余波
1. 寺
遺産相続は無事に終わったが、全てが解決したわけではなかった。
義父が、S子の寺の敷地内に夫が入る墓を建てようと、寺と墓石屋と話を進めていたからだ。
私はこのまま墓があの寺に建てられても良いのだろうかと悩んでいた。
もし今後、夫とS子の事がバレたらどうなるのだろう。
第一、その寺の娘に手を出した男の骨を納めたりして、バチが当たったりはしないのだろうかと思った。
それに、S子の家の寺は周囲でとても評判が悪かった。
地元では一番古くて位の高い寺だと自負しているせいか、お布施が高い上に、住職は檀家が萎縮してしまうほど偉そうだったし、その妻は慇懃無礼そのものだった。
夫の死後、葬儀を進めていくうちに、葬儀社や仏壇店がその寺の住職に特に気を遣っていて、それぞれにその寺の担当者がいることが分かった。その住職が認めている人物でなければ話も聞いてくれないそうだ。
息子が通った幼稚園の園長でもあるその妻は、私がPTA会長をしている時、「PTAというのは園の為に存在しているのだから、常に園の為に行動することを忘れないように」と上から目線で言われた。
また、その園長と話をしていても、自分が言いたいことを言い終えると、こちらが話している途中でも、くるりと向きを変えて何か別の事を始めたりと、目を疑いたくなるような事が色々とあった。
知り合いから、法事があるたびに気難しい住職やその妻に気を遣い、しかも高いお布施を払うのが本当に嫌だと、愚痴をこぼしているのを聞いたこともある。
夫の死後、数人から、「なんであそこの寺に決めたの?」とか、「あそこの檀家になっちゃったのか……」などと言われたりもした。
そもそも、なんであんな所の幼稚園に息子を通わせたんだろうと改めて思った。
入園前、夫から「本当にあの幼稚園で良いのかな?悪い評判しか聞いたことないけど」と言われた。
でも、実家の店と寺との昔からの関係を考えると他に選択肢は無かった。
息子が産まれると、S子の母親である園長から、「ご出産、おめでとうございます。ぜひうちの幼稚園でお待ちしております」と電話も来ていた。
そもそも私の実家は、父親の代から全員その幼稚園の卒業生だった。
秀才で有名だったS子の祖母が始めた幼稚園だが、私の父親が通っていた時代は幼稚園自体が珍しく、その幼稚園に子供を通わせることは一種のステータスのようなものだったらしい。
私がその幼稚園に通っていた頃は数百人もの園児がいた。だが、古風なやり方が時代に合わなくなってきたのか、園長の評判が悪いせいか、私の息子が入園していた時は、全学年を合わせても園児の数は三十人にも満たない状態だった。
—— 冗談じゃない! あの幼稚園に息子を通わせて、園長に気を遣って、PTA会長まで引き受けたのに! またこれから、法事の度にあの住職に気を遣って、高いお布施を払うなんて! ふざけるな!
なんとかするなら、すぐに決断するしかなかった。 私は母に言った。
「あの寺にK男の骨を納めるのはやっぱりどうかと思う! バチが当たったらどうする⁉︎ それに、法事の度に、住職達にペコペコと頭を下げて気を使った上に、高いお布施を払い続けるのも我慢できない! 第一、この先、不倫の事がバレたらどうする? お義父さん達に言ってお寺を変えてもらいたい!」
母は当初、お店の事や世間体を考えて、色々な事を我慢するしかないと言っていたが、私が毎日のように苦しんでいるのを目の当たりにして、もう仕方がないと思い始めていたようだった。
「もう、あなたの好きなようにしたら良いと思うよ。実はね、あなたに黙ってたことがあるんだけど…… 言って良いよね?」母は姉と目を合わせて言った。
「S子にお店で白状させた時に聞いたんだけど、実はS子とK男はね、週に一、二回も会っていたんだって。週に一、二回だよ!」
—— えっ⁉︎
「私らはもう、びっくりして…… それじゃあ、あんまりN子が可哀想だから、N子には月に一回程度だったことにしてくれとお願いしたんだよ」
私はそれを聞いてうろたえていたが、「へ、へぇー。まあ、そんなところじゃないかと思ってた…」とやっと声を絞り出した。
母も姉も私の顔を心配そうに覗き込んでいたが、平気なふりをした。
その夜、息子が寝た後、一人でビールを飲んだ。夫が死んでから初めてアルコールを口にした。
—— もう、全て終わりだ……
A子やS子の事を知った後でも、夫に対してはわずかな愛情が残っていた。
夫は二人の女性に次々に誘われて、舞い上がってしまっただけかも知れない。彼女達に頼られて同情して親切にしているうちに、情にほだされてしまっただけかも知れない。私の配慮が足りなかったのかも知れない、と……
でも、週に一、二回となると、おそらくS子と百回以上は会って、裏切っていたことになる。もう二重生活をしていたも同然だ。
—— 二人とも異常じゃないのか! 人として許せない!
私は本当に本当にマヌケだった。週に一、二回も裏切られて気が付かなかったのだから。
S子の夫にもよくバレなかったものだ。運が良かったというのか、悪かったというべきなのか。
子供達はどうだろう。S子の長女はその頃、中学生になっていたはずだ。母親がしょっ中、夜中に出て行くのに気が付かないなんて事があるのだろうか。
毎晩のように、父親も母親も不在のS子の家は、一体どんな状態になっていたのだろう。
それをさせていた夫も最低の野郎だ。
夫への気持ちが完全に憎悪に変わった。
—— いくらなんでも酷すぎる! それでも父親なのか! それでも人間なのか!
私は仏壇のある和室に向かった。
夫の遺骨が入った桐箱を睨みつけると、それを蹴り上げようとした。
だが、もし箱が壊れて遺骨が散らばったら大変だと思い直し、箱の上に右足を乗せてギュッと踏みつけた。
涙で前がほとんど見えなかった。
—— 許さない! もう絶対に許さない! 仏壇も遺骨も要らない!
少し前までは、夫を許したいという気持ちがあった。
真夏の暑い時は『さぞかし暑いだろう』と遺骨の箱を居間に持ってきてそばに置いたり、息子が従兄弟の家に泊まりに行ったりすると、遺骨の箱を二階の寝室に持って行って、そばに置いて寝たりした。
『私が悪かったのかも知れないね』と声をかけながら、泣きながら抱きしめた事もあった。
だが、そんな事はもう二度としない。はっきりと憎しみを感じたのだ。
やはり、夫には相応の罰が下ったのだと思った。
数日後、母と二人で夫の両親を訪ね、『寺を変えて欲しい』と申し出た。
「変えられるもんなら、変えても良いと思うけど……」義父は言葉を濁した。
「このまま、あのお寺にお墓を建てても良いと思いますか? もしこの先、世間にあの事がバレたらどうするんですか? それでも檀家を続けるんですか? それに、あのお寺の娘に手を出したK男さんの骨なんか納骨して、バチが当ったらどうするんですか⁉︎」私は食い下がった。
「そう言われたって、そんなに簡単に寺なんて変えられるもんじゃないだろう」義父は気が乗らない様子だった。
「インターネットで調べましたが、こちらが申し出れば、お寺はいつでも変えられるそうですよ。理由なんかなんとでも言えるんじゃないですか?」
私は諦めるつもりはなかった。そして、母も言い出した。
「このままあの寺の檀家でいるなんて、N子が可哀想だと思わないんですか? お父さん達が死んだ後も、N子とあの寺との関係はずっと続くんですよ!」
そして、母はまた、K男がどんなに酷い事をしたかを語り始め、それに対して義父がまた怒り始めた。
「いつまで死んだ人間の事を悪く言うつもりだ! もう終わった事じゃねえか! もう終わった事なんだよ!」
私は最初、母がまた余計な事を言い出したと思った。
だが、義父が『終わった事だ』と言うのを聞いて、黙っていられなかった。
「終わった事じゃありません! 私の苦しみはこれから始まったんです! 終わった事じゃありません!」
「終わった事なんだよ! 終わった事なんだ! いい加減にしろ!」義父も言い返した。
「とにかく、お寺を変える理由はお義父さんにお任せしますので、住職に会って、必ずお寺を変えてください」
そう言い残して、母とその家を後にした。
本当に、終わった事ではないのだ。これから長い長い地獄が始まったのだ。
その数日後、義母から電話がかかってきた。義父がお寺のことを相談しようと、義弟を家に呼んだのだという。
すると、義弟の妻と息子も一緒に来たので、二階で義父と義弟だけで話をすることになったそうだ。
ところが、しばらくすると激しく言い争う声が聞こえて、義弟家族はすぐに帰ってしまったのだという。
「お寺を変える話は、なかなか進みそうもないみたいなの」義母は申し訳なさそうに言った。
義父はいったい何をどんな風に義弟に話したのだろう。
やはり私の口から直接、義弟達に詳しい話をして、納得してもらうしかないと思った。
それから数日後、お店をアルバイトの女性に任せて、母を連れて近くのホームセンターに買い物に行った。母は車の運転をしないので、用事を済ませるのにいつも運転手が必要だった。
すると、母が買い物をしている時に、お店のから私の携帯電話に電話があった。『急にお客さんが大勢来て困っているから、すぐに戻って来て欲しい』という。
慌てて母と一緒に帰ろうとしたが、母がまだ買い物を終えていなかったので、母を置いてお店に戻り、仕事が落ち着いたらまた迎えに来ることになった。
ところがお店に戻ってしばらくすると、母が帰って来た。どうやって帰って来たのか尋ねると、そのホームセンターで偶然、義父に会い、車で送ってもらったのだそうだ。
あんな事があったのに、母を送ってくれるとは、やはり義父は悪い人ではないと思った。
そして、義父は車の中で「お寺を変えたくないんだ」と言ったそうだ。
それはそうだろう。いや、お寺を変えたくないと言うより、何と言ってお寺を変えてもらうか悩んでいるのだろうと思った。
まさか真実を話すわけにはいかない。だからと言って、あのいかにも気難しい住職に何と言えば良いのか。それに、世間体もある。お寺を変えたとなれば、周りがどう思うか。
そう考えると義父が気の毒だった。
だが、数日前に「もう終わった事だ」と義父に言われたことに私はまだ腹を立てていた。
「何だか、お父さんが可哀想になってきたわ」と母は言ったが、
「悪いけど、お寺は絶対に変えてもらう。それだけは絶対に譲れない!」と私は言った。
その一方で、母は義母に何度か電話をしていた。
母がこだわっているのは、寺を変える事ではなかった。
K男が私にどれだけ酷い事をしたかをよく考えてもらい、「N子にも原因があるのではないか」とか、「もう終わった事だ」と言って私を傷つけるのだけはやめて欲しいと、繰り返し義母に訴えていた。
義父に言っても聞く耳を持たないので、義母から義父に諭してもらおうとしていた。
するとある時、「もう、分かりましたよ! K男は死刑になったんです! 死刑! だからもう勘弁して下さい!」そう言って、義母はいきなり電話を切ったそうだ。
それを聞いた私は、心配になってすぐに義母に会いに行った。
「どうぞ、どうぞ、上がって」と、いつもは笑顔で家に招き入れてくれる義母が、玄関先で立ったまま言った。
「N子さん! 私、心臓が悪いんです! この前医者に行ったら、心臓が悪いって言われたんです! 私、心臓が悪いんですよ!」
義母が私にそんな口調で話すのは初めてだった。
「それなのに、あなたのお母さん、何回も電話をかけてきて、何度も何度も、同じ話を繰り返し繰り返し…… もう勘弁してもらえませんか⁉︎ 真綿でぎりぎりと首を絞められているようで、お母さんから電話がかかってくると、首の辺りがぎゅーっと痛くなって、目眩がしてくるんです。もう勘弁してください! K男が悪いことは充分、分かりました! でも、同じ事を繰り返し繰り返し言われて…… 本当にもう許してもらませんか⁉︎」
そんな義母を見るのは初めてだった。
「申し訳ありません! 母が言い過ぎました。母は自分の気持ちを分かってもらいたかっただけだと思いますが、それにしても繰り返し言い過ぎていると思います。本当に申し訳ありません!」
「それからね、N子さん、お盆にあなたの家に行きましたよね?」
義母はその一ヶ月ほど前の、お盆の八月十五日のことを言っているのだった。
この辺りでは、八月十三日に寺を訪れ、お墓参りをするのか習慣だった。 だが、まだ夫の墓もなく、納骨もしていないので、お寺を訪れる必要が無かった。
私はただ、家の仏壇に母が用意してくれたお盆用の食べ物やお菓子などを並べて、それらしくしておいた。
お盆はとにかく仕事が忙しかった。
実家の日本料理店にはカフェが併設してあり、数年前からかき氷を提供していたのだが、昨今のかき氷ブームにより好評で、夏は年々忙しくなっていた。
そして、特にお盆の期間中は、帰省客や、墓参りの前後に食事やかき氷を食べにくるお客さんで常に満席だった。
その日も私が仕事に追われていると、義母から連絡があった。
お寺から連絡があり、我が家の仏壇にお経を読みに来ると言われたが、私が仕事で自宅に戻れないことは分かっているので、義父と義母が家に入って、お経を読んでもらっても良いかという事だった。
私はもちろん承諾した。夫の死後、何かあった時の為にと義父に我が家の鍵を一つ預けていた。
「あの時ね、仏壇の花が枯れていたんですよ! 慌てて買いに行きましたけどね。それから、四十九日法要の時にお寺様が差したあの赤い蝋燭、あれはね、その日にだけ使う特別な蝋燭なんですよ! お寺様に言われました。あれはその日にだけ立てる蝋燭だって。それがまだ刺さっててね。もう仏壇の世話をするのも嫌なんでしょ? そんなんだったら…… 私だって色々言いたい事があるけど、こちらが悪いと思ってぐっとと堪えて、我慢しているんですよ!」
義母は決してそんな事を言う人では無かった。私に対していつも笑顔で優しく、何かあるといつも私の味方をしてくれた。
姑くさい事を言われた事も一度も無かった。姑に対する不満を漏らす人の話を聞くたび、お義母さんが姑で良かったといつも思っていた。
—— どうしてこんな事になってしまったのか……
仏壇の花は切らさないように、母がいつも買って用意してくれていた。でも、仕事が忙しい上に、猛暑日が続き、たまたま花が萎れていたのだろう。
赤い蝋燭についても、私は最後まで使って良いものだと思っていたし、夫の両親だって知らなかったはずだ。だから寺の人が来る前に気付いて取り替えておく事もしなかったのだろう。
それなのに、義母はそんな事を言ってきた。あの性格の義父の態度を責められても、義母にはどうする事も出来ないし、繰り返し繰り返し母に追い詰められて、何でも言いたくなったのだろう。無理もなかった。
「本当に申し訳ありませんでした! 母には二度と電話しないように言っておきます。本当に残念です。お義父さんとお義母さんに今まで仲良くしていただいて、子供も産まれて、皆でワイワイと楽しくやっていたのに、何でこんな事になってしまったのか。本当に残念です……」
義母は一瞬、ハッとしたような表情をした後、悲しそうな顔で言った。
「本当はK男が全部悪いんだけど……」
—— あの男はなんて親不孝なのだろう。どれだけ周りの人達を苦しめれば済むのだろうか。
義母の変わり果てた様子は、今までに無いほどの衝撃だった。強い悲しみと憤りを感じた。
その数日後、今度は義弟夫婦に会いにいった。義弟は厳しい顔をして待っていた。
「親父から何があったか聞いた。相手の名前も聞いた。でもね、それは兄貴がした事で、親父達は関係ないと思うんだけど! お袋はN子さんのお母さんに追い詰められておかしくなってるんだよ!」
義弟は義母の様子を見て、よほど私達が義母を責め立てていると思ったのだろう。
早速、私は義弟夫婦にS子やA子の事を詳しく話した。
二人は途中、目を見開いたり、「えっ⁉︎」と声を上げたり、呆れたような顔をしていた。
そして、義弟は最後に「兄貴は異常だったんだ……」と呟いた。
やはり思った通りだった。義父は義弟に詳しい話をしていないのではないかと思っていたのだ。
K男が生前にS子とちょっとやらかした事で、私達がひどく義父達を責め続けていると言ったとか、そんなところではないかと思っていた。
「話はよく分かった。それで、N子さんはどうしたいの?」
「私はただお寺を変えて欲しいんです。それだけは絶対に譲れません」
その夜、義弟の妻から電話があった。
私が帰った後、すぐに二人で夫の両親の家に行き、話をしてくれたそうだ。
途中で何度か義父が怒鳴り出し、話が中断したそうだが、最終的には、私達に謝って、お寺も変えるように説得してくれたらしい。
私は二人に深く感謝した。そして、思っている事を正直に彼女に告げた。
「本当に助かりました。ありがとうございます。でもね。もし謝られても、お寺を変えられても、お義父さん達と今までのように仲良くすることは無理だと思う。不倫の事を忘れられない私と、その事に触れられたくないお義父さん達とでは心が通わないと思うし、会って何事も無かったように話をするなんて無理だと思う」
「お義父さん達の事をけっして憎んでいるわけじゃないんだけど、会っても、ギクシャクしたり、傷つけあうだけだから、お互いもう、会わない方がいいんじゃないかな。お義父さん達を説得してくれたのに、本当に申し訳ないんだけど……」
「分かりますよ、その気持ち。本当にそうだと思います。今後はお義父さん達の事は私達に任せてください。夫もその気になっているみたいだし。N子さんはご自身と○○くん(息子)が幸せになる事だけを考えてくださいね」
翌日、義母から電話があった。
「N子さん、今回のこと、本当にごめんなさい。お義父さんの事もそうだけど、私も追い詰められちゃってどうかしてたわ。お母さんにも申し訳なかったと言っておいてもらえないかしら。お寺の事も、お父さんが近いうちに必ず住職に話をすると言っているから、もう少し待ってちょうだいね」
「ありがとうございます。こちらこそ、本当に母がお義母さんを追い詰めすぎてました。母も、もう電話しないと言ってました。お寺の事もありがとうございます。よろしくお願い致します。それにしても、お互いどうしてこんな辛い目に遭わなきゃいけないんでしょうね」
そう言いながら、涙が溢れた。義母も泣いているようだった。
さらにその数日後、再び義母から電話があり、お寺を変える事ができたと言われた。
「案外、あっさりと承諾してくれたみたいよ。あれこれ理由を訊かれなかったみたい。それに、あっちのお寺の人達の方が感じが良いし、お布施とかもずっと安いみたいだから良かったわ。第一、あんなお寺にお墓を建てるわけにはいかないものね。」
義母は無事にお寺を変えられて安堵している様子だった。移った先のお寺は夫の両親の家のすぐ近くだった。
そもそも、義父達は成り行きでS子の寺を選んだが、次第に不満を持つようになっていたように見えた。
義父は気難しい住職と話すのが嫌で、自分で電話をしないで、何かと私にお寺に電話をするように言ってきた。
そして、義母は住職の妻に初めて会った時、「いかにも慇懃無礼というような態度の人ね」と眉をひそめていた。
しかも、夫とS子の事があるのだから、お寺を変えられて内心ほっとしているに違いなかった。
私もお寺を変えられた事と、義母が安堵している様子にほっとした。
その数日後、我が家にあった仏壇を夫の実家に移してもらった。
夫の仏壇の世話をする気にはなれなかったし、夫の両親も私に任せているよりも自分達の家に置いた方が安心だろうと思った。
それから数日後、私はS子にメールをした。
S子の夫が、私達がお寺を変えたと聞いて、やはりK男とS子の間に何かあったからお寺を変えたんじゃないかと思って、揉め事になっていないか気になったのだ。
「私達がお寺を変えたと聞いて、ご主人はどんな反応でしたか?」
すると、S子から意外な返事が返ってきた。
「お寺を変えられたんですね。両親から何も聞いていないので知りませんでした。夫も何も聞いていないと思います」
—— どういう事なのだろう。お寺を変えたいと言われたら一大事じゃないのか。しかも今までこれだけ親しい間柄だったのに……
あの住職や妻はいったい何を考えているのかと、訳が分からなかった。
2.住職
それから数日後、S子の父である住職が法事の会食をしに実家の店に来た。
お寺を変えたことについて何か言われるのではないかとドキドキしていたが、他の人達の手前もあるのか何も言わなかった。
住職が店を出る時、女将である母がいつもそうするように見送りに出た。
すると、住職から何か話しかけられ、店の外でしばらくの間、二人で話し込んでいた。
店の中に戻った母に尋ねると、会話の内容はこうだったそうだ。
「女将さん、お寺を変えたことはご存知ですか?」
「はい。知っています」
「N子さんはご存知なんですか?」
「N子も分かっています」
「お父さんが『親戚に反対されたから』と言ったんですが、若方丈(S子の夫)が何かしましたか?」
「いいえ、若方丈さんは何もしていません」
「じゃあ、我々が何か不愉快な事をしましたか?」
「いいえ、何も……」
「じゃあ、どうしたんでしょうか?」
そう言われ、母はもう隠しておくことは出来ないと覚悟を決め、住職にS子とK男の事を話したという。
「ああ、若方丈は夜いないんだ…… それにしても、若い人達は何をしてるんでしょうね?」と住職は言った。
「N子は苦しくて、死にたいと言っていますよ」
「それは、そうでしょうね」
それを聞いて、私は母に言った。
「ご住職はすぐにでもS子に色々と訊くと思うけど、S子は死人に口無しで、『私は全くその気が無かったけど、K男さんがしつこく誘ってきて断りきれなかった。幼稚園の事も色々相談していたからつい頼ってしまった』などと、自分の都合の良いように話すに違いない。だから、ご住職達に私からも話をする必要がある。」
さっそく母は住職の家に電話をして、私が話をしたいと言ってる旨を伝えた。
「今月は忙しいので、来月になってからいつ話を聞けるかを連絡する。どこかの料亭に部屋をとって話を聞く」と住職は言ったそうだ。
すぐに話を聞いてくれない住職の態度に腹が立ったが、とりあえず待つしかなかった。
S子は今頃、幼稚園で仕事中だろうから、住職は今晩、S子に今回の事を問い詰めることだろうと思った。
それから数日後、S子にまたメールをした。
S子の家は今頃、大騒ぎになっているだろうと思っていたが、様子が分からないし、どうなっているのか気になって仕方がなくなったのだ。
「ご両親から訊かれましたか? 夫とあなたのこと」
「何か両親に話したのですか?」
—— いったいどういう事なのだろう。まさか住職はS子にまだ何も言っていないのだろうか。
「ご住職がこの前、法事でお店に来られた時、私の母に『なぜお寺を変えたのか』、『若方丈が何か失礼な事をしたのか』と言われたので、あなたと夫のことを話したのですが、ご両親とはどのような話になっているんですか?」
「そうだったのですね。それはいつの事ですか? 両親からはまだ何も言われていません。檀家をやめたことは聞きました。お父様の家の近くのお寺の方がお墓参りなども行きやすいからだと聞いていました。だから、なぜ父が女将さんにそんなことを聞いたのか分かりません」
「私がお店に呼ばれてお姉さんと女将さんに問い詰められ、ご主人とのことを話した時、女将さんは私にこうおっしゃいました。『我々もおたくもこの地を離れられないし、これからも嫌でも付き合わなければならない。だからこのことはあなたのご両親と旦那さんには絶対に知られてはいけません。墓場まで持っていく覚悟をしなさい』と。だから私は誰にも一生話さないと覚悟していました。女将さんは父に何を話したのでしょうか?」
わけが分からなかった。お寺を変えたこともなかなかS子夫婦に言わなかったし、ましてやS子と夫の事を知っても何も言わないとは。
普通なら、何をおいてもすぐにS子を問い詰めるのではないだろうか。一体どういう親子関係なのだろうと思った。
私はメールを返した。
「あの時は、私も母も姉も、自分達の立場や子供達のことを考えて誰にも話すまいと覚悟を決めていました。ですが、後になって、『やはり、このまま檀家を続けるのは私が辛すぎる。夫の両親が死んだ後も私と寺の関係はずーっと続く。それに、このまま夫の骨をその寺に埋めるなんておぞましい』ということになり、檀家を変えてもらうことになりました」
「夫の両親のどちらかが先に亡くなったらそのお墓に入るわけだし、そうなったら、夫の両親の家の近くのお寺の方がお参りしやすいと住職に説明して、変えてもらおうという事になりました」
「お義父さんがどう説明したかはよく分かりません。でも、お義父さんは夫のように平気で嘘をつくタイプではありません。ご住職は何か違和感を感じて、若方丈が何か失礼な事をしたのではないかと思ったのでしょう。それで堪らず、お店に来た時に母に聞いたのだと思います」
「母は『もう隠しきれない。若方丈さんのせいにする事はできない。ご住職をごまかすことも出来ない』と思って真実を話したそうです。つまり、夫とあなたが二年以上前から関係を持っていたという事をです。『長話は出来ないので、あとはS子さんに聞いて下さい』と言ったそうですが、何も訊かれていないのですね。驚きです」
翌日、S子からメールが来た。
「両親にご主人とのことを話しました。女将さんから聞いた時、父は卒倒しそうだったと言っていました」
「父から『自分の娘がこんなに馬鹿なことをするとは思わなかった。自分の立場を分かってるのか。先方に合わせる顔がない。自分のしたことがどれだけの人を傷つけているのか分かっているのか。子供達が知ったらどれだけショックを受けるか。本当に馬鹿なことをした』等々言われました。母も『N子さんに本当に申し訳ない』と悲痛な面持ちでした」
「母は夫が知ったら逆上して家に火をつけるんじゃないかと心配しています。子供達と夫には絶対に知られないようにしなければと両親と話しました。ここまでたくさんの人を傷つけることになることに思いが及ばなかった私は、本当に馬鹿で身勝手な人間でした。悔やんでも悔やみきれません」
「どうしてご両親は今まであなたに何も聞かなかったのですか? それから、ご両親は夫に対する怒りは無いのですか?」と私はすぐに返信した。
「私から話すのを待っていたのでしょうか…… なぜ何も聞かなかったかについては分かりません。両親は『相手があることだからお前だけが悪いのではない。相手にも責任がある』とは言いましたが、ご主人に対する怒りは感じませんでした。それよりも流されたお前が馬鹿だったのだと私を責めていました。『四十年も生きてきて人生で何を学んで来たんだ。自分の娘がこんな間違いをおかすなんて情けない』と私に対するだけ怒りでした」
それから一週間以上が過ぎたが、住職からは連絡が無かった。母はとうとう痺れを切らして寺に電話をした。
「11月に入ってから時間を作るという話ですけど、いつですか?」
「いえ、11月に時間を作るとは言ってませんよ。11月になったらご連絡すると申し上げたんです」
「娘はそんなに待てないって言ってるんですよ! 私も同じ気持ちです。どこかの料亭に部屋を取るとおっしゃってましたが、そんな事しないでうちの店に来てください。それから、娘はあなただけではなく、奥様やS子さんにも来てもらいたいと言ってますよ!」
「いや、そんなこと言われても、三人でお寺を開けるわけにはいきませんから…… 私一人だけにさせてください」
「三人で出られないなら、私達がそちらに伺いましょうか? 夜中に伺っても構いませんよ。S子さんは夜中に家を出て、K男さんに会っていたんですよね⁉︎」
いつも穏やかで落ち着いている母が、めずらしく声を荒げた。
私は母に「S子抜きで住職と話をすることなど考えられない。S子には必ず来てもらう」と言っていた。 もし、S子抜きで話をすれば、その時に我々に言われた事に対して、S子は自分の都合の良いように後で住職に反論をするだろう。
それだけは絶対に許せなかった。私はS子の前で全てを話して、住職たちに納得してもらうつもりだった。
住職はいったん電話を切ったが、また連絡があり、翌週に三人で実家のお店に来ることになった。
私はまたS子にメールをした。
「来週火曜日の午前中に住職と会う約束をしました。『詳細はS子さんに訊いてください』と母が言ったのに、なかなか訊こうともしなかったし、いつ会うのか連絡もしてこないので、こちらから電話をしました」
「ご住職は母に『私は話を聞くことしかできない。もう起きてしまったことはどうにもならない。S子だけが悪いわけではない』と言ったそうです。」
「私から毎日メールが来て責められてると言ったそうですね。私が悪者ですか…… よほどご両親に上手く話されたんでしょうね? 『強引に押し切られ、流されてしまった』とか言ったんですか? 二年以上も流され続けたんですか⁉︎ いい大人が⁉︎」
「夫が何をするか分からない? 子供達が可愛そう? そんな事は最初から分かっていた事ですよね⁉︎ 母親である事を忘れていたあなたが、今になって子供をダシにしてくるなんて、最低ですね!」
「住職は『どちらが悪いかという話なら聞きたくない』と母に言ったそうですが、自分の娘がした事でどれだけ私達が苦しんでいるのか考えたら、よくそんな事が言えるな、と驚きました」
S子から返事が来た。
「父が言ったことで不愉快にさせてしまい、申し訳ありませんでした。私は決してご主人やN子さんを悪者にするような言い方はしていません。ありのままを話しました。ご主人から誘われたのは事実です。しかし、自分の立場を省みず感情に流されてしまったのは私自身です。『本当に馬鹿なことをした。私自身が悪いのだ』と話しました」
「父に『N子さんとは今どうなってるのか?』と聞かれたので、メールが来ることは話しました。『N子さんが辛い気持ちを私にぶつけて来るのは当然だし、そういう気持ちにさせている私が悪いのだから』と両親には言いました。それを聞いて、責められていると受け取ってしまったのかも知れません。申し訳ありません」
「父は『男女のことだから、お前と相手が二人共どうしようもない愚か者だった』と言っていました。どちらもが悪いと考えているようです。自分の娘がとんでもないことをしたという自覚は十分あり、私のことも随分責めました。だから女将さんとの電話でそういう風に言ってしまったのだと思います。本当に申し訳ありませんでした」
—— 『私自身が悪い』だとか、『メールが来るのは当然だ』とか、下手に出てるけど、本心かどうか分かったもんじゃない! 何年も周りを欺き続けて平気な顔をしていた女なのだから!
私の抑え切れない怒りはどんどん増して、さらにメールを送り続けた。
「最初に姉に問い詰められた時、あなたは『私に一生償う』と言ったそうですね。でも何も出来ないですよね? 何か方法を思いつきましたか? ご両親と話された結果は『若方丈が何をするか分からないから、三人で隠し通そう』と言うことだけですか? 私に対してどう償ったら良いかという話は全くありませんでしたか? 『あなただけが悪いわけじゃないし、もう起きてしまった事は覆せないのだからもう仕方がない。N子さんと話す事はもう無い』って感じですか?」
「十五年も生活を共にして、真の家族だと思っていた夫と、子供がヨチヨチ歩きの頃からお世話になり、仲の良いママ友でもあると思っていた人から裏切られていたんです、二年以上も。それがどれだけ辛い事なのが、私の一生の苦しみが、やった本人であるあなたには一生分かりようもないでしょうね!」
「『あなたの夫は、あなたと子供のことなんかどうでもよくて、私のことを愛してたのよ』という優越感があるんじゃないですか⁉︎ その優越感に浸って気分良くいられるんじゃありませんか⁉︎」
「夫とはもちろん、あなたとも付き合いが深すぎて、夫がどんな笑顔で笑うか、あなたがどんな笑顔で笑うかよく知っています。だから、夫とあなたがどんな笑顔で笑い合って、愛を囁き合って、そしてキスをしたり、抱き合ったりしていたのか、簡単に想像できます。いつでも頭に浮かんで来ます。本当に、死ねるものなら死にたい!」
その翌日は、息子の誕生日だった。
去年の誕生日は、息子が『家でゲーム大会がしたい』と言ったので、息子が自分でプログラムを考えて、三人でキャーキャー言いながらゲーム大会をした事を思い出した。
愛情のある仲の良い家族だと思ってたのは、私の独りよがりだったようだと絶望的な気分になった。
その日の誕生日は、母と姉が息子の誕生日を皆で祝おうと言ってくれたが、息子が「ママと二人が良い」と言った。
私は大きなケーキを買い、ささやかなご馳走を食べ、二人でゲーム大会をした。
そして、夜になると息子と布団に潜りながら、息子に気付かれないように反対側を向いて涙を流した。
さらにその翌日は、小学校の作品展があり、体育館で各学年ごとに何かを発表する事になっていた。
私は体育館へと向かったが、S子の事が頭をよぎった。私の息子とS子の息子は同じクラスだった。
—— S子は私に合わせる顔が無くて体育館に来ないか、あるいは来ても、目立たないように後ろの方でこっそりと見るに違いない。
そう思いながら体育館に入ると、いきなりS子の姿が飛び込んできた。
—— えっ⁉︎ どうして⁉︎
S子は観客達の最前列の一番左端に三脚を立て、カメラを構えていた。大きな三脚を立てているせいか、彼女の周りだけ空いていて、目立っていた。
私はひどく動揺したが、息子のクラスの発表が始まると、息子に集中しようと努めた。
—— 落ち着け! S子の事は気にするな! 私は息子を見にきているのだから……
だが、最前列にいるボーダー柄のシャツを着たS子の後ろ姿がどうしても目に入ってしまう。
—— 夫はあの背中を抱き寄せたのだろうか。二人で微笑みあったり、キスをしたり……
気がつくと涙が出ていた。前が見えない。ハッと気づくと、息子がセリフを言う場面が終わってしまっていた。
—— なんでこんな事になってしまうのだろう。
さらに涙が溢れ出した。もう限界だった。周りに泣いているところを見られないように、すぐに体育館を出た。
3.慰謝料
いよいよ、住職達と対峙する日がやってきた。
約束の時間になると、住職は袈裟を着て、タクシーに乗って現れた。法事のお務めに来ているように装ったのだろう。
そして、S子の母親はその約十五分後に徒歩でやってきて、そのまた十五分後にS子が現れた。
平日の昼間に三人揃ってお店に向かっているところを、近所の人に見られたら不審がられると思ったのだろう。
だから三人で示し合わせて、十五分後ずつ時間をずらして家を出ることにしたはずだった。用意周到だ。
こちら側は母と二人で待っていた。
S子が部屋に入ると、久しぶりにその姿を目の当たりした私は思わず涙が出てきた。
その様子を見て、母が話し始めようとしたが、「待って! 私が話すから!」と制止した。
「なぜ今回の事を、すぐにS子先生に問いたださなかったんですか?」まずは住職に訊いた。
「えっ! 今、それを答えるのですか?」と住職は少し狼狽えた様子で言った。
「はい。今、答えてください」と私はキッパリと言った。
「まあ、我々も若夫婦も寺の同じ敷地内に住んでるとは言ってもですね。若夫婦は別棟に住んでるもんですから、今回の事も全く気付かなかった訳ですし。我々は我々、若夫婦は若夫婦という風に、若夫婦を尊重しているというか、いちいち干渉しないわけです。何か本当に困った事があったら、向こうから打ち明けてくれると思っていた訳なので……」
—— 何を訳の分からない事を言ってるんだ、この一大事に! 第一、S子の方から言うわけないだろう!
私はそう住職に言ってやりたかったが抑えた。
それから私は、結婚前に夫が様々な女性達の間を渡り歩いていたことと、A子とも関係を持っていた事を正直に話した。
というのは、彼らが後で夫の噂を聞き、「じゃあ、K男はやっぱり酷い男だったんじゃないか。こちらは騙されていただけなんだ」というふうに片付けられたら癪に触るからだ。
正直に全部話して、その上で、それでもS子が私を騙し続けていた事は別だと言いたかった。
私が話している間、向かって右端に座っているS子はずっと下を向き、伸びた前髪が庇のように顔に掛かり、顔が全く見えない状態だった。
左端に座る住職は、あっちを向いたり首を傾げたりして考えながら話を聞いている様子だった。
そして、真ん中に座っているS子の母親は、ほぼ目を逸らさずに私の話を真摯に聞いている様子だった。いつも慇懃無礼なS子の母親が、私の話を真剣に聞いている様子を見るのは初めてだった。
夫の過去についての話が終わると、私は言った。
「だからと言って、S子先生が私を騙して良いという事にはなりませんよね? 私とS子先生のこれまでの関係を考えても、今回の事はあり得ませんよね? S子先生は息子が通った幼稚園の副園長ですよね。息子が未満児で通園していた時期も含めて、六年近くも、息子と、それから息子の手を引いていた私の姿を見てきたはずですよね。どうしてあんな事が出来たんですか⁉︎」
そして私は、S子が私の居ない時に我が家に作品展のワークショップの相談に来て、五時間以上も居た話をした。
彼女は何か反論したかったのか、途中で何回かモゾモゾしていた。
私が「何か反論があるんですか? あるんだったら遠慮なく言ってください」と言ったが、S子は何も言わなかった。
それから、S子が夫と付き合い始めた頃に、まつげのエクステをしていた事を思い出してを言った。
「あれは、夜中にノーメークで夫に会った時に可愛く見える為にですよね? あの頃はいつも楽しそうにしていて、私に申し訳ないと思って関係を持っていたようには思えない様子でしたよ!」
それから、S子の事を知るより先にA子の事が発覚し、それをあるママ友に打ち明けた時、「てっきりS子先生と何かあるのかなと思ってたよ。だってS子先生、いかにもご主人のこと好きだっていう感じに見えたから。でもA子さんのほうだったんだ」と言われた事を話した。
また別のママ友が、お通夜の時に夫の顔を拝んでいるS子を見て、「あの時のS子先生にはびっくりしたよね。感情的になって、K男さんに触りまくって、髪がぐちゃぐちゃになっちゃって。誰かが愛人かと思うんじゃないかって、止めた方が良いんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたよ。S子先生って本当に天然ていうか、K男さんの事、本当に慕っている様子だったもんね」と苦笑しながら言っていた事も話した。
どちらも本当にあった事であり、周りから見ても、S子が夫を好きだった事があからさまだった事を告げるためだった。
「これでもあなたは『自分には全くその気が無かったのに、ご主人にしつこく誘われて流されていただけだ』って言うんですか⁉︎ それだけは絶対に言われたくありません!」
すると彼女は、「私もその気がありました! すみません!」と泣きながら言った。
やっとS子に両親の前でそう言わせたと思った。
それから私は自分の考えを述べた。
「少し前までは、色々な影響を考えて、若方丈さんにはこの事を黙っているべきだと思っていました。でも今は違います。これから先、数日後か数年後か分かりませんが、若方丈さんが何かの形でこの事を知ることになるかも知れません。そしたらどうなりますか? 自分以外の周りは全員この事を知っていて、自分だけ何年も騙されていた事を知ったらどうなると思いますか?」
「今、打ち明ければS子先生への怒りだけで済みます。でも、後になって知ったらどうですか? あなた達にはもちろん、夫の両親に対しても、我々にだって怒りを生むでしょう。皆で騙していたとなったら、怒りは何倍にも膨らみますよ! 今、正直に全てを打ち明けて、『どうか子供達の為に堪えてくれ』と誠心誠意、頭を下げるべきじゃないでしょうか? 私もその時になれば、いくらでも一緒に頭を下げますよ。それが若方丈さんに対するせめてもの誠意ではないですか?」
すると住職が言った。
「いえ、それは若夫婦の問題であって、我々は関係ありませんので…… もし後で、若方丈がこの事を知ったら、我々は一切知らなかったという事にします」
—— なんてずるい人なのだ! それでも仏に仕える人間か! 普段は偉そうな事を言っているくせに、こういう時に本性が出たな。
私は心底、住職の狡猾さに呆れた。
「もし、若方丈さんがこの事を知って、私に『あなたも私と同じ立場でありながら、なぜ黙ってたんだ!』と責めてきたらこう言いますよ。『私はS子先生のご両親に真実を告げて、あなたにもきちんと打ち明けて謝るべきだと言いましたよ。でも、我々は知らなかった事にするし、あなたも黙っていてくれと言われたんです』と言いますからね。若方丈さんがこの事を知ったら本当にどうなるんでしょう。たぶん、ご実家に帰られるんじゃないですか?」
すると、住職が言った。
「あれは…… 私の弟子なんですよ。私が師匠で、あれは私の弟子なんです。だから、私の方から出て行けとは言えませんし、若方丈が勝手に実家に帰ることもできないんです」
—— はぁ⁉︎ 何を言ってるんだ! この後に及んで師匠とか弟子とかそんな事、関係ないだろう。第一、住職の方から出て行けと言える立場だとでも思っているのか!
叫びたい気持ちだったが、抑えて言った。
「ご住職から出て行けと言うんではなくて、若方丈さんのほうから勝手に出ていくんじゃないですか?」
すると、S子が何度もウンウンと頷いているのが見えた。彼女もそう思っているらしい。
「いや、若方丈は耐えるでしょう。そういう修行をしていますから…… 先程も言いましたが、あれは私の弟子なんですよ。私の言う事には従わなければなりません」
全く話にならないと思った。
若方丈にしてみれば、師匠の娘に裏切られて、師匠も弟子もあるはずがない。
だいたい、信頼関係なんて元々ひとかけらも無いのだ。若方丈が飲み会の席で住職の悪口しか言わない事を知らないのかと思った。
「私はこれからも一生苦しみ続けると思います。でも、S子先生は、世間にもご主人にもバレず、今まで通りの生活をしているのだから、ほとばりが冷めればこの事は忘れてしまうでしょうね。人間は自分を守るために都合の悪い事は忘れるように出来ているそうですから…… だから、制裁が必要じゃないですか?」
「私は一生忘れません! 一生後悔して生きていきます!」
S子はそう言ったが、どうせ口先だけだろうと思った。
これまで自分に都合の悪い事を全て正当化して、あれだけの事を何年もしていたのだから。
すると、住職が言った。
「まあ、我々のような仏に仕える世界ではですね。こういう事が発覚すると、まず修行に出すんですよ。一年くらい、頭を冷やしてこいって。でも、娘は女性ですからね…… そんな事も出来ないし」
—— また何をふざけた事、言っているんだ!
「我々の世界では……」とか、そっちの世界のことなんか知ったこっちゃない。
こんな時にまで「仏に仕える世界では……」とか言い出して、仏が聞いて呆れるはずだ。
自分達は特別だと勘違いしてるんじゃないのかと思った。
「私の為に何が出来るか、皆さんで話し合われましたか? それとも、『起きてしまった事はもう
覆せないからしょうがない』と、それだけですか?」
「じゃあ、どうすれば良いでしょうか?」と住職は言った。
そう言われるだろうと、私は答えを用意していた。
「先程も言いましたが、この先、忘れてもらっちゃ困るので、やはり制裁が必要です。だから慰謝料をください」
三人とも意外そうな顔をして、一瞬シーンとなった。そして、住職が言った。
「いや、おたくと我々の今までの付き合いがあって、そんな事言うんですか?」
—— 嘘くさい反応しやがって! どうせいざとなったら、お金で解決しようと思っていたに決まってる。それとも、本当にタダで済むとでも思っていたというのか。
「その付き合いがあったのに、とんでもない事をしていたのはそちらじゃないですか! それとも、弁護士を通じて通知書を送りましょうか?」
「それは困ります! 噂になったらどうするんですか⁉︎」
私はもう、噂になろうが何だろうが、どうでも良い気持ちになっていた。
「それはおいくらですか?」と住職が言った。
「そちらにお任せします」
「いくらにしたら良いのか分かりませんので、どうぞハッキリ言ってください」
私はそう言われた時の答えも用意していた。
「じゃあ、150万円ください。その根拠を今から言います」
不倫の慰謝料についてはインターネットなどで検索して、色々と調べていた。
大まかに言うと、不倫の慰謝料は100〜300万円前後だった。
つまり、軽いものだと100万円位で、悪質なものは300万円位になる事もあるという事だ。
夫とS子の不倫は期間も長いし、頻繁だった。それに、私とS子の関係も考えると、悪質な部類に決まっている。
だとしても、300万円をそのまま相手に請求できるわけではない。半分は夫が悪いのだ。
だから半分はS子が支払い、もう半分は夫が支払わなければならない。
だが、夫が死んでいるので、その遺産相続をした私が私自身に支払うことになる。
つまり、民法では半分しか請求できない。三人にそう説明をした。
その前日に、私が姉に「S子に150万円を要求するつもりだ」と言った。
すると姉は、「いや、200万円でも300万円でもむこうは払うと思うよ。だって、今回のことをバラされたらあの家は終わりだからね」と言った。
だが、私はそうしなかった。私にもプライドがあるし、高額な請求をして、「こんなに支払ったのだから、完全に罪は償った」とS子達に思われたくなかったからだ。
ちなみに、姉は「S子に『家が寺なんだから、坊主頭にしろ!』と言ったら?」とも言ったが、もちろん言わなかった。そんな事をしたら、周りが何事かと大騒ぎするに決まっている。
「分かりました。150万円お支払い致します」とS子が言った。
「150万円も払って、若方丈さんには気付かれないんですか?」と母が訊いた。
「大丈夫です。私の銀行口座がありますから」とS子は答えた。
あのお寺なら、若奥様が自分だけのお金として150万円くらい持っていたとしても不思議はない。たいしたお金ではないだろう。
だが、その150万円がいつの間にか無くなっても、夫が気付かないものだろうか。
S子が払うと言いながら、本当は住職が支払うのではないだろうかと思った。
「そのお金を払ったら、今回の事が若方丈にバレないという保証があるんですか?」と住職が言った。
私は怒りをようやく抑えながら言った。
「保証なんかありませんよ! あれだけ大胆に不倫をしておいて、いつバレるかわからない状態ですからね。もう知っている人は知っているかも知れないし。 私は慰謝料と言ったんです! それとも、口止め料なんですか⁉︎」
「まあ、口止め料の意味もあります」と住職は言った。
「慰謝料ですよ! 私がもし150万円をもらって、その上で誰かにバラしても、私が責められる言われはありませんよ!」 私ははっきりと言い返してやった。
そこで、S子の母親が言った。
「N子さん、申し訳ありませんが、お願いがあります。実は今日、職員の一人が風邪を引いて休んでおりまして…… 私が園に帰らないと子供達だけになってしまうので、帰ってもよろしいでしょうか?」
どうせ別々に帰るために嘘をついているんだろうと思ったが、もうどうでも良かった。
人に丁寧にお願いをする園長を見たのはこれが初めてだった。私が「どうぞ」と言うと、彼女はすぐに帰っていった。
それからしばらくして、住職が「お前も、もう帰りなさい」とS子に言った。
S子はしばらく躊躇していたが、私が「どうぞ、S子先生も帰ってください」と言うと帰って行った。
やはり、少しずつ時間をずらして帰る作戦なのだろうと思った。
住職と母と私の三人だけになった。
すると、住職は言い訳をしたいのか、S子の話を始めた。
「S子は長女だから、我々も甘やかしてしまいまして…… S子は自分は何をやっても許されると思っているようなところがあるんです」
それから、S子と若方丈との馴れ初めを話し始めた。
元々、若方丈は寺に修行に来ていたそうだ。その寺は県外から修行に来る人がいるほど由緒ある寺だった。
その時、S子は東京で仕事をしていたそうだが、手伝いをする為に実家の寺に帰って来ていた。
そこで、若方丈が「自分には霊感がある」などと言い、S子達姉妹に怖い話などをして喜ばせていたそうだ。
「世の中にはいるんですな。人を魅了して、たぶらかす人間が……」と住職が言った。
『男達が悪い』とでも言いたかったのだろうか。S子は何度たぶらかされれば気が済むのだろう。
当時、S子も若方丈も失恋したばかりで、そのせいもあって、若方丈がS子に会いに東京に遊びに行くようになったそうだ。
それから間もなくして、二人で住職の前に現れ、「結婚させて欲しい」と言ったという。
住職は自分が適当な人物を娘の結婚相手に選びたかったそうだが、そうなったら許さないわけにはいかなかったそうだ。
「我々の世界では、あっちのお寺の人間と付き合っていて、駄目になったからじゃあこっちの人、というわけにはいかないんです。狭い世界ですからね」
—— だからって、S子が何をしても良いわけじゃないだろ!自分で若方丈を選んだんだから!
そして、私は住職に訊いた。
「S子先生から、若方丈さんが子供達に暴力を振るうと聞いたのですが、本当ですか? もし私がS子先生の立場なら、何がなんでも離婚するか、子供達を連れて家を出ますけどね。母親ならそうじゃないですか?」
「まさか! 暴力なんて。子供達は若方丈の事が本当に大好きですよ」
また訳が分からなくなった。暴力のことも、S子が自分のしたことを正当化するために大袈裟に言っているのだけなのだろうか。
帰る時、住職はお金で解決したと思ってほっとしているのか、機嫌が良くなったように見えた。
「この前の法事の〇〇さん、とてもお料理が美味しかったと喜んでいらっしゃいましたよ」
「有難うございます。これからもよろしくお願いいたします」と母も答えた。
—— 二人とも何を言ってんだ! 馬鹿じゃないのか!
私は癪に触ったが、母が死に物狂いで守ってきた店を守る為に、穏便に済ませなければいけないと思うのは仕方のない事かも知れなかった。
4. マインドコントロール
住職達との話し合いは終わったが、私の気は晴れなかった。またS子にメールをした。
「お金なんて要求して、がめつい女だと思うかもしれないけど、私が要求したかったことは他にあるんです。それは、あなたに幼稚園の副園長の座を降りてもらうことです。でも、母に話したら『それだけは絶対に言うな』と止められました。だからせめてもの制裁に慰謝料のことを言いました。それを分かってもらいたいです。慰謝料を払ったからといって、全て償ったと思わないでくださいね!」
「あなたのことが本当に憎くて恨めしいです。自分の夫が気に入らないからといって、人の夫を笑顔で賞賛して近づいて、深い仲になり、快楽と優越感を味わった。それなのに、バレても子供のことやお店とお寺の関係を盾にして、お金さえ払えば、今まで通り生活して行けるんですからね。私が今どんな気持ちでいるか、あなたには分からないでしょうね⁉︎」
「住職は『そのお金を払ったら、若方丈にバレない保証でもあるのか』などと訳の分からない事を言ってましたが、あれだけあなた達が大胆な行動をとっていたのだから、そんな保証できる訳もないし、慰謝料の意味が分からないんでしょうかね? 私らの世界ではこうだとか、若方丈は私の弟子だからこうだとか、全然関係ないですよね。寺の世界から離れて、一人の人間として人の気持ちを推し測ろうという気持ちはないんでしょうかね」
「私があなたに園を退いてもらいたいというのは、あなたのような人間が幼稚園の副園長をやっているのが我慢がならないということです。それから、それを知らずに大事な子供を園に預ける親達が気の毒だからです。真実を知ったら、子供を預ける人は誰も居なくなるでしょうね。良かったですね。私が怒りに任せてご主人や周りにバラさなくて」
「あなたにとっては、夫との事は人生のスパイスになるような官能的で素敵な思い出だったんじゃないですか? 夫とあなたは絵本好き同士ということで盛り上がってたみたいですが、絵本は子供が読むものだから、人の気持ちを学んだりする内容が多いと思うんですが、絵本から何を学んでいたのでしょうね? 絵本好きっていうと、いかにも純粋な人のように思えますよね? お二人が絵本好きだと言って盛り上がっていたとは、本当に笑えます。ダシに使われた絵本たちが可哀想です。家にある息子が好きだった思い出の絵本も全部捨てました。小児科などで絵本が並んでいるのを見ただけで苦しくなります。その気持ち分かりますか⁉︎」
私は怒りに任せてメールを送り続けた。もう止められなかった。
S子から返事が来た。
「N子さん、辛い思いをさせてしまい、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。先週のお話で、私の知らなかったご主人の遍歴を聞いて驚きましたし、さらにご主人がN子さんや女将さん、そして私に対していかに自分に都合のいいように話していたのかがよく分かりました。ご主人の言っていたことは全部嘘でした」
「罪をおかしたのは私の責任でもありますし、被害者だと言いたい訳ではありません。ただ、騙されていた私が、信じていた私が馬鹿でした。たくさんの人を傷つけ、こんな大変なことをおかした自分が改めて情けないです。私のおかした過ちは消えません。慰謝料をお支払してもこれからもN子さんへの謝罪の気持ちが消えることはありません」
「夫に話すことは即、子供達に知れることです。そして、街中に知れることにもなると思います。息子さんのことはもちろん、子供達だけは絶対に傷つけるわけにはいきません。何の罪もない子供達の生活を守らなければなりません。だから夫には一生隠し通します。子供達を蔑ろにした私が言えることではないかもしれませんが、将来のある子供達のことを一番に考えなければと思います」
—— 将来のある子供達のことを一番に考えなければ⁉︎ いったいどの口がそんな事言って
るんだ! 若方丈に隠す事を正当化してるだけだろう!
怒りに震えながら、またメールをした。
「夫がどのような人間だったにせよ、どんなつもりであなたと付き合っていたにせよ、あなたが私を長期間に渡って裏切り続けていたことには変わりはありませんよ! 夫と二人でこの数年間、私の周りをうろつき、良い夫、良い友人を演じ、息子の幼稚園と小学校の思い出をめちゃくちゃにしたんです!」
「『信じていた私が馬鹿でした』って、夫はあなたにどんな嘘をついていたんですか?私と結婚した時の話とかですか?それとも、『子供達が大きくなったら、一緒になろう』とか言われていたんですか?」
S子から返事は無かった。
翌日、住職が150万円を持って母を訪れた。
そして、また言い訳をしたかったのか、住職は言ったそうだ。
「自分の妻と娘は、遺伝的におかしいのかも知れない。寺の先祖に、頭の弱い女性が居て、夜な夜な山でいかがわしい事をしていたらしい」
住職は婿養子で、婿入りする時に、同じく婿養子だった先代からそう聞いたそうだ。
その寺はいわゆる女系で、息子と同い年のS子の子が八十年ぶりに生まれた男の子だという。
「とにかく、娘をこれ以上追い詰めると病気になるかもしれなから、やめて欲しい」
「それを言ったら、うちの娘の方が病気になりそうですよ!」と母は言い返したという。
住職は帰る時に、また念を押したらしい。
「くれぐれもN子さんがS子に二度とメールをしないようにお願いします。子供達がS子が辛そうな表情でケータイを見ているのを見て、心配しています」
その夜、S子からメールが来た。
「作品展の相談に行った時に、何だかんだと引き留めていたのはご主人のほうです。ご主人は過去のことはほとんど話しませんでした。付き合ってた人は人並みにいた程度の話だけです。訊こうとすると嫌がりました。だから、知らないことばかりで驚きの連続でした。これまでの遍歴を聞いて、生前、私に甘い言葉をささやいたり、親切にしたのも全部嘘だったと確信しました。そういう人間だとは思いもせず、信じていました」
「私を好きにさせ、自分に頼らせ、離れられないようにマインドコントロールしていたのだと思います。やめたくてもやめられない覚醒剤や洗脳と同じです。ご主人との事は官能的な思い出なんかではありません。性欲処理に使われていただけだとはっきりと分かりました。そうだとは思っていましたが。私にも飽きて次のターゲットを探そうとしていたのかもしれませんね」
「ご主人がとても恨めしいです。私との関係を精算せずに亡くなり、残された私にすべての責任を押し付け、N子さんを苦しめているが一番の罪です」
—— お金を渡した途端、K男がマインドコントロールしていたと言ってくるとは! ふざけるな!
それにしても、『性欲処理に使われていただけだ』とはっきりと言ってくるとは……
いつも悩みを聞いてもらう代わりに、夜中に車の中で夫の処理をしていたのだろうか。気持ちが悪い。
住職に言われてもうメールはしないつもりでいたが、このまま言われたままでいる訳にはいかなかった。
「作品展の相談の時に引き止めていたのは夫のほうだということですが、もしそうだとしたら、奥さんが居ない時に家を訪ねて、何だかんだ引き止められたら、『私がその気があると誤解しているのだろうか。それではマズイから、もう色々と相談するのはやめよう』となりませんか? その後も夫に色々と相談しまくっておいて、それはないんじゃないでしょうか? 私だって、あなたが夫に何でもかんでも頼っているのを、少し図々しいと思わなくはありませんでしたよ。でも、私があなたに『もう夫に相談するな』とか『近づくな』とか言えたと思いますか? あなたがそんな事するはずないと思っていましたし」
「洗脳されていたことにすれば、夫が全て悪い事にすれは、あなたは楽ですよね? 私はあの夫の事を包み隠さずに、正直にあなたとあなたのご両親にお話したつもりですが、早速そんな風に利用しましたか」
「あなたは『あの男が恨めしい。私との関係を清算せずに亡くなり、残された私にすべての責任をおしつけ……』とありますが、あなたからいつでも清算すれば良かったんじゃないですか? 半分は夫が悪いのだと言いたいんですか? その通り、半分は夫が悪いですよ。それでは、半分は誰か別の人が悪いのであれば、あと半分は何をやっても良いという事ですか? しかも、あなたは息子が通った幼稚園の副園長であり、私とも深い付き合いがあって、家同士も古くからの長い付き合いがあったんですよ!」
「不倫なんて元々騙し合いみたいなもので、嘘つかれてたとか、洗脳されていたとか、そういう話ではないんじゃないですか? 薄汚い不倫の関係で、都合よく甘い言葉をささやくのが当たり前じゃないですか。それとも、あなたは夫が言っていたことを全部、純粋に信じていたとでも言うんですか? 自分だけは純粋だったとでも言いたいんですか⁉︎」
「ただあるのは、あなたと夫が薄汚い心で、私や若方丈さんや周りを騙して、『癒されている』だの、『気持ちが良い』だのと言い合って、性欲に溺れていたという事実だけです」
「あなたも苦しんでるかも知れないけど、それはあなたがそれだけの事をしたのだから、責められているのは当然の事です。でも、私はあれだけの事をされた側なのに、ずっと苦しんでる。これからも苦しみ続けるんです。それを忘れないで下さい! 何かあったら150万なんていつでも突き返して、私の気が済むようにやらせていただきますから!」
「このメールに返信は不要です。私も、もうメールはしません」
本当にもうメールはしないつもりだった。私の最後のメールをS子が見てくれれば、それで良かった。言いたい事は全部言ったつもりだった。
でも、三日経ってもメールが既読にならなかった。
私はまたメールを送った。
「どうして私のメールを見ないんですか⁉︎ ブロックしているんですか⁉︎ 私に一生償うと言ったのはやはり嘘だったんですね。最後には洗脳されていたと言ってきたり、メールを見なくなったり、あれだけ私を傷つける事を何年もしておいて、自分を守ることだけは一生懸命なんですね!」
「私の事、異常だと思うかも知れませんが、あれだけ異常なことをされて、私だけ正常でいろと言うほうが無理じゃありませんか⁉︎ 私はもう異常かも知れませんよ!」
「また住職に泣きついたらいいんじゃないですか⁉︎ 気が狂いそうだとか、子供が心配してるとか。住職が言う通りなら、あなたはわざわざ子供の目の前でスマホを見ながら、曇った顔をしているんですか? あれほどの事をしておいて、皆の前で平気な顔して隠し続けていたあなたが? 住職が150万を返せと言ってきたら、すぐに返しますよ!」
それでもメールは既読にならなかった。
—— もう一生、私からのメールを見ないつもりなのか! 金を払った途端、こういう事をするのか! ふざけるな!
これ以上我慢が出来なかった私は、何がなんでもS子にメールを見てもらう為に、十人程の幼稚園のママ友グループのトークにメッセージを入れた。
「S子先生、最後にもう一度だけ、私からのメールを見ていただけませんか?」
幼稚園のママ友たちとは卒園後もずっと交流が続いていて、年に数回は飲み会をやっていた。ちょうどその頃も、何も知らないママ友たちの間で、次の飲み会の話題で盛り上がっていた。
私は参加すると返事をしていたが、数日前になったら仕事で行けなくなったという事にする予定だった。
S子はもう参加しないとしても、とても皆の顔を見る気にはなれなかった。今後、私がその大好きだったママ友たちとの飲み会に参加することはないだろう。
やっと、S子から返事が来た。
「N子さん、すみませんでした。ブロックしていたのではありません。メッセージを見る勇気がなくて、開けませんでした。お願いがあります。ママ友グループのトークに送ったメッセージの取り消しをしていただけますか? もう皆さん見たかも知れませんが…… 子供達のことは絶対に傷つける訳にはいきません。罪のない子供達の生活を守らなければなりません。お願いします。お金を支払ったからといって終わったとは思っていません。N子さんに対しての謝罪の気持ちを一生持ち続けていきます」
私はすぐにそのメッセージを取り消した。そして、すぐにS子にメールをした。
「メッセージは取り消しました。あなたが自分のした事の責任において、苦しくても私からのメールをちゃんと受け止めていればこんな事にはならないんじゃないですか⁉︎『子供達のことは絶対に傷つける訳にはいきません。罪のない子供達の生活を守らなければなりません』ですか? だったら、なおさらですよね? 子供達の人生を脅かしていた張本人は誰なんですか? 皆が通った幼稚園の副園長であり、ママ友である、あなたですよ! 私を悪者にして、自分は子供達を心配してるまともな人間ぶるのはやめて下さい!」
S子から返事が来た。
「メッセージを取り消していただいて、ありがとうございました。私がお願いできる立場でも、子供達の心配をできる立場でもないことは充分、分かっています。私に出来る事として、子供達を守りたいと言ってしまいました」
S子とのメールのやりとりはそれで終わった。