後編
その後も奈津はノーマッドへ足しげく通った。そこに来る人々には一つの共通点があった。それは『マスターが好き』ということだった。中には恋愛的な感情を持った人もいたが、マスターはそれを軽くあしらっていた。相手も半ば諦めかけているようで、それでも笑っていた。
通い始めて数ヶ月が経った。ノーマッドのココアは相変わらず苦かった。メニューが時折変わるのは、マスターの趣味のようだった。店内の小物も度々変わったが、色彩の濃さは変わらなかった。自慢げに説明をしてくるマスターに苦笑いを返すことも少なくなかったが、笑っていられる時間には変わりなかった。
「マスター、今度一般公開の展覧会があるんですけど」
休講の相次いだあくる日、奈津は昼時にノーマッドへ訪れていた。客は奈津一人だった。展覧会の準備で講義がなくなったので、パンフレットを持って誘いに来たのだ。
「行きたいわ」
最後まで言い終わらないうちに、マスターは目を輝かせた。奈津はパンフレットを差し出した。ハチミツのビンと格闘していたマスターが、キッチンから出てくる。
「私も何点か出すんです。よかったら他の皆さんも誘ってください」
展覧会は休日の昼間に行われる予定だった。これなら、カフェで出会った人々も気兼ねなく誘える。奈津は他の客の仕事やプライベートな事を殆ど知らなかった。饒舌な人もいれば、寡黙な人もいて、話す事の大抵はマスターの話、世間話、趣味の話程度だったからだ。
「ありがとう。……あら、でも、この日は私行けないわ」
パンフレットを覗きこんだマスターは悲しげに眉を寄せた。少し意外な答えに、奈津は内心慌てた。
――喜んでくれると、思ってたのに
「そう、なんですか。……いいんです、知らせておきたかっただけなので」
出来るだけ笑顔を装った。よくなんて無い、本当はマスターに見せたい写真があるのだ。断られると考えたくなかった奈津は、写真を持ってきていなかった。
――失敗したなぁ
奈津は準備してこなかった事を後悔した。マスターが申し訳なさそうにしているのも、気にかかった。
「ごめんなさいね。他の皆には知らせておくわね」
パンフレットを受け取ったマスターは、相変わらずの笑顔だった。ぎこちない笑いしか返せない自分に奈津は腹が立った。
――笑え、この人の前でくらい
笑っていたいと思えたのは、この場所が初めてだった。奈津はこの日足早に店を後にした。
一般公開の展覧会は年に一度しか行われない。奈津にとっては初めての大きなイベントだった。予想に反して多くの人が入場した。入場者の多くは来年入学を考えている受験生で、それ以外には連携している企業の人々も訪れていた。
奈津は会場スタッフをしながらも、憂鬱な気分でいた。人の波には慣れていないし、何より見せたかった人に、見てもらえないのが原因だった。あの後、奈津は何度か写真を持ってノーマッドへ立ち寄った。
マスターに見せたかったのは、店内で他のお客と楽しげに笑うマスターの写真。料理を作る真剣な表情のマスター。奈津にとってそれは重みのあるカメラを構えるようになってから、初めての自信の持てる写真だった。自分の好きなものはこれです、そう言える写真だった。
けれど、マスターはいなかった。ノーマッドは閉店したまま。表札の増田の字を初めて見たような気がした。一週間、二週間と間があったが、マスターに会う事はとうとう出来なかった。奈津は展覧会が終わってもノーマッドには行くつもりだが、展示している写真はすぐには返って来ない。
――展示用のがいい色だし、サイズもリアルで好きなんだけど
その空間を切り取れたような、見出せたような気がして、奈津はマスターに写真を見てもらいたかった。無人のカフェを訪ね続けた二週間、他の客らとそこですれ違うことはなかった。まるで、自分だけがその場所を覚えているようで、気味が悪かったが、通わずにはいられなかった。
「あれ、奈津ちゃん?」
休憩室の椅子に座り込んでいた奈津は、聞き覚えのある声に顔をあげた。
「やっぱりそうか。見に来たよー」
「島田さん」
笑顔で手を振ったのはノーマッドの常連客だった島田さんだった。奈津はすぐにマスターに聞いて来たのだと思った。
「疲れた顔しちゃって……大丈夫かい?」
島田さんは、奈津が近寄ったとたんに真剣な顔をした。彼はいつも底知れない笑顔を浮かべていたので、奈津は少し驚いて身をひいた。
「大丈夫です。……もう見られましたか?」
「ああ、うん。すぐに奈津ちゃんのだってわかったよ。……マスター、いい笑顔だったね」
奈津は苦い顔になる。写真を褒められたことは嬉しいのに、素直に喜べなかった。そんな奈津の心中を察してか、島田さんは悲しげな顔をした。
「ごめんね。マスターに聞いて来たんだけど……俺に見せたいわけじゃないよね」
「いえ、そんな」
そんなつもりじゃない。奈津の言いたいことも、彼にはお見通しなのか。島田さんは唇に人差し指を重ねた。
「忘れて。俺、もう行くね。……また、会えるといいね」
島田さんの言葉の意味が、奈津にはわからなかった。それは、マスターになのか、自分達のことなのか、それとも両方か。ノーマッド以外での接点を持たない奈津たちはきっと簡単に離れていくだろう。それをわかっているから、島田さんは言ったのかも知れない。
――嫌だな
このまま離れてしまう事も、そうなってしまうだろうと考えている自分も。そんな感情を彼は抱いていないのだろうか、立ち去る歩幅は早かった。島田さんの背中はすぐに見えなくなった。
奈津はもやもやとした気持ちのまま、展覧会を終えた。
仲間内の打ち上げにも行かず、奈津は足の向くままノーマッドへと歩いていた。人気の少ない駅にも家路に着いた人々で溢れていた。その波と一緒になって奈津は住宅街へと入って行った。思えば、もう数ヶ月もこの道を通った。大切な思い出を取り出すように思い出している自分が、なんだか不思議だった。
うまく馴染めない友人関係だった。つかず離れず、知っていることよりも知らないことのほうが多いような関係。家庭は平凡だったが、別段仲がいいわけでもなかった。取り留めの無い日々に、奈津は飽きていたのだ。固執するのはきっと、その所為だ。
――考えたくないな
住宅街を進むにつれて浮かぶのは、終わりだった。温かい時間に、もう浸れない。そんな予感がしてしまって、奈津はかぶりを振った。
「あ……」
増田、という表札が取られていた。そこにはただ、石が埋まっていたくぼみがあるだけだった。ノーマッドという、看板もない。ここにあったという証拠がなくなってしまったような気がした。
自然と流れ出した涙に、奈津は歯を噛みしめた。
「奈津さん?」
背後からかけられた声に、奈津は涙を乱雑に拭った。振り返ると、優しげな青年が立っていた。手に花を持った佐々原さんだった。
「聞いたんですか?」
佐々原さんは奈津の顔を見るなり言った。奈津は何のことかと、首を傾げた。
「やっぱり、奈津さんには言って無いんですね、マスター」
佐々原さんは苦笑いをして、奈津を見ていた。
「割と新しいお客さんだったし……聞いていませんよね」
佐々原さんは意味深な言葉を言うと、家を見上げた。
「わかってはいるんですけど、来てしまうんです。好きだったから、この場所が」
「佐々原さん」
何があったのか、急かすように呼ぶと、青年が光のない目をして言った。
「マスター、ご実家に帰ったんですよ。結婚するからって。常連客の事を話していたみたいで、マスターのお母さんから手紙が来たんです」
奈津は、予感が当たってしまった失望感よりも、続きが気になり黙って佐々原さんを見つめた。青年の輝いていた目が、今はどんよりと曇っていた。
「その途中で、交通事故に遭って亡くなったって」
佐々原さんは静かに、もう会えないんですね、と遠くを見るような目で呟いた。手に携えた花束を家の前に置いて、手を合わせていた彼の後姿を、奈津は涙を拭う事も出来ずに見ていた。
僅かな街灯の光に照らされた花たちが誰かの零した水滴で輝いていたのを、奈津はぼんやりと覚えていた。
放浪者は花束を持って、かつて温かな時間を過ごした家へと集った。それ以降、誰もその場所に訪れる事はなかった。元の放浪者へ戻った彼らの行方を知ることはもうないだろう。
数年後、とある田舎町の小さな画郎に、派手な色彩の一室で、幸せそうに笑っている女性の写真が飾られた。その脇に飾られた、一輪ずつの花が添えられた花瓶を、奈津は幸せそうに見ていた。