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前編

――あ、降りよう

 奈津(なつ)は電車を降りた。いつもは通り過ぎる駅。さほど主要なものがないのか、降りる人はまばらで、駅近辺も寂しいものだった。奈津は駅のロータリーを眺めて、左の路地へと入っていく。

 たしか、車窓から見えた家はこっちだった。思い起こして歩いていく。幸い今日は早く講義が終わったので、日はまだ沈んでいない。寄り道をして怒る人もいないけれど、夜道を歩く気にはならないので、ちょうどよかった。奈津は空いているのかわからない商店街を抜け、閑静な住宅街に入る。

――なんにもないなぁ

 奈津はカバンから皮のケースを取り出した。肩紐を首にかけて、カバンを閉める。奈津はお目当ての家を探し、辺りをきょろきょろと見回した。住宅街でその家は意外とあっさり見つかった。寂れた街の中で、それは一際輝いて見えた。

 赤い屋根に緑色の壁。洋風のたたずまいのそれは、少し古めかしい風情だ。奈津はとっさにケースを開けた。ジッパーの音が狭い路地に響いて、奈津は夢中になった。一眼レフカメラを取り出し、カメラをまっすぐ目の高さへ引き上げる。両肘を体につけて、右目でファインダーを覗いた。

軽く絞り、家を捉える。ふっと肩の力を抜き、お腹に力をこめる。

『バシャ』

 シャッターを切った。奈津は一度カメラを顔から離す。夕暮れに近づき、淡い光を浴びるそれは、奈津をどこか遠いところへ連れて行ってくれるようだった。その時間がたまらなく好きで、写真の道を選んだ。まだただの専門学生だが、いずれは何かしら関係のある仕事に就きたいと考えていた。

――もう一枚

 奈津はカメラを縦にし、地面に立てひざをつき、絞りを効かせた。深呼吸を一つしてから、シャッターを切る。古めかしい家の並ぶ住宅街で、この家だけはどこか異彩だった。帰りの電車で、つり革に揺られていた奈津の目に留まるくらいには。

 奈津はカメラを首にさげ、立ち上がり手を上げた。家に向けて伸ばした手で、カメラのフレームを作る。

――足りない

 どこかが、切り取れない。奈津が感じた魅力が、引き出せていないような気がした。ちょっと気になると、すぐにカメラを構えた。昔のそれは単なる趣味のようなもので、カメラはもっぱらケータイだった。その頃は満足できたのに、本格的にカメラを構えるようになってから、昔のような満足感を得られていなかった。

「なにが……足りないんだろ」

 フレームを形作る手を動かしながら、奈津は思案する。ホワイトバランスを変えてみようか、構図を変えてみようか、仕上がり設定を変えるのもありか、と案がいくつか浮かんだ。けれど、そのどれもがいまいちだった。奈津は行き詰っていた。

 奈津は腕を下ろし、もう一度カメラを構えた。ファインダー越しに見る景色は、どこか隔絶されているように思えた。構えたものの、シャッターは切れなかった。黄色いドアが急に開いたからだ。

「あら」

 中から出てきたのは女性だった。奈津はカメラを下ろし、とっさに頭を下げた。女性は不思議そうに奈津を見ていたが、すぐに笑顔になった。

「いらっしゃい」


 奈津は半ば強引に家の中へ連れ込まれた。

――なんでこんなことに

 青い壁紙が映える部屋に、奈津と女性の二人だけ。部屋にはアンティーク調のテーブルと椅子。奈津は言われるがまま、椅子に腰掛けていた。女性はそれを見届けると、対面式のキッチンへ移動した。

「何にしますか?」

 女性はニコニコとカウンターから顔を出した。奈津が言葉を失くしていると、女性はカウンター横の壁を指差した。奈津がつられて視線をやると、壁には白い紙が貼られていた。メニューなのだろうそれには、飲み物や料理名が並んでいた。

「えっと……ココア」

 混乱していた奈津は、眼に入った字を読み上げた。女性は『はい』とだけ言うとキッチンの奥へ消えて行った。

――なん、なの?

 奈津はぽかんと口を開けてしまいそうだった。落ち着こうと部屋をもう一度見わたしてみる。部屋にはアンティーク調の落ち着いた家具と、カラフルな小物が点在していた。一般的なリビングダイニングと造りは一緒のようだったが、がちゃがちゃとした印象を受ける所為か、そう感じない。

 奈津は肩紐を外してカメラを机に置いた。奈津は約一万画素のフルサイズの一眼レフを使っていた。まだあまり技術のない奈津は、先生の勧めもあり標準レンズだけを使っていた。

――写真、撮らせてもらおうかな?

 今まで見たことのない室内に、少なからず刺激を受ける。奈津はうずうずと指先を動かした。部屋を見ていた奈津は、戻ってきた女性に視線をやった。

「はい。おまちどうさま」

 女性はトレーにマグカップを二つ乗せ、キッチンから出てきた。奈津の前にココアを一つ置くと、女性は目の前に腰掛け、もう一つのマグカップも置いた。ごく自然な動作で女性はマグカップに口をつけた。奈津はマグカップの中に注がれたココアに視線を落とす。

「どうぞ」

 女性はふっと口角を上げて言った。奈津は黄色のマグカップに口をつける。匂いは馴染みのあるココアと変わりない。ぐっと意を固めてココアを流し込む。

「……おいしいです」

 じっと見つめてくる女性の視線に耐えかねて、奈津は呟いた。女性はにっと笑い、短い黒髪を揺らした。出されたココアは少し苦かった。


『ノーマッド』

 どこかの蚊取り線香のような名前のカフェは、住宅地の中にまぎれていた。特徴的な色の家だという事以外は、他の民家と変わり無く、店の看板も表札の下に小さく出ているだけだった。奈津がそれに気付いたのは数日してからだった。

 カフェを一人で切り盛りしている女性は、『マスター』とだけ名乗った。奈津がココアを飲み終わるまでの間、マスターは店のことを独りでに話した。定休日は日曜、開店時間は午後三時、メニューは定価だが日によって有無が変わる。自宅を開放した店は珍しくないが、そういった店に入った事のなかった奈津は不思議な気分だった。

「写真、好きなのね」

 帰り際にマスターが優しい声音で言った。奈津はなぜか素直に頷けなかった。首から提げたカメラが滑稽に思えた。黙っている奈津に、マスターは「またいらっしゃい」とだけ言って見送ってくれた。辺りは暗くなり、明るい色の家も陰って見えた。

 まだ日の高い時間に、奈津は再び店の前に来ていた。カバンの中には学校で定期的に開かれる展覧会の個人成績が入っていた。奈津は少し複雑な気持ちで呼び鈴を押した。

「ぽーん」

 間の抜けた音が響く。暫くするとぱたぱたと足音が近づいてきた。家から時々話し声が聞こえて来る。

――お客さんいるんだ

 奈津は当たり前かと、考え直す。ドアが開かれて、マスターが顔を出した。

「あら、いらっしゃい」

 驚いたような顔をしたマスターは、奈津を見てにっこり笑った。マスターは童顔と言うほどでは無いけれど、可愛らしい顔をしていると思う。その所為か、子供の笑顔と少し似ているような気がした。

「こんにちは。……どうしようかな」

「ん、なに? 入らないの?」

 お客がいることが少なからず、予想外だった奈津は少し戸惑う。マスターはそんな奈津を不思議そうに見ていた。マスターが開けてくれた扉の奥に、楽しそうに会話する男性客が目に入る。

「いえ。お邪魔します」

――まぁ、関係ないか

 頃合を見て切り出せばいいかと考え、奈津はマスターに軽く会釈をして家に上がった。


「へぇー、そりゃ災難というか。マスターはそういうところがあるからなぁ」

 男性客の一人が言った。彼は奈津に真っ先に話しかけてくれた人で、自称三十路前一般人の島田さん。始めの話題は『どうやってここを知ったか』だった。奈津がありのままを話したところの答えがそれだった。

「お客じゃないのに、勝手に入れちゃうとか……相変わらずですね」

 いつの間にか奈津を挟む形で男性客たちが座っていた。もう一人は奈津と歳の近そうな青年。彼は物静かであまり口を開かなかったが、奈津の話を聞いているうちにうっすらと微笑んだ。

――笑った

 奈津が入ってきた時はコーヒーを飲んでいて、ちらりとこちらを確認しただけだった。席を移動して奈津を真ん中に座らせたのは島田さんで、青年はずっと黙っていた。

――綺麗な顔

 被写体として、奈津は青年の顔をそう評価した。

――花とか似合いそー

 奈津はじっと青年の顔を見つめ、その周りに脳内で花を散らす。

――バラ、ダリア、和風でもいいなぁ……椿に菊

 赤いバラは愛情、ダリアは華麗、椿は理想の愛、菊は高潔。

それぞれの花言葉を並べてみても、彼は遜色ないだろう。自然な色の茶髪で目元は隠れがちだが、色の白い整った顔が見て取れた。

『バチッ』

 脳内で音がするようだった。青年と目が合う。奈津は悪い癖が出たと、目をそらした。

――まずいなぁ……変な人だわ、私

 きっとそう思われていることだろうと、奈津は目をぎゅっと瞑った。

「はい、お待たせ」

 助け舟のようなタイミングでマスターがキッチンから出てきた。マスターは、ココアとホットケーキを奈津の前に置いた。頼んだ覚えのない奈津は首を傾げた。

「あの、頼んでません」

 奈津が頼んだのはココアだけだ。だが、奈津の目の前にはバターとシロップの掛かったホットケーキまで置かれている。

「ああ、それはおまけよ」

――おまけの方が大きいんですけど?

 明らかにココアのほうがおまけに見える。いいのかと、迷う奈津にマスターはニコニコと笑い返すだけだった。

「気にしなくていいよ。そういう人だから、マスターは」

 島田さんが苦笑して言った。島田さんの前にも空になった皿が置かれていた。奈津はもう一度マスターを見る。彼女は早く食べてと、言わんばかりに目を輝かせて奈津を見ていた。

「……いただきます」


 奈津はカバンの中から展覧会に出した写真と、個人成績の入ったファイルを取り出した。懐かしい味のするホットケーキを食べ進め、島田さんに話題を振られてようやく名乗った青年、佐々原さんとマスターを囲んだ話題は盛り上がりつつあった。

――この人達ならいいかなぁ

 別に聞かれて困るような話でもないと、奈津は考え皿を下げに行ったマスターが戻ってきてから切り出した。

「実は、これを見て欲しくて」

 奈津は机にファイルを置き、目当ての写真のページを開いた。マスターは椅子につくと首をかしげながらページを覗きこんだ。島田さんも同じようにし、佐々原さんは控えめにそれを眺めていた。

「これ、ここの写真?」

 真っ先に口を開いたのは島田さんだった。ファイルの見開きに、店内の写真が収まっている。前に来たときに撮らせてもらったものだ。

「印刷できたのね」

 マスターは嬉しそうにしていた。写真を撮らせてもらうときにも思ったが、マスターは奈津に協力的だった。写真を撮られるのを嫌う人もいる中で、マスターは奈津の好きなようにさせてくれた。今開いているページの写真はその中の一つだった。

「うちの学校、定期的に他の学校と合同で展覧会をやるんです。その結果がこれです」

 奈津はページをめくり、成績表を出した。そこには写真に対するコメントが綴られている。その最後に出展作品の順位が記されていた。奈津が見せたかったのは、どちらかと言えばこちらだった。

「お話した通り、使わせていただきました。おかげでいい成績が残せました」

奈津はマスターが見やすいように、ファイルを回転させ手渡す。暫くそれを見ていたマスターが驚いたように声を上げた。

「あら、八十八位! て、二百人中の八十八? すごいじゃない!」

「おー……『異世界のような手の込んだセット』だって、マスター」

 展覧会に出して二回目で三桁を切ったのは、なかなかの快挙らしい。奈津は先生にまで驚かれたのを思い出すとくすぐったいような気分になった。島田さんは驚くマスターの横からファイルを覗き込み、コメントの一つを読み上げた。

「え、セット? うちの店内の写真を出したのよね?」

「はい。そうですよ」

 マスターはセットと聞いて顔を上げた。奈津はとても『こんな部屋見たことがない』とは言えなかった。だが、写真に対するコメントの中には似たようなものも多かった。

「なかなか無いからじゃないですか、こういったお部屋は」

――!?

 平然とした顔でコーヒーをすすっていた佐々原さんが言った。奈津は驚いて彼の顔を見たが、本人に他意はないのか顔色一つ変えていなかった。同じように島田さんも、驚いたように彼を見ていたが、すぐに笑い出した。

「あら、ありがとう。我ながら素敵だと思うのよ」

「マスター……いやー、佐々原君はこういうところがあるから面白いね」

 島田さんはマスターの言葉に少し笑顔を引きつらせたが、佐々原さんを見てまた笑った。

「何がですか?」

 佐々原さんはわかっていない様子で、コーヒーをすすった。奈津は他のコメントに気付かれないうちにと、ファイルを受け取った。

「自分の写真に自信が無かったんですけど、インパクトがあるからと思って……出してよかったです。ありがとうございました」

 奈津はマスターに頭を下げた。奈津は自分の取る写真に物足りなさを感じていた。展覧会の時もその事を気にかけていたのだが。

『いいんじゃないか? 個性的で』

 いつも厳しい先生が自分の写真を見てぽつりと言った言葉が、未だに夢のようで信じられない。それでも、成績表をもらったときには、うれしさでいっぱいになった。

「いいのよー……よかったわね」

「自信が無いって言ったけど、それでもいいんじゃないかな。そりゃ、自信を持てるものを撮れるのがいいんだろうけど。それでも見てくれる人はいるし、思わぬ結果が出る事もある。今回みたいに」

 マスターは温かく笑っていた。それを見ていた島田さんが口を開いて、ゆっくり話し出した。

「君がここを見つけたように、誰かが君の良さを見つけてくれるよ。なんか、クサイかな?」

「うん。そうやって、女の子を落としてきたのねー?」

 島田さんが言ってから、少し照れくさそうにした。マスターが茶化すように言うと、「これで落ちてくれればいいんですけどねー」と島田さんも笑いながら返していた。

――なんだろう、泣きそう

 奈津は目頭が熱くなるのを、ぐっと堪えようと俯いた。自分のしたことを認めてもらえる。そういった経験は、ずいぶん久しいような気がした。

「温かいでしょう?」

 ふと、優しい声に顔を上げると、佐々原さんが穏やかな笑顔で奈津を見ていた。

「だから、僕はここが好きです」

 佐々原さんは静かに笑っていた。それを凝視してしまった奈津を、島田さんは軽く茶化して、マスターはそれをたしなめたりして。温かい場所だと、奈津は心の底からそう感じた。

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