飾られ、やぐらの上からは楽しげな歌と太鼓の音が響き渡る。屋台からは焼きそばやたこ焼きの香ばしい匂いが漂い、僕はすっかり屋台に夢中になっていた。従兄弟に手を引かれながら、金魚すくいや射的の屋台を次々と見て回る。
夢中になっていた僕に、不意に数人の男子が間合いを詰めてきた。彼らは僕よりも少し年上に見えた。
「なあなあ、お前がこいつの従兄弟なんか?」
一人の男子が、にやにやしながら僕に尋ねた。僕は少し戸惑いながらも、きちんと挨拶をした。
「こ、こんにちは」
僕が挨拶をすると、それまで静かだった男子たちが、急に騒がしくなった。
「か、かわいいっ」
「うわあ。声もいいけど可愛い顔してんなぁ」
「それになんか良い匂いがするぜ」
彼らの言葉に、僕はどう反応していいかわからず、ただ困惑した。きっとよそから来た僕が物珍しかったのだろう。男子たちはさらに間合いを詰め、僕の周りを囲むようにしてきた。僕は思わず一歩後ずさる。
その時だった。
「触るな!こいつは俺の……だ!」
従兄弟の声が、僕の横から響いた。その声は、普段の優しい従兄弟の声とは違い、低く少し威圧的だった。男子たちは従兄弟のただならぬ雰囲気に気圧されたのか、顔を見合わせ、やがて何も言わずにその場を離れていった。僕はほっと息をついた。
「えっと。助けてくれてありがとう」
少し緊張しながら、僕は従兄弟に礼を言った。従兄弟は僕の顔をじっと見つめ、何かを考えるような表情をしていた。
「やっぱり、甘い香りに誘われて寄ってくるんだな……」
従兄弟がぽつりと呟いた言葉に、僕は首を傾げた。
「え?なあに?」
僕が聞き返すと、従兄弟は僕の目を見据え、真剣な口調で言った。
「いいか。知らない奴に声をかけられてもヘラヘラ笑ってるんじゃないぞ」
僕は思わずムッとした。ヘラヘラ笑っていたつもりなんて全くなかったからだ。
「なんだよそれ。僕ヘラヘラしてないよ」
僕は軽く睨んで見せた。だが、従兄弟は僕の表情を見て、なぜかため息をついた。
「だめだ。それは逆効果だ。可愛すぎる」
「もぉ。僕は可愛いじゃなくてカッコいいって言われたいんだよ」
僕が不満そうに言うと、従兄弟はまたもやため息をついた。
「そうか。でもその顔は危険だ。俺以外にしちゃいけないぞ」
従兄弟の言葉に、僕はまたもやムッとした。
「いつまでも子供扱いしないでよ!」
僕が少し語気を強めると、従兄弟はハッとしたように目を見開いた。
「……それもそうだな。悪かった。ごめんね」
従兄弟の謝罪に、僕も少し反省した。せっかくの盆休みだというのに、喧嘩なんてしたくなかった。
「うん。僕こそケンカしてごめん。もうじき帰らなきゃいけないのに」
僕がそう言うと、従兄弟の顔に寂しそうな色が浮かんだ。
「俺と離れるのが嫌なのか?」
従兄弟の問いに、僕は素直に答えた。
「うん。一緒にいると楽しいし、帰るときはいつも寂しくなるんだ」
僕の言葉に、従兄弟はパッと顔を輝かせた。
「俺もだよ!俺も一緒にいると楽しいし離れたくないんだ」
従兄弟の言葉が、僕の胸を温かくした。僕と同じ気持ちでいてくれる人がいる。それだけで僕は十分幸せだった。
「ふふ。ありがとう!僕ら一緒の気持ちなんだね」
僕が笑顔で言うと、従兄弟は優しく僕の頭を撫でた。
「ああ。なあ、おまじないをしてもいいか?」
従兄弟の提案に、僕の目はきらきらと輝いた。
「おまじない?わあ、なになに?していいよ!」
僕はわくわくしながら、従兄弟の次の言葉を待った。
「ずっと一緒にいれるおまじないだよ」
そう言って、従兄弟は僕の首の後ろに顔を近づけた。生ぬるい感触が、僕の肌を掠める。
「うひゃ。なにこれ?」
僕は思わず声を上げた。くすぐったさと、少しの驚きが混じった感覚だった。従兄弟はそのまま僕の首を甘噛みする。
「……マーキング」
従兄弟のその一言に、僕の心臓はドキンと音を立てた。まだ幼い僕には、その言葉の本当の意味を理解することはできなかった。ただ、僕の知らない甘く、熱い感情が、僕の胸の奥で静かに芽生え始めたのを感じていた。二人だけの夜の、甘くそしてどこか危険な予感に満ちた出来事だった。