第09話 翼を願う
アンヘラは自分の名前が天使に由来するのだと知った時、自分の背中に翼がなかったことをひどく悩んだ。
幼い彼女は、翼が欲しかった。
翼があれば、この貧しい街から抜け出せたから。
いまとなれば、それがあまりにも夢物語だと知っているのだが、当時は本気でそう思ったのだ。
そんなことを思い出したのは、アンヘラが店番を終えて家に帰ろうとした瞬間に五人の男たちが店の中に入ってきたからだ。
皆、喉に黒い三本の傷痕のタトゥーが入っており、そしてそんなタトゥーなど目ではないほどに様々な入れ墨が顔や身体に走っていた。
「俺たちの仲間が大通りで3人やられた。やったやつを見た者はいるか?」
低く唸るような声が、アンヘラの耳を抜けていく。
街からの脱出。それは彼女の望みではあったが、そうはしなかった。そうできなかったと言っても良い。ロズマリア領地、サンランメルクの西側で生まれた彼女は生まれながらの不可触民であり、彼らの支配地の中にいたから。
黒い影。
それはサンランメルクの西側を実質的に支配しているマフィアだった。
一般市民がいる中心部や東側に手を出さないという暗黙の了解の元、じわりじわりと範囲を広げる彼らは、あらゆる恐怖と暴力をもって不可触民を支配した。
殺人、誘拐、拷問、そして麻薬の売買。
それだけのことを堂々と行っても、ロズマリアの騎士団は介入をしてこない。
それは彼らが被差別民だったから。
だから、彼女の中にあるのは諦観だった。
十七にもなれば、現実が見えてくる。魔族でもないのに背中に翼は生えないし、貴族でもないのに空を飛ぶ魔法は使えない。
「アンヘラ。お前はずっとこの店にいただろう。見てないのか?」
「……二人組、でした」
彼らのリーダーであるセリノの問いかけにアンヘラは短く応えた。
その事件が起きたのは夕暮れの入口だった。
見たことのない太った男と、その側にいる目を隠した少女が見えない何かによって、男たちを気絶させたところを彼女は見ていた。
馬鹿なことをする人もいるんだ、とアンヘラは思った。
この街、この場所で黒い影は絶対だ。逆らったものには容赦をしない。それは、冗談では無いのだ。
かつて、お調子者が酒に酔った拍子に彼らのリーダーを「表に出られない臆病者」と冗談めかして語った。その次の日に、彼は四肢を引きちぎられて、両目をくり抜かれ、酒場の壁に肩と残った大腿部を釘で固定された状態で見つかった。恐ろしいことに、見つかった時に彼はまだ生きていた。
だから、この街で彼らに逆らうものは誰もいない。
それがこの街の絶対なのだ。
「そいつら、どういう格好をしていた。男か?」
「男女のペアでした。男の方は太ってて、女の子の方はびっくりするくらい痩せてて……目隠しをしていました」
「そうか。それだけ分かりやすけりゃ十分だ。邪魔したな」
「ま、待って!」
アンヘラの呼び止めに、ちょうど店を去ろうとしていたセリノたちが振り向いた。
彼らは自らの行動の邪魔をされたことに苛立ちを隠そうともしないまま、十七歳の少女を睨みつけた。
その視線にぶるりと震えたアンヘラだったが、彼らには聞かなければならないことがあった。
「弟は……マルクは、元気にしてるの?」
殺されたお調子ものは、彼女の父親だった。
黒い影は彼女の父を見せしめにするのでは物足りず、彼の息子だったマルクを攫って、無理やりに家族の契を交わした。それは、家族の契という名前の奴隷契約であった。彼らと家族の契を交わした子どもたちは、あらゆる抗争や、麻薬取引の末端に駆り出されるもっとも危険な仕事の鉄砲玉として使われる。
マルクが逃げ出せば、アンヘラや彼女の母が見せしめに殺される。
アンヘラが逃げ出せば、見せしめに彼女の母かマルクが殺される。
それが、家族になるということだった。
アンヘラの問いかけに、セリノは仲間と視線を合わせて「ああ、まだ生きてるぜ」と言ってから肩をすくめた。
「ボスのお気に入りだからな」
「お気に入りって……?」
ヘラりと笑った彼は胸元から煙草を取り出す。
煙草は、高級品だ。アンヘラの稼ぎでは、2ヶ月分の給料もする。
それをくゆらせて、セリノが口を開く。
「健気なもんだぜ。姉ちゃんの身代わりになるっていうんだからよ」
「身代わり……? 家族の契は、家族を傷つけないっていう契約でしょ……?」
「そりゃあ志願者の話だな」
煙草の煙が、店の中に充満していく。
店の裏にいる店長は出てこない。当たり前だ。
こんな状況に首を突っ込んでくる命知らずなどいない。
「知りたけりゃ、着いてこい。そうすりゃ教えてやるよ」
その誘いが、悪魔の誘いであることに気が付かないほど彼女は馬鹿ではなかった。
それに乗ったところで弟が助かる見込みも、自分が助かる見込みもない。
けれど、ここで彼らの機嫌を損ねるような態度を取れば……それこそ待っているのは、破滅だ。
アンヘラは少しだけ返答に詰まったように黙りこくった。
窓の外の夕日が、ゆっくりと陰っていくのが見えた。
「……いく。行きます」
「そりゃ良い。マルコも姉ちゃんが来りゃ喜ぶってもんだ」
セリノがそう言って煙草の吸い殻を店内に捨てる。
そうして、アンヘラに手を伸ばした時だった。
カラン、という店の扉が開いた音は。
「…………?」
思わず六人の視線が一箇所に集まる。
店の中に入ってきた命知らずは、男女の2人組だった。
アンヘラは店に入ってきた彼らの顔を見る。
その顔には、ひどく見覚えがあった。
黒い影の構成員を何らかの方法で失神させた無法者。
そんな太った男は店の中に黒い影がいるとは知らなかったのだろう。
そのままアンヘラに話しかけてきた。
「取り込み中か? 水を売って欲しいんだが」
「……み、水?」
「ああ、歩き疲れて少し休もうかと……ん?」
太った男の方がそう言ってから、セリノたち五人を見た。
五人の、首を見た。見てから、笑った。
「マフィアが無限に湧いてくるというのは、どうやら嘘じゃないらしい。メルサ、お前がやってみるか?」
「奥にいる女の人を石にして良いならやりますけど」
「ふん。なら良い」
少女の返答を、鼻で笑った男が右手を掲げる。
それを見ていた黒い影の男たちが男女に向き直る。手にしたナイフを持って駆け出す。
「こいつだ! 殺せ!」
彼らの存在に気がついたセリノの怒号が店内に響く。
だが、その次にアンヘラの目に入ったのは、宙に浮かぶ黒い影の男たちだった。
「……んだこれ!」
「は、離せ……!」
よく見れば、彼らの喉に手形が張り付いている。
宙でもがく彼らはバタバタと暴れるが、透明な腕を振り払えないのかどんどん呼吸が詰まっているようだった。
「魔法を見るのは初めてか?」
一方、余裕そうな太った男がそう語りかけると共に、セリノを除く男たちが泡を吹いて気を失った。
「……何が、目的だ」
その中で唯一、意識を保っていたセリノが問いかける。
だが、男は彼の問いかけに「暇つぶし」とだけ返した。
セリノは男に向かって手にしたナイフを投げたが、男の手前で見えない壁に弾かれた。
「じゃあ、いただこうか」
その瞬間、セリノの身体がぶるりと震えると仲間たちと同じように気を失った。
男は気を失った黒い影たちを興味なさげに地面に投げ捨てると、未だに震えるアンヘラの元に歩みを進めた。
「水、売ってるか?」
「あ、ある。あります……」
がくがくと頷きながら、アンヘラは瓶に入った水を用意した。
倒れた男たちはピクリとも動かない。もしかしたら、死んでしまったのかもしれない。
そうして瓶にいれた水を2つ用意して彼らのもとに持っていくと、太った男の方から短い問いかけがあった。
「こいつらの本拠地がどこにあるか知ってるか?」
「……知ってます、けど
恐る恐るそう言うと、彼が続けた。
「ではそこに案内しろ。礼は出す。そう多くはないがな」
「何を、するんですか?」
「見たら分かるだろう。壊滅させるんだよ、マフィアを」
楽しそうに笑う男に、アンヘラはこの街の絶対が壊れていくのを感じとった。
もしかしたら。
もしかしたら、この人たちが翼なのかもしれない。
水を差し出しながら、彼女は確かにそう思った。