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紫陽花の寺

作者: 吉田逍児

 北条真如は都会から遠く離れた信州の山里にある『行願寺』とう寺の次男坊に生まれた。彼は、兄、北条広道が寺を継ぐと理解していたので、余り勉強もせず、村の子供たちと大自然の中で、遊び回って過ごした。ところが、高校1年の時、同じ宗派の『高徳寺』の住職、足立正典が酒の飲み過ぎで、病気になった為、『高徳寺』の檀家たちが、次の住職を誰にすべきか、思案した。その理由は、足立正典と妻、房子の間に善巧という長男がいたが、精神薄弱者で、寺の住職を務めるのは不可能だと分かっていたからだった。そこで住職、足立正典の妻、房子の実家、『行願寺』の次男坊、北条真如に『高徳寺』の住職を継がせようと白羽の矢が立った。房子は夫や檀家総代の要請を受けて、実家『行願寺』に訪問し、兄、光晴と義姉、道子に、真如を養子に欲しいと懇願した。真如の母、道子は、泣いて反対したが、父、光晴は房子の苦労を推測し、真如を養子に出す事を了承した。結婚というのは、お互いに相手の家を利用し合うものだ。利用される者の憂悶など気にしない。真如は、そんな経緯で、名前を北条真如から足立真如に改名し、高校2年の春から、松本の男女共学の高校に転校することになった。4月の始業式の日、真如は他の高校生たちより早く登校し、担任になる小林豊次先生に会い、もう一人の転校生、澄川奈美子と始業式前の説明を受けた。そして9時、体育館兼講堂で始業式が始まると、真如は澄川奈美子と一緒に在校生の最後に並び、1年生の入場を迎え、『君が代』を斉唱し、高木校長の式辞やPTA会長の祝辞を聞き、入学式を終え、自分のクラスの前で、小林先生を待った。その小林先生が現れると、小林先生の後ろについて2年A組の教室に入った。小林先生は、まず目の前の生徒たちに、2年生になった祝辞と心構えについての挨拶を行った。それを終えると、真如たち2人を紹介した。

「続いて、今日から、このクラスに加わる、新しい仲間を紹介します。足立真如君と澄川奈美子さんです。足立君は、4月から『高徳寺』で修業することになり、転校して来られました。澄川奈美子さんは東京の高校に通っておられましたが、お父様が松本に転勤になり、松本市内に引っ越し、転校して来られました。皆さん、今日から良い友達になって下さい。では足立君から、自己紹介して下さい」

 予想していたことだが、真如は自己紹介せねばならず、緊張した。

「僕は諏訪の寺の生まれで、この度、『高徳寺』で修業することになりました足立真如です。抹香臭いところがありますが、煙たがらず、よろしくお願いします」

 真如は、ちょっと生徒を笑わせて、奈美子にバトンタッチした。奈美子は深く一礼してから、挨拶した。

「今度、東京から転校して参りました澄川奈美子です。よろしくお願いします。松本の地理についても、この高校の事についても、知らない事ばかりです。その為、時々、失敗したりする事があると思いますが、ご指導の程、よろしくお願い致します」

 彼女の挨拶が終わるとクラスの中は、ちょっと騒がしくなった。生徒の視線が2人に集中した。モジモジしている2人に、小林先生は命令口調で指示した。

「では2人は、あそこの一番後ろの空いている席に座って下さい」

 2人は、小林先生の指示に従い、一番後ろの席に並んで座った。真如の隣りに坐った澄川奈美子は、都会育ちの所為か、真如には明朗で洗練された美人に見えた。ホームルームの時間が終わると、小林先生は教室から出て行った。真如は皆の視線が集まるので、奈美子の横に座っているのが恥ずかしくて、近くの席にいる人の良さそうな男子生徒に声をかけた。

「あのう。ちょっと訊いて良いですか?」

「何?」

「小林先生ってどんな先生ですか?」

「うん。女に甘いが男に厳しい先生だ。悪い事をしたら、トコトン追い詰められるから、気を付けろよ。はははは」

「有難う。ところで、君の名は?」

「山崎厚志。『高徳寺』のこと知ってるよ。君の転校、前から知っていた。俺んちは『高徳寺』の檀家だから」

「そうなの。それは良かった。これから、いろんなこと教えてくれよ」

「うん。分かった」

 真如が山崎厚志と話していると、山崎の仲間の丸山照男と百瀬光平が話に割り込んで来た。丸山照男が、真如をからかった。

「お前、転校早々、あんなに可愛い子を横にして、ラッキーだな」

「そ、そんな」

「何も照れることは無いよ。男なら、誰だってそう思うから」

「丸山。からかうのは止せ」

「だって、そうだろう。なあ、百瀬」

「うんだ。そう思わねえんだったら、俺、席、代わってやろうか」

 真如の級友はそんな風にして直ぐに出来た。そうこうしているうちに1時間目の授業のベルが鳴った。真如は自分の席に戻った。奈美子は、本を読んでいて誰とも話をしない。真如は国語の先生が来るまで、何か話しかけようとしたが、胸がドキドキして話すことが出来なかった。国語の山田博文先生が入って来ると直ぐに授業が始まった。奈美子は国語の教科書を持っていなかった。真如は、それに気づき、ちょっと恥ずかしかったが、彼女と自分の間に国語の教科書を開いて授業を受けた。真如の親切に奈美子は小さな声で、すみませんと言った。真如は嬉しかった。これがきっかけで、真如は、教科書を取り扱っている、市内の『菊池書店』を奈美子に教えたりして、彼女と親しくなった。高校生活はこのようにして順調に始まったが、『高徳寺』での生活には馴染めなかった。住職の足立正典は、兎に角、飲酒中毒で酒癖が悪く、叔母の房子も、それに付き合うから、落ち着いて食事をいただくことが出来なかった。寝起きする部屋は庫裡と廊下で繋がっている土蔵の片隅の暗い部屋で、頭のおかしい従兄の善巧と一緒になので、辛かった。真如はその土蔵で3ヶ月ほど過ごしてから、思い切って正典夫婦に部屋を変えてくれと談判した。

「叔父さん、叔母さん。話があります」

「何じゃ」

「善ちゃんと一緒の部屋では、勉強が出来ません。部屋を変えて下さい」

「何じゃと。今の部屋では不服か?」

「はい。善ちゃんに教科書をいじられたり、寝ている時、頭を叩かれたり、やってられません」

「我慢、出来ぬか?」

「はい。これも修行だと言われるなら、僕は『行願寺』に帰ります」

「困ったなあ」

 正典和尚は途惑い、房子の顔を見た。房子の心配していた事が現実となった。房子は思い切って、夫に言った。

「方丈の間を使わせましょうか」

 すると正典和尚は怒った顔をして妻に言った。

「方丈は大事な住職接見の間じゃ。使わせるわけには行かぬ」

「なら、どうすれば」

 そこで『高徳寺』の建物配置を最近、理解し終えた真如は、2人に提案した。

「本堂の端にある納戸のうちの一つが、以前、副司寮だったのではないでしょうか。そこを片付けさせていただければ、僕の勉強部屋として使用出来ます。あそこの一部を使わせて下さい」

「庫裡から遠いが大丈夫か?」

「刻限を守るように努めますから大丈夫です」

「ようし、分かった。じゃあ、あそこを使え」

 真如は、正典和尚の了解を得て、半年足らずで、自分の部屋を取得した。それからというもの、勉学に励んだ。従兄の善巧は朝晩の鐘撞き、庭掃除だけでなく、寺手伝の川上吾作と寺田で働くなど、懸命に頑張った。『高徳寺』の若者2人は、まるで寒山拾得のようだった。そんなであるから、真如は足立正典和尚に気に入られ、12月末、正典和尚に就いて得度式を行い、髪を剃って仏弟子となった。真如の高校での成績はまあまあだった。地理、歴史については真如が何時もトップクラスだった。物理、数学については百瀬光平には敵わなかった。国語、英語については丸山照男に適わなかった。体育は山崎厚志が抜群だった。それぞれに得意分野を持ち、大学合格に向かって頑張った。真如の高校生活は有意義の内に、あっという間に過ぎ去った。


         〇

 足立真如は高校を卒業すると、兄、広道が卒業した仏教学や歴史学で有名な東京の『卍大学』の仏教学部に入学した。百瀬光平は『S大学』の工学部に入学した。丸山照男は『M大学』の商学部に入学した。山崎厚志は『N体育大学』の体育学部に入学した。高校時代の親友4人組はともに東京で学ぶことになった。女子の澄川奈美子、中村里子たちも東京の大学に進学し、4月末に、新宿で同級会を行ったりして、交流を深めた。『卍大学』に進んだ真如は、三軒茶屋近くの太子堂という町のアパートに間借りして、そこから大学に通った。知つている人のいない街での生活は、何やかや言う人も無く初めのうちは気軽だったが、月日が経つに従い寂しくなった。そんな時、諏訪の実母、道子からの励ましの手紙は、実に愛情深く、真如は、その手紙を何度も読んで、涙をこぼした。このような寂しさは真如だけでは無かった。『N体育大学』に通う、山崎厚志も寂しくなってか、真如の太子堂のアパートに遊びに来た。彼は桜新町近くの寮での生活が厳しくて、息苦しくなると、真如の所に遊びに来るのだった。また『M大学』の丸山照男も互いの時間の都合に合わせて会いに来た。彼は大学生活をぼやいた。

「個人の自由と尊厳に根差す生きた知性と豊かな教養を身につけ、自主独立の執権ある人物を育成する学舎が、大学であるというが、我が大学の先輩たちは、それに向かって励んでいるようには見えん」

「どうして、そうには見えんのだ?」

「大学生の多くは自分の個性を殺されようとしていることを感知していない。大学の卒業証書をもらいさえすれば、社会において、その地位を高く評価されと考えている」

「それは当たり前だろう」

「高い授業料を支払っているのだから、猛勉強すべきなのに、遊んでいる。世間から変な目で見られているのに平然としている。学問への情熱が無い。情けないと思わないか」

 丸山照男はアルバイトをしながら学んでいるので、裕福な家庭の学生が遊んでいるのが、不満みたいだった。だが、苦学生同士の仲間が出来たというから喜ばしいことだ。同様、大学生活に慣れて来ると真如にも『卍大学』での新しい友達が出来た。福島出身の菅野豊明、群馬出身の土屋重徳、静岡出身の伊藤昌紀たちで、全員、仏寺の息子だった。皆、少年時代から体験して来た厳しい仏教の戒律から解放され、大学生活で羽根を伸ばした。真如は学友たちと共に成績を競ったが、麻雀、飲酒、パチンコ、競馬などの遊びにも興じた。諏訪の『行願寺』の実父、北条光晴から、サロンやバーに行くなという手紙を受け取ったが、土屋重徳の誘いで、三軒茶屋のバーに通ったりした。澄川奈美子と交流を深めようとしたが、相手にしてもらえなかった。代わりにアパート近くの『青野食堂』の娘、青野由美に気に入られた。青野由美は明るくて社交的だった。店に来る客たちの誰とでも明るく接した。店内を駆け回り、酔客にも上手に応対し可愛がられた。だが真如の所に料理を運んで来る時は、ドキドキだった。彼女は、おかずを1品、付け足してくれたりして、とても親切だった。『高徳寺』からの送金と母、道子からの小遣いだけの資金で遣り繰りの算段をしていた真如にとって、彼女の計らいは、とても有難かった。いずれにせよ、真如の大学生活は、似た者同士の仏寺の息子たちと共に学び、共に相談しながらの4年間であり、笑い声が絶えなかった。かくして真如は『卍大学』の仏教学部を順調に卒業し、二等教師の資格を得た。


         〇

 足立真如は『卍大学』を卒業すると、一等教師になる為、修行先を選ばなければならなかった。菅野豊明と伊藤昌紀は修行先を福井の僧堂に決めたが、真如と土屋重徳は鶴見の僧堂を選択した。真如が鶴見の僧堂を選択したのは、青野由美と時々、会いたいからだった。だが、修行は、そんな甘いものでは無かった。彼女とデートするなどという余裕など全く無かった。朝、午前4時起きし、昼間はびっしり勤行に追われ、夜は午後9時に就寝せねばならなかった。当番の時などは午前2時半に起床し準備せねばならなかった。鶴見の僧堂での雲水の人数は150名程で、やることが沢山あった。廊下の拭き掃除、食事作り、観光客の案内、鐘撞、座禅、朝のお勤め、読教、只管打座と休む暇なし、『起きて半畳、寝て一畳』の毎日の繰り返しは実に辛かった。振り返れば、『卍大学』での学生時代は、ぬるま湯同然の生活だった。『青野食堂』の娘、青野由美に好かれ、美味しいものを沢山いただいた。なのに鶴見に来てからの食事は玄米と味噌汁と香の物だけ。真如は見る見るうちに瘦せ細った。外出が許されず、実に困った。だが1年も経つと、要領が良くなった。土屋重徳に教えてもらい、外出する方法を知った。実家の寺から法要に列席するよう本人宛の手紙を書いてもらい、それを提示し、外出許可をいただく方法だった。真如は、それを実践してみた。1年間、帰省してなかったので、上司も『高徳寺』の住職からの手紙を見て、真如が希望する4日間の外出許可を与えた。真如は喜び、初日、松本に出かけ、2日目、『高徳寺』の法要に参加し、3日目、川崎駅で青野由美と待ち合わせして、川崎のホテルで1泊し、4日目、鶴見の僧堂に戻ることに成功した。このようにして厳しい修行の2年間を終え、更に僧堂に安居し、次の段階に進もうとした時、義父、足立正典が病で倒れた。真如は鶴見の僧堂での修行の続行を諦め、『高徳寺』に帰り、侍者の座に就くことにした。


         〇

 真如が戻った『高徳寺』は高校時代と大きく変化していた。土蔵にいた知能の足りない善巧は数年前、長野の施設に入って、寺にいなくなっていた。その為、寺の手伝いが川上吾作の他に1人加わっていた。奥原伊助といって、美ヶ原の方から手伝いに来ている男だった。また義父の住職、正典和尚は『高徳寺』にはおらず、松本市内の病院に入院中だった。『高徳寺』の檀家の葬儀や追善供養などの法事については、同じ市内の『長光寺』の松井寿海和尚が代行してくれていた。変わらぬのは本堂前の枝垂桜の薄紅色だった。真如が鶴見の僧堂での修行を終えて、戻つて来たのを喜んでくれたのは、この桜と義母の房子だった。房子は修行を終えて戻った真如に期待した。真如は真如で、義母の房子と2人で、『高徳寺』を守って行かなければならないのだと覚悟した。多少の不安があったが、鶴見の僧堂での修行経験は真如の心の中で大きな自信となっていた。真如は病院のベットで寝ている正典和尚に自分の成長した姿を見てもらおうと、房子と市内の病院に行った。

「本山での修行を終え、只今、戻りました」

 そう真如が言うと、正典和尚はニコッと笑った。

「おおっ、真如。よく帰って来てくれた。おめでとう」

「ありがとう御座います」

「ところで、お前は修行中、生まれて気が付いたら、寺の子供として生まれていたことに後悔しなかったか。自分で選んだ道ではないのに、何故、こんな厳しい道を進まねばならぬのか疑問に思わなかったか?」

「思いましたが、修行により、生きとして生けるものに、仕合せを与える事が、自分の生まれて来た境遇であり、これから進む道だと悟りました」

「そうか。それを訊いて、私も安心した。その道は厳しいが、苦を忍び生きよ。苦を忍び進め」

 正典和尚は真如に、そう伝えると、目に涙を滲ませた。それを見て房子は病室の外に逃げ出して泣いた。真如は溢れ出ようとする涙を、じっと堪えた。兎に角、正典和尚は真如の入山を喜んでくれた。次は青野由美との交際の進展をどうするかだった。厳しい修行から解放された真如は、東京と長野を行き来し、青野由美とデートを重ねた。結婚について、種々、話し合った。2人が共有する結婚への願望は、会うたびに高まった。或る日、真如は、思い切って青野由美と結婚したいと、義母、房子に伝えた。

「お母さん。お母さんにお願いしたいことがあります」

「何ですか?改まって」

「実は僕には結婚したい人がいます。大学生時代から付き合っている東京の人です」

「東京の人?」

「はい。学生時代、お世話になった食堂の娘さんです」

「まあっ」

 房子は真如から突然、結婚の話を切り出されてビックリした。自分たち夫婦が守る足立家は数代続いて来ている寺院の住職の家系を保ち、格式を重んじる地方の名家である。なのに何を血迷ったか、東京の食堂の娘を嫁にしたいとは。昵懇の関係にある『長光寺』の松井家のお嬢さんとの縁談の話があるのに、何ていうことを。戸惑う房子に真如は更に語った。

「彼女は、僕と同じ歳で、明朗で心の優しい働き者です。どうか僕たちの結婚に賛成し、結婚式を挙げさせて下さい」

「そんなこと、突然、言われても私には判断出来ません。東京の娘さんが、本当に田舎の山寺の嫁に来てくれるのですか。娘さんの親御さんは仏門に嫁がせることを反対していると思いますよ。私には判断出来ません」

「お母さんは僕の結婚に反対ですか?」

「お前が本気になったとしても、相手の親御さんが許さないでしょう」

「本人同士が、その気になっているのですから、僕たちの結婚に賛成して下さい」

 真如は懸命に房子を説得した。房子は房子で、東京の一般の娘を寺院の嫁にすることへの障害と不利益について並べ立て、檀家からの了解もいただかないと、簡単に、結婚を許可出来ないと答えた。だが真如に執拗に迫られると、房子は、こう答えて、話を終わりにした。

「真ちゃんの希望は分かりました。2人の結婚の話は、病院にいるお父さんにも話しておきます。仮に結婚が許されても、正式に結婚するのは、お父さんが退院して、『行願寺』の両親や他のお寺さんの了解を得てからですよ」

 総て、夫、正典和尚が退院してからの関係先との話合いが終わってからにとどめた。真如は房子から確かな賛成を得られなかったが、青野由美との結婚について打明けて、すっきりした気持ちになった。そして5月の連休には、由美を松本に呼び寄せ、房子と入院中の正典和尚に会わせ、その後、諏訪の『行願寺』にも挨拶に行こうと計画した。


         〇

 5月になる寸前、真如は青野由美を連れて、正典和尚の入院している病院に見舞いに行く計画をしたが、正典和尚の病状が悪化し、それどころでは無くなった。病院からの連絡で、房子と真如が病院に駆けつけると、正典和尚は肝臓癌に侵され、医者からも見放されて、もう虫の息だった。真如は房子と正典和尚の枕元に歩み寄って、苦しみに耐えている正典和尚の顔を覗き込んだ。房子が夫に言った。

「お父さん。房子です。真如も一緒です。分かりますか?」

 すると正典和尚は、閉じていた目を半開きにして、苦しそうな声で答えた。

「おお、房子か。わしは最早、余命幾許も無い。御仏の導きにより無為の世界に参る」

「そ、そんな。真如も来ていますよ」

「おお、真如。良く来てくれた。こっち、こっちにおいで。後の事はお前に頼んだぞ。良いな。頼んだぞ」

 正典和尚は息も切れ切れに、そう言ったかと思うと目を閉じた。真如は静かに義父、正典和尚の右手を握った。

「任せて下さい」

 真如の言葉を聞くと、正典和尚は安心したのか、もう一言、何か言った。

「何ですか、お父さん」

「ふさこ」

 そう聞こえた気がした。それが正典和尚の最後の言葉だった。病院の医師は、腕時計を見て、正典和尚の臨終を告げた。それからが大変だった。『行願寺』や『長光寺』などに連絡を取り、正典和尚の葬儀の打合せを行った。本葬儀は、6月初め、白雪の残る穂高岳、槍ヶ岳、常念岳などが見える『高徳寺』で執り行われた。本葬儀には関係寺院の僧侶や檀家の人々、故人の友人などが集まり盛大な葬儀となった。真如は、房子と共に本葬儀式次第に従って行動した。

:午前10時、打ち出し

 殿上三会、七下鐘仏事師上殿

:開会の辞

 鼓鈸三通

:奠湯仏事

:奠茶仏事

:秉炬仏事

:弔辞

 大本山御専使

 長野県宗務所長

 長野県総和会会長

 檀信徒代表

 学友代表

 人権擁護委員協議会会長

 法務局表彰

:弔電披露

:遺弟謝辞

:山頭念誦・遺弟謝拝

:読経・宝鏡三昧

 会葬者焼香

:回向

:鼓鈸三通

:仏事師退堂

:閉会の辞

 こうして本葬儀が終わると、真如は精進落としの接待等で大変だったが、実父、北条光晴の指導の下、無事、遺弟の役を果たすことが出来て、ほっとした。総ての行事が終了し、諸寺の方丈や親族、参列者の人たちが去ると、房子と真如は、酒飲みであったが、優しかった正典和尚のことを思い出し、手を取り合って泣いた。これからは2人で寺を守って行かねばならない。結果、真如と青野由美の結婚の話は、1年間、延期となってしまった。


         〇

 真如は、結婚話を延期したことにより、青野由美の考えが変わるのではないかと、心配で心配でならなかった。そこで真如は、房子の了解を得て、6月中旬、紫陽花が満開に咲く『高徳寺』での仕事を休み、東京に出かけた。房子は、その日の午後、真如がいない隙に副司寮の真如の部屋に忍び込んで、真如の生活ぶりを調べた。真如の部屋は、修行で整理、清掃、清潔が身に着いたのであろう、驚く程、きちんと整理整頓されていた。書棚には歴史や仏教に関する書物が、びっしり並び、壁には寒山拾得の絵や風外禅師の『布袋図』などが飾られていた。机の引出しを開けると、左の引出しはボールペンや鉛筆、消しゴム、印鑑、ホッチキスなどの文房具でいっぱいだった。右側の引出しにはレポート用紙やファイルなどが詰まっていて、その下に、手紙がいくつかあった。房子は、その手紙の中に、真如が結婚したいと言っていた青野由美からの封書を見つけた。その封筒を開けると、ラブレターと一緒に数枚の写真が入っていた。由美の愛嬌のある笑顔は真如が言うように明朗で健康的で可愛かった。真如と2人並んだショット写真もあった。房子は、そのショット写真を見て、何故か写真の彼女に嫉妬のようなものを覚えた。房子は写真を見た後、ラブレターを読み終えると、ラブレーターと写真を封筒の中に入れ、そっと元の引出しの底に戻した。房子は若者の本能的な欲求を感知し性的興奮を覚えた。今頃、真如は何をしているのかしら。そんなことを考えていると何時の間にか夕方になっていた。5時半になると、手伝いの奥原伊助が夕刻の鐘を撞いて帰って行った。房子は夕食の支度を始めた。夫、正典のことが思い出された。2人で夕月を眺めながら酒を酌み交わし、酔っぱらって過ごした日々が懐かしい。だが今は1人ぼっち。紫陽花の紫色が霞む夕暮れ、カエルが裏の墓地で啼いている。川上吾作は、まだ帰って来ない。どうしているのか。早く帰って来て欲しい。その吾作は、長い下刈り鎌を担ぎ、腰弁当を鳴らしながら、『高徳寺』の裏山から、『高徳寺』の庫裡に向かっていた。見下ろす寺院は青い霧のように紫陽花の花の香を匂わせ、うすぼんやりと庫裡の電灯を灯していた。寺に近づくにつれ、小道の脇の石塔や地蔵や植木が黒い人影のように現れ、青草が揺れて、ザワザワ音を立てた。不気味ではあったが、吾作には山寺の裏手から流れて来る谷川のせせらぎの音のようなものだった。山門に辿り着くと、流石に疲れた。肩に担いでいた下刈り鎌を石段の上に置くと、ジャリーンという音が響いた。吾作は冷たい石段の上に腰かけ、夕月を見上げた。

「早く帰らなくっちゃあ」

 吾作は下刈り鎌を拾い上げ、立ち上がると、蓮池の脇を通り、かって寺坊主の善巧がいた土蔵に行き、中に入り、下刈り鎌を納めた。それから月光を浴びて薄青く色を変えている紫陽花の庭を通り、電灯の点いている庫裡の入口に立ち、中にいる房子に声をかけた。

「房子さん。今、帰りました」

 吾作の声は、本堂に立つ不動の仏像の誰かが発したかのように、低い声だった。呼ばれた房子は何の返答もしなかった。音もなく庫裡の板戸を開けて、すうっと顔を覗かせた。吾作は腰に巻いていた弁当箱を解いて、房子に差し出しながら言った。

「ご馳走さまでした。今日は谷川の所までの下刈りを終えました。明日は、樅ノ木の所まで、進める予定です」

 目をギョロつかせて説明する吾作を見て、房子は微笑した。

「そう。ご苦労様。疲れたでしょう。お上がりなさいな」

「いや。帰らしてもらいます。かかあや餓鬼めらが待ってますから」

「良いじゃあないの。さっ。遠慮なく上がりなさいな。あんたが疲れて帰って来ると思ったから、お酒や料理を用意していたんだから、ねえ、吾作さん」

 房子は、そう言って、流し目を送った。房子の流し目と猫なで声を聞いて、吾作はグラッと来た。庫裡に入るのに躊躇したが、酒好きの吾作は誘惑に負けた。

「では、房子さん、ちょっとだけいただきます」

 吾作は、作業服を外でパタパタしてから、庫裡に入り、板の間に上がった。そこの円形のちゃぶ台の上には、既に酒や肴や夕食の支度が済んで、直ぐにでも飲食が出来るようになっていた。吾作が席につくと、房子は吾作と自分のお猪口に酒を注ぎながら言った。

「今日は真如が東京に出かけて遅くなるので、1人で食事をするのが寂しいから」

「そうでしょうな。方丈さんがいた時は、小松雄一町長や田中良平組合長がやって来て、夕べは賑やかでしたからね」

「そうよねえ。でも今夜は寂しくないわ。あんたと2人っきりだから」

 房子は仕事帰りの汗臭い吾作の身体に、自分の身体を摺り寄せ、御酌をした。吾作は『高徳寺』の未亡人に酒を勧められ、良い気分になった。酔いのまわった吾作は酒以外のものにも酔わされた。房子に膝を撫でられ、思わぬところが、むっくり起き上がって、どうしたら良いのか分からなくなった。吾作は身体をこわばらせた。

「房子さん」

 吾作は、未亡人の名前を呼んだかと思うと、房子に襲い掛かった。吾作は房子を押し倒すと房子の着物の裾をまさぐり、その奥に手を入れようとした。それを制止しようと房子はもがく格好をしながら、吾作に絡みつき、小さな声で言った。

「吾作さん。良いのよ。思い切って」

 その言葉に吾作は興奮した。房子の和服の裾は乱れ、その下に隠されていた下着が露わになると、吾作は、その下着を剥ぎ取り、房子を全裸にした。房子の股を大きく開かせると、そこに強引に押し入った。すると、静かだった寺院の中に喘ぎ声と狂ったような笑い声が起こった。その声は主に女の享楽の叫び声だった。その異様な声に寺院が揺れて、庫裡と方丈の間の帯戸と帯戸の間がかすかに開いたみたいだった。中年過ぎの油の乗り切った2人には、辺りの事など気にせず、真っ裸で寺院の一室でもつれ合った。夫を亡くして間もない寺院の未亡人と薄汚い寺手伝いは、酒によって、欲望と悪徳の海に誘引され、夜遅くまで濡れ合って別れた。庫裡と方丈の間の帯戸と帯戸の隙間は、何時の間にか、ぴったり閉まっていた。


         〇

 『高徳院』の正典和尚の本葬儀が終わって、真如が落ち着いたのを見計らって、高校時代の親友、山崎厚志から、電話があった。久しぶりに、高校時代の仲間と市内の喫茶店『散歩道』で会わないかという誘いだった。真如は懐かしくて、直ぐに快諾した。午後3時過ぎ、『散歩道』のドアを開けると山崎厚志が真如を見つけて、手招きした。山崎の座るボックス席に行くと、斎藤健一と高山義行が笑顔で迎えた。

「やあ、しばらく」

「足立、変わらないな」

「おおっ、斎藤と高山。久しぶり」

 4人は顔を合わせると、直ぐ高校時代の気分になった。高校時代のいろんな事が思い出された。山崎厚志とは、大学生時代に都内で会っていたので、余り変化を感じなかったが、6年ぶりに会う斎藤と高山は随分、変わっていた。3人とも頭の髪を伸ばし、おやじっぽく様子が変わっていたが、真如だけが丸坊主頭で、高校時代のままだった。山崎厚志は『N体育大学』を卒業し、故郷に戻り、松本市内の高校で体育教師をしているという。斎藤健一は高校卒業後、農協に勤め、ベテラン職員になっているという。高山義行は、高校卒業後、安曇野のワサビ園で働いているという。山崎の話では、『M大学』の商学部を卒業した丸山照男は東京の商社に勤め、『S大学』の工学部を卒業した百瀬光平は横浜の機械メーカーに勤めているという情報だった。

「丸山と百瀬は田舎は嫌だからと言っていたからなあ」

 斎藤と高山は丸山と百瀬の悪口を言ったが、向学心に燃えて、都会に行き、そこで就職先を見つけ、都会に居ついてしまった丸山と百瀬を、真如は非難することが出来なかった。喫茶店『散歩道』での情報交換が終わると、真如は斎藤健一の馴染みのスナック『カレン』に連れて行かれた。斎藤が農協の接待で利用している馴染みの店だという。そこの店で山崎は石原裕次郎のカラオケの歌を唄って楽しみ、高山は高山で隣りに座った夏美という女の手を握って口説き、真如は斎藤と百合子ママと話した。百合子ママは正典和尚が逝去し、結婚が延期になった真如を慰めた。

「悲しんでばかりいては人は生きて行けないの。時々、美味しい酒を、ここに飲みにいらっしゃい」

「はい」

 真如はそんな百合子ママの話に相槌を打った。そして夜遅く、かなり酔って、『高徳寺』に帰った。『高徳寺』の庭の紫陽花の花は月下に白く煙って眠っているようだった。真如は山門を潜ると、禅堂の前を通り、房子の寝ている隠寮の部屋と正反対側にある副司寮の部屋に黒い風のように、すうっと入った。風呂に入らず、そのまま布団に寝転がったが、直ぐに眠ることが出来なかった。目を瞑っても百合子ママの妖艶な笑みが頭から離れなかった。

「時々、美味しい酒を、ここに飲みにいらっしゃい」

 百合子ママの言う通りかもしれない。酒を飲めば憂鬱な仏院の呪縛から解き放たれるのかもしれない。だから、先住の正典和尚も大酒呑みだったのかも。そんなことを考え、真っ暗な部屋で瞑目していると、ミシリミシリと足音が自分の寝ている部屋に近づいて来る音がした。真如は耳を澄まし、人の気配を感じ、恐怖を覚えた。まさか裏の墓地からの幽霊ではあるまい。すると部屋の外から、女の声がした。

「真ちゃん。遅かったわね」

 それは庫裡の隣りの隠寮で寝ている筈の房子の声だった。こんな深夜に何故、本堂内のあの長い廊下を通ってここに。真如は寝ている振りをして返事をしなかった。すると部屋の板戸が、すうっと開いた。

「真ちゃん、入るわよ」

 真如は、びっくりして起き上がった。暗闇で、自分を見詰める女の眼光を直視し、ぞっとした。本当に義母の房子なのか?房子は真如の目をさぐるように、じっと見続け、目を離さなかった。真如は怖くなった。こんなことって初めてだ。房子は、寝床の前に坐ると、怯えている真如の白い手を白い手で引き寄せた。真如は蒼ざめた。彼女は真如の瞳の裏側まで覗き込むようにして言った。

「お前、見たのかい?」

「な、何のことです」

「とぼけないで。見たのでしょ」

「何をです?」

 房子は真如の手を握り締めた。

「私と吾作の事ですよ」

 そう言うと、房子は、突然、真如に襲いかかって来た。真如は義母に対して、何か言おうとしたが、口がもつれて、言葉にならなかった。房子は今日も、吾作と絡み合ったに違いなかった。真如は、思わぬ房子の行動に震え慄いた。房子は酔っているようだった。真如の着物の裾を掻き分け、真如の下の物を舐め回した。真如は声を押し殺して我慢していたが、堪え切れなくなった。

「止めて下さい」

 だが房子は止めようとしない。胸をはだけ、自らの手で、真如の手を胸にあてがい、乳房を撫でさせ愛撫を求めた。初め、真如は、じっとしていたが、房子の執拗な求めに応じ、下から房子の乳房を撫で、乳房を吸った。まるで、乳を欲する赤子のように。真如の対応に房子は歓喜した。真如との行為は亡き夫との行為でも、吾作との延長戦でも、村の百姓たちとの交渉でも無く、房子にとって新鮮そのものだった。義息、真如と交合しているのだと思うと、その異常さに身体の芯が熱く激しく燃えた。このような快楽が、この世にあろうか。一方、真如は真如で房子との房事に溺れ、彷徨った。この行為に没入している自分の正体は獣ではないのか。仏門で悟性を磨いて来たが、この衝動的欲望は一体、何なのか。近親相姦では、無いのか。これ以上、進めば自分は地獄に落ちるのではないだろうか。真如は躊躇した。だが房子の燃える坩堝は、それを許さなかった。房子は燃えに燃えた。自分の燃えた坩堝に真如の燃えた丸太を入れようとした。豊満な房子の肉体は、その連結を実現させようと大きくうねり、荒れ狂う波のように咆哮をあげ、真如にゆさぶりをかけた。真如は、その荒波の中を夢中になって泳いだ。荒れ狂ううねりの波から逃れようとした。だが荒れた海は渦を造り、獲物を呑み込もうと真如を引きずり込んだ。真如と激しくせめぎ合い、真如が保有する精力の総てを吸い込もうとするかの勢いだった。真如は狂った母に挑戦した。その挑戦は始原的闘争心となって生きる勇気と歓びを与えた。真如は母親の肉体の中に毒蛇のように牙をむいた自分の物を喰い込ませ、その先から毒液を噴射させ、攻撃した。恐ろしい一瞬だった。かくして彼の物は母に食い込み、母に締め付けられ、母と繋がり、母子の肉体は一体になり、総ての精力を使い果たし、互いに忘我状態に陥った。叔母と甥の接合。それは、あってはならぬ姿だった。だがその禁断の行為の中に房子は昔の若さを取り戻したような自己を獲得した。房子は満足した。そして若き日を偲ぶかのように、真如の体臭を嗅いだ。余りにも理不尽すぎる。真如は房子を憎んだ。満足して隠寮に帰って行く房子を見送り、真如は頭をかかえた。房子は満足して本堂の深閑とした長い廊下をゆっくりと隠寮に向かう自分を、深夜の月が、高窓から観察しているのを見上げて、微笑んだ。


         〇

 翌朝、房子は目が覚めるや否や、真如の様子を窺った。真如は昨夜、遅かったのに、朝5時に起き、本堂に行き、御本尊、釈迦牟尼仏の正面に座り、金属と木製の2つの棒を手にして、磬鈴と木魚を鳴らし、読経を行っていた。その読経を聞き、房子は安心し、着物を整え、庫裡に行った。真如の朝の読経が終わる頃、寺手伝いの奥原伊助がやって来て、朝6時の鐘を撞いた。それから真如も一緒に庭掃除を手伝い、朝の食事。真如は俯いて朝粥を口に運び、房子の顔を見ようとしなかった。だが元気なので房子は安心した。目をそらせているが恥ずかしいに違いない。それは房子の甘い考えだった。真如は昨夜、義母の房子の罠にすっぽり嵌められたことを後悔していた。甘美な陶酔の後の義母への愛着と憎悪の混濁した感情の中で苦悩していた。真如は午前中、写経を行い、正午に日中読経を行い、午後、寺手伝いの吾作と伊助と一緒に寺田を回り、午後4時、寺に戻り、読経を行い、夕方5時半、伊助と夕方の鐘を撞き、その後、外出することにした。

「お母さん。今日も斎藤たちとの集まりがあるので、晩課諷経をお願いします。ちょっと遅くなります」

「まあっ。今日もですか」

「同窓会の打合せがありまして」

「落ち着かないわね。気を付けて行ってらっしゃい」

 真如は房子の了解を得て、松本市内へ出かけた。行くところは1ヶ所しか無かった。そこは農協に勤める斎藤健一の馴染みのスナック『カレン』だった。真如は夕方6時半過ぎ、駅前のラーメン屋に入り、豚骨ラーメンを食べた。お客に声をかけられ対応する女性店員の姿を見て、青野由美を思い出した。元気でいるだろうか。ラーメンを食べて、腹ごしらえを終えると、真如は店を開けたばかりの『カレン』に行った。昨日、初めて会った真如を見て、百合子ママが、びっくりした。

「まあっ、足立さん。お早い事。健ちゃんと待ち合わせ」

「いや。今日は俺、1人」

「まあっ」

「悲しんでばかりいては駄目だって、昨日、ママが言ったろう。だから、美味しい酒を飲みに来た」

「まあっ、嬉しい。早速、来ていただいたなんて。それじゃ、足立さんの悲しみを吹き飛ばして上げなくちゃあね」

 百合子ママはそう言うと、1番客の真如をカウンター席の片隅に座らせ、おしぼりを差し出して、訊いた。

「何にします。ウィスキーで良かったら、健ちゃんのをいただきましょう」

「そんなことして良いのですか?」

「親友なんでしょ。構わないわ。ところで、悲しい事って何なの?」

 百合子ママに初っ端から切り出され、真如は焦った。どう説明すれば良いのか。真剣な顔をされても困る。真如は適当に答えた。

「うん、まあね。言ってみれば、豹変する人間の感情、悲しさといったところかな」

「まあっ。結婚が延期になって、婚約者が結婚破棄でも言い出したの」

「いや。そうじゃあ無いです」

「なら何なの?」

「言い辛いなあ」

 真如が、モタモタしている所へ、客を2人連れて横山夏美が店に入って来た。夏美はボックス席に2人を座らせると、真如に軽く頭を下げた。百合子ママは真如より、客の方が気になったらしく、カウンターの奥で、おつまみなどを準備していた山本久美に声をかけた。

「久美ちゃん。こちら、足立さん。お願いね」

「はい」

 久美は、まだあどけなさの残る可愛い女の子だった。どう見ても成人女性に見えなかった。店は百合子ママの他、夏美、幸子、光枝、久美といったホステスで構成されているが、久美以外は皆、男慣れした艶美な雰囲気をちらつかせていた。月曜日なのに飲みに来る客がいて、店の中は適度に賑やかだった。真如の推測通り、久美はおつまみを出しただけで、会話が下手だった。そこで、こちらから聞いた。

「久美ちゃん。大学生?」

「そう見えますか?」

「うん。純真な女学生っぽく見えるから、そうだろうと思って」

「実は私、まだ高校生なんです。アルバイトです」

「本当なの?」

「ええ、そうなの。でも内緒」

 久美は屈託なく笑って答えた。明るい向日葵のような少女だった。真如は東京でも、年齢を偽って、夜の風俗店でアルバイトをしている女子高校生たちを見て来たので、余り気にしなかったが、何となく事情を知りたかった。

「親に内緒でアルバイトをしているの?」

「お母さんも知ってるわ。私の家は親が離婚し、今、お母さんと弟の3人で暮らしているの。母子家庭なの。だから私たち姉弟を扶養してくれているお母さんを助ける為、アルバイトしてるの」

「そうなんだ。偉いね」

「弟も中学生なのに、高校生だと偽って、ラーメン屋でアルバイトしてるわ」

「お母さんは何か仕事をしているの?」

「病院の看護師。お父さんは日本にいないみたい」

「日本にいないって」

「東京で知り合ったフィリピンの女とフィリピンに行ったらしいの。音信不通なの」

 真如は山本久美の家庭の事情を知り、気の毒に思った。そこで生意気なことを言った。

「久美ちゃん。苦労は買ってでもしろと、昔の人が言ったが、若い時の苦労は、必ず後になって役立つから、頑張ろう。久美ちゃんの話を聞いて、俺も頑張るから、久美ちゃん、何か飲めよ」

「じゃあ、オレンジジュースをいただくわ」

 真如と久美の会話が順調に進んでいるようなので、百合子ママは安心した。斎藤健一が現れるのではないかと、思ったりしたが、健一は現れなかった。会話する真如の優しさに久美は喜びを感じた。今までは訊かれ役だったが、訊き役に回った。

「ところで足立さん。松本には出張ですか」

「いや。東京へ6年間、行っていたが、この春、戻って来た。しかし、バタバタしていて、故郷の自然の良さに触れていないのが残念だ」

「それは勿体ないわね」

「上高地辺りに行きたいのだが、その暇が無くてね」

「なら私、良い所、教えてあげる。今度の日曜日、私、アルバイト休みだから、付き合って上げる」

「本当かい。日曜日の日中は駄目だけど、夕方でも良いかい?」

「良いわよ。では薄川の見晴橋の道祖神の所で夕方、6時」

「うん、分かった」

「指切りげんまん」

 久美が細い指を絡めて来た。その様子を横目で見ていた百合子ママが、客席から立ち上がって、真如の所へやって来た。

「久美ちゃんのお陰で悲しいこと吹き飛んだみたいね」

「うん、まあね。じゃあ、ママ、精算して」

 真如は、そう言って、カウンター席から立ち上がると、入口のレジで、精算し、『カレン』を出た。店を出てから後を振り返ると久美が、手を振っていた。真如は今日も、ほろ酔い気分で『高徳寺』に戻った。副司寮の部屋に入り、寝床で仰向けになり、別れて来た山本久美のことを思った。彼女はまだ若い。最後に一人ぼっちになることを知らない。生活は苦しくとも何と幸福なことだろう。今を精一杯、生きている。ところで薄川の見晴橋とは何処だったっけ。暗い部屋の中で、高校生時代、草野球をした河原での記憶を辿った。すると、この部屋の方へミシリミシリと近づいて来る足音が聞こえた。真如は、ソッとした。事態を想定して逃げ出そうかと思ったが、入口は一つ。恐怖が足元から全身に這い上がって血の気が引いた。

「真ちゃん。入るわよ」

 そう言うと相手は、身体をこわばらせている真如の横に滑り込んで来た。真如は諦めた。何故、叔母に毎夜、凌辱されなければならないのか。

「止めて下さい」

「良いじゃあないか。これがお父さんと同じ、住職の務めなのですから」

 房子はそう言って微笑し、真如の身体をさぐり、パンツの中に手を入れて来た。色気違いだ。義母、房子は異常だ。義父、正典和尚が死んだのは、和尚が大酒呑みだったばかりでなく、朝も夜も、魔性の房子に奉仕させられていたからに相違ない。真如はその魔性の房子が自分の上に覆い被さって来たので、恐る恐る房子の顔を仰いだ。その顔は唇の紅い淫蕩な雌猫の顔だった。両目を見開き、じいっと誘惑に引き込まれて行く真如を見据えて、まるで別人のようだった。真如は何時の間にか房子に裸にされ、快楽を求める房子にもみくちゃにされ、自分もその波に乗り、上になったり、下になったり、絡み合っていた。こんな勤行の毎日が、これからずっと続くのか。仏道に仕える者が、このような半獣生活を繰り返していて良いものか。近親相姦が許されるのか。自分はこの魔性の母を寺から放り出すことが出来るであろうか。それとも放り出されるのは自分の方か。負けてなるものか。真如は途中から反撃に出た。毒蛇という逞しい武器を使って、魔性の女の穴に首を突っ込ませた。憎しみを込め、頭突きの突撃を何度も何度も加えて、相手が悲鳴を上げるまで攻め立てた。

「ああ、真ちゃん。そんなことしたら、お母さん、死んじゃうよ」

「そうして下さい。すっきりしますから」

 真如は容赦なく攻め立てた。房子はこの上ない悦楽を得て、卒倒した。そして、そのまま真如の布団の上に横たわったまま寝込んでしまった。真如は仕方なく、座布団を敷いて、その横で眠った。


         〇

 次の日曜日、足立真如は手伝いの奥原伊助が夕刻の鐘を撞き終わると同時に、寺を出て、女子高校生の山本久美と約束した薄川の見晴橋へと向かった。真如は薄川の堤防を歩きながら、背後に美ヶ原、前方に北アルプスの山々を眺める河原の風景に感動した。見晴橋に辿り着くと、橋の渡口に手を取り合う男女の道祖神が待ち受けていて、ロマンチックだった。約束したのに久美の姿は辺りに見えなかった。そこで真如は河原に降り、深い薄の原の中に一人、ぽつねんと坐り、信州の風景を眺めた。真如の坐る薄の原の所々に、黄色い月見草の花が、さながら蝶のように、ヒラヒラしていた。真如は川の中で魚が跳ね上がり、川面を飛ぶ昆虫を捕らえて、また水中に戻るのを見て、驚いた。薄の河原は涼しかった。真如は静かな水辺に寄って、水面に映る自分の顔に向かって呟いてみた。

「近親相姦。それは異常な行為なのか。人間として自分や母は異常なのか。精神的に狂っているのだろうか。夜な夜な母子が交渉を持つ。それは、あってはならぬ奇異なるものなのか。水に映る男よ。お前は、どう考える。母親との毎夜の営みは異常なのか。野生動物や家畜類の近親相姦は許容されながら、人間の近親相姦は許されぬ事なのか。近親相姦などという禁断の定め事は人間が考案したもので、お前は、それを愚かしい定めだと言いたいだろうが、お前には、それを論破する証しと自信があるか。お前は最早、赤子では無い。多くの修行を重ねた唯我独尊の僧侶だ。母親の肉体から切断されて、自主独立した1個人の存在だ。その1個人が、再び、母親の肉体の中に回帰する行為。それは余りにも異常ではないか。そう思わないか。お前は、そう感じないか。お前は離脱した筈の母の肉体の内に自分の生命が再び存在しようとすることを異常と思わないか。母の肉体の中に戻った生命に自我を見出すことが出来るか。ただお前は、母性という複雑怪奇な欲望に振り回され、夢中にされてしまっているのではないのか。動物的官能に引きずられて、母親との淫行を楽しんでいるのではないのか。人間性を忘れ、野獣性を優先し、母親と一体となり、享楽に耽っているのではないのか。母親はお前を抱き寄せ母になり、お前は母親に侵入し、胎児となる。お前は、それを生きる歓びと感じているのか。女体に帰る事ばかり考え、人間の極点美である往生を希求しないで良いのか。それでお前は満足出来るのか。我を忘れて、母との行為に没頭する。母の源泉に没入する。それは余りにも異常だ。余りにも・・・」

 真如は、水面に映る自分の顔に向かって綿々と呟いた。その瞳は青くうるんで涙のようなものが水面に落ちたりした。呟き終わると、彼は薄の原に寝そべった。川風が冷たかった。真如は、夕空を見上げ、今度は島崎藤村の詩を呟いた。

〈 昨日またかくてありけり

  今日もまたかくてありなむ

  この命なにを齷齪

  明日をのみ思いわづらふ 〉

 そこへ、少女の歌声が聞こえて来た。彼女は男子生徒でもないのに、『高校三年生』の歌を唄って近づいて来た。山本久美だった。真如は、むっくりと起き上がった。そして堤防の上に登ろうと堤防の石垣に触れた。堤防の石垣の石は、日中に太陽から受けた熱の温かさを、まだ保持していた。真如は、その石の温かさに、毎夜、毎夜、頬擦りし、接吻し、探り続けて来た母、房子の乳房の感触を思い出しながら、堤防の上に這い上がった。

「やあ、待っていたよ。来ないのかと心配したよ」

「ごめんなさい。買い物して来たので、遅くなっちゃった」

「久美ちゃんの言う通り、ここは素晴らしい所だね。北アルプスの山々が綺麗だし、美ヶ原からの川の流れが優しく聞こえ、空気が澄んでいて」

「そうでしょう。川に降りてみましょうよ」

「うん」

 真如は、先程まで降りて寝そべっていた河原に、久美と一緒に降りた。月見草の花が、こっちよこっちよと久美に手招きをしていた。久美は薄の河原を、どんどん見晴橋から上流に進んだ。真如は、はしゃぐ彼女の後を追った。見晴橋が遠くなってから、久美は草叢にしゃがんで言った。

「ここなら、誰にも気づかれないわ。座って。レジャーシートを敷くから」

「うん。手際、良いんだな」

「ええ。ここは私たち家族がピクニック遊びしてた所なの。お父さんがいる頃ね」

「そうなんだ。ジャムパンとバナナと牛乳を買って来たから、いただきましょう」

 先日の久美と違って、今日の久美は、スナックでの接客仕事で無い所為か、自分から積極的に話した。2人は、まだ白雪の残る北アルプスの山々を眺めながら、パンを頬張り、会話した。

「先ほど、『高校三年生』の歌を唄ってたけど、古い歌、知っているんだね」

「だって、私、高校三年生だから」

「ああ、そうか」

「私、高校卒業して大学に行きたかったんだけど、就職することにしたの」

「大学に行きたいのなら、挑戦すれば良いじゃあないか」

「お母さんに迷惑をかけるから諦めたわ」

 弟のことを思っての久美の決断に相違なかった。貧困の為に自分の希望を捨て、弟に献身する。その気持ちが分からないでは無かったが、高校時代の級友、丸山照男のように、アルバイトをしながら、大学を卒業する方法だってある。真如は、東京の大学に合格すれば、アルバイトをしながら卒業出来ると、久美にアドバイスした。久美は真如の無責任なアドバイスに希望を持った。

「ありがとう。私、挑戦してみるわ」

 そう言って、久美は嬉しそうにバナナを食べながら真如に凭れかかって来た。女子高校生に凭れかかられ、真如はドキドキした。久美は遠くの山を見詰めながら質問した。

「足立さんが帰った後、足立さんの、悲しいことって何だか分かったかって、百合子ママに訊かれたわ。分からなかったと言ったら、お坊さんだからでしょうと百合子ママは私に言ったわ。足立さんはお坊さんだったのね」

「うん」

「でも、あの日の足立さんは、陰気でも怖くも暗くも無かった。苦しんでいるなんて見えなかった。久美ちゃん、頑張ろうと言ってくれた。嬉しかったわ」

 久美は、そう言って手を握って来た。その刹那、真如の身体の中に電流のようなものが走った。雲間から顔を覗かせた月の悪戯か、白い花のように久美の顔が笑った。そこには明るい少女の愛しさが溢れ出ていた。真如は堪え切れなかった。久美ににじり寄り、久美を抱き寄せた。久美はぐらりと崩れ、真如の腕の中で抱かれながらもがいた。

「止めて。足立さん、お坊さんでしょう」

「坊さんが、何故、いけないんだ。坊さんだって、好きな女性が傍にいたら、抱きたくなるよ」

「そんな」

「良いだろう。久美ちゃんのこと好きなんだから」

「いけないわ。ママが言っていたわ。足立さん、豹変する人間の感情に悩んでいるのだって」

「そうさ。俺は惚れた女性を目にすると豹変するんだ」

「まあっ」

「この一瞬の愛の為に、命が終わっても構わない」

「何だか怖いわ」

「怖くなど無いさ」

 真如は、そう言って、久美を押し倒し、襲いかかった。久美は抵抗したが、真如は跳ね上がる魚を押さえつけるように、渾身の力で久美を押さえつけた。猛然と硬さを増す男の武器を燃え上がらせると、真如は先ず、久美の唇を吸い、乳房を撫で、股間に触れ、もつれ合った。2人とも人に気づかれてはならないと、声を立てずにレジャーシートの上で、もつれ合ったが、ワンピースやズボンを脱ぐうちに、2人はレジャーシトから転がり出し、草叢での行為に及んでいた。真如は久美を草の上に押し付けながら、囁いた。

「怖く無いだろう。好きだよ久美ちゃんのこと・・」

 それに対し、久美は何も答えず、真如に犯されながら両手を広げ、手元の草を力いっぱい掴み、ふんばった。その姿は真如への肉体の供与そのものだった。母体になろうと肉体を開放し、愛を所望する女の本性そのものだった。真如は、その久美の身体の隈々まで丹念に愛撫し、久美が濡れ始めるのを確認した。彼女は真如に覆い被さられ、吐息を漏らさず、自分の股間の割れ目から果汁が溢れ出すのを阻止することが出来ず、ついには真如に抱きついて来た。真如は、この一瞬の愛の為に、命が終わっても構わないと言ったが、正にその心境だった。久美への命の注入は、自分の偉大な死への挑戦だった。死との格闘だった。真如は自分の腰にしがみつき、真如の愛の命を欲しがる久美に挑みながら思考した。

「俺は今、異性の海の中に突入し、攻撃を開始した。海の中で足をばたつかせ泳いでいる。古い母を捨て、新しい母の肉体の中で泳いでいる。俺にしがみついている少女は、俺の母となるのだ。俺と少女は連結し、俺の生命は少女の中で生きる。そして蘇生する。従って、この少女は俺の母であり、俺自身だ。俺の命は、この少女の命と共にある。俺は今やあの忌まわしい母から離れ、この少女の肉体の中に自己を宿らせる。この行為は享楽的近親相姦ではない。これは自己存在を立証してくれる始原的歓びであり、生きる苦患なのだ。母体還元の歓喜では無く、美しくも悲しい自己死との対面なのだ」

 久美は真如の自由に弄ばれ、傷つけられ、自己を失いそうだった。母の忠告を思い出す。男には気を付けるのよ。覆い被さる真如の背後の上空に月が名も知らぬ南国の大きな一輪の花のように笑っているのを見て、久美は心地よい甘美な痛みの中で、真如の好きにさせてあげた。真如の為の存在でありたかった。そんな久美は真如にとって真如の為のものだった。後世においても、彼女は真如のものであるべきだった。真如のものであるべきことこそ、彼女が女としての意味を保有するのだ。そこにこそ、彼女の存在の意義が認識されるのだ。真如は久美に溺れた。彼女のうねりの中に呑み込まれ、海底深く吸い込まれるような恐怖を感じた。真如は先程まで久美が掴んでいた草の束を両手で掴んだ。母体へ引き込まれる死への恐怖から逃れようと助けを求めた。溺れる者は藁をも掴むというが、真如は草束を掴んでいた。しかし、その頼りにした草たちに、どんな根を張った力があろうか。その力は微弱で、たちまちにして、真如を、その深みへと呑み込んでしまった。真如は恐怖に震え、夢中になって命の玉を発射した。真如の新たな命の玉は真如の肉体から離れ、久美の肉体に移動した。彼女は喜んだ。彼女は、自分の上で相手が命を喪失するのを見た。身をもって、相手が往くのを感じた。彼女は味わったことの無い殺人の悦楽に陶酔し、空っぽになった男の身体を腹の上に乗せて、痙攣して動かなくなった。彼女は真如の命を包含し、女としての意義を保有した。空になった真如は、久美の上からそっと降りて、仰向けになると、月に向かって呟いた。

「俺は可愛い久美を犯した。身も心も痺れ切るほど、彼女との交接に精力を放出した。俺は正常な男として、近親相姦のような変質的でない、正常な交接を実行した。やることをやって正常な男として頑張った。俺は久美を愛し、死んだ。本能的な挑戦を行って死んだのだ。自己の生存力を維持する為に自己と戦って死んだのだ。久美は、その為の犠牲だった。可哀想だが、その戦場にいたのだから仕方ない。終われば平和で、そこに愛が存在した。俺は兎に角、死ぬことが出来た。この肉体をもって、それを感じた。だから、もう死など怖くない。俺には、俺には伝えた愛があるから・・・」

 真如は気が狂ったみたいだった。炎となって燃え尽き、死を味わった。久美は久美で、甘美な陶酔の中で目くるめく真如との合体を味わった。そして泣いた。


         〇

 2人は暫くの間、裸で寝ていたが全身の汗が退けると起き上がり、衣服を身に着けた。夜の川風は冷たく、薄が揺れ、何故か怖い悪夢の中にいるようだった。レジャーシートを折り畳んで片付ける久美に、真如は謝った。

「乱暴な事しちゃって、ごめん」

「いいの。私、足立さん、好きだから」

 久美は、そう答えると嬉しそうに目を細めた。

「そっか。良かった」

 真如はそう口にしたが、久美の答えが本心か、どうか分からなかった。そこで再確認した。

「泣いてたみたいだったけど、大丈夫なんだね」

「もう、大丈夫。もう泣きません」

「辛かったんだね」

「ううん。足立さんと身も心も繋がっているって感じて、嬉しかったの」

「本当かい?」

「身体に良い事してるみたいで、気持ち良かった」

「そう。なら良かった。そろそろ帰ろう。遅くなるから」

「まだ嫌よ。私、ずっと足立さんとこうしていたい」

「駄目だよ」

 真如にそう厳しく言われると、久美は押し黙った。2人は薄川の見晴橋の道祖神の真似をして、橋の畔でキッスしてから、堤防の上の道を市内に向かって歩いた。久美はこの時間が永遠に続けば良いのにと思った。だが、真如は、そう思っていなかった。彼は久美を松本城近くのアパート前まで送ると、それから夜道を『高徳寺』に向かって歩いた。歩きながら余計なことを考えた。

「俺は清純な久美を犯してしまった。僧侶としてあるまじき行為だ。俺は近親相姦のような変質的でない、久美との純粋な性交をしてみたかった。そして成功させた。だが果たしてそれは彼女にとって純粋な性交であったであろうか。暴行ではなかったか。彼女は嬉しかった、気持ち良かったと言ったが、それは本当だろうか。本当で無かったような気がする。野獣のように襲い掛かった俺の事が怖くて、そう答えたのであろう。明日、警察に行って、俺の暴行を訴えるであろう。嬉し涙なんて嘘だ。女は悪魔と二人連れ。紫陽花の花の色のように七変化する。明日、『高徳寺』に警察がやって来て、俺は狂犬のように手錠を嵌められるであろう。俺の中には叔母と同様、色情の悪魔がいる。犯してはならない事を犯してしまった。寺に生まれて、寺僧として寺に仕える為、ずっと修行を重ねて来たのに、この醜態は何だ。久美を犯した罪は一生かかっても償いきれるものではない。俺は人間でなく、畜生だ。全く情けない。こんな自分は一時も早く、この世から去り、地獄へ行くべきだ。警察に捕まり、大衆の前で辱めを受けるその前に・・・」

 真如は良からぬことを想像し、絶望の世界に陥り、死を考えた。自分が死後の世界に行って生存出来ると信じ、救われようとした。その考えは仏道修行において、死後の世界を強調し、悩める人たちを死の恐怖から救うという学びから来たものだった。真如は空を見上げた。何故か月が暗い顔をしていた。真如は夜道を歩き続けた。月下に紫陽花の咲く『高徳寺』が見えて来た。真如は、また苦悩した。

「母は今夜も俺を待っているに違いない。今夜もまた同じことを、させられるのか。近親相姦。俺を待っているのは発情している雌獣だ。その雌獣との行為は人間的行為では無く、動物と動物の交尾だ。畜生界の肉欲そのものだ。女の欲望は恐ろしい。肉欲に飢える女は悪魔だ。男尊女卑という意味が分かるような気がする。女は獣だ。俺はその獣と、これからも生きて行かなければならないのか。母、房子と青野由美の争いの中で生きて行かねばならないのか。多分、女2人は激しく争い合うだろう。その世界は人間界でなく畜生界だ。俺は、そんな世界に生きたくはない。母と由美が激しい衝突をする事は目に見えている。毎日、男性と肉体関係を持たないと頭がおかしくなりそうだという阿部定のような叔母は、俺との性交中、俺の局部を切り取るかもしれない。それを考えると、恐ろしくてならない。長い年月を絶望の中で悪魔と暮らすことは無い。これは、俺の運命だ。矢張り、自分は一時も早く、この世から去り、別の世界へ行くべきだ。もしかすると、そこは地獄では無く、理想郷かもしれない・・・」

 真如は夢とうつつの境にいるような足取りで、『高徳寺』の総門のところから山門に入らず、禅堂の裏側の細道を本堂の裏山へと向かった。裏山への道は冷え冷えとしていた。真如は仏に導かれている自分を抑制する事が出来なかった。本堂の裏の椿や樫や栗や桜の雑木林と竹林の間の坂道を夢遊病者のように登って行った。真如は呟いた。

「俺は、もう、これ以上、この世に縛られたくない。もう迷うことは無い。人間と動物が差別されない世界へ行く。善と悪の対立しない世界へ行く。修証不二。証悟の境地に至り、無の道を行く。現世の苦悩の世界から、きっぱりと縁を切り、空となり、そして、あの世で蘇生する」

 前進する真如の眼光は、完全に狂っている眼光だった。真如は登って行く前方の杉林の中に立派な1本の杉の木があるに気づいた。その杉の木をじっと真如は見詰めた。その杉の木は、立派な横枝を、真如に向かって差し伸べていた。ここだ。真如は意を決し、腹巻代わりに腹に巻いていた白い市楽帯を取り外し、月明かりに照らされながら、杉の木の太い横枝に、その帯紐を垂らした。その紐の先端は首輪形に仕立てられ、後は真如の希望する目的の為に使われることになった。そして使われたのは一瞬のことだった。


         〇

 夜が明けた。一晩中、房子は眠れなかった。あんなに待ったのに、真如は帰らなかった。一体どうしたのか。雀の鳴き声に部屋の障子を開けると、朝の光が隠寮に流れ込んで来て、庭の木々の下で、紫陽花の花がぐんなりとしているのが見えた。房子は身体が燃えるのを抑え、真如の代わりに本堂に行き、朝の勤行を務めた。その後、飯炊きにかかると、寺手伝いの奥原伊助がやって来て、何時ものように朝の鐘撞きをした。房子は真如が居ないので、そそくさと朝食を済ませると、伊助に訊いた。

「伊助さん。真如が昨夜から、まだ帰って来てないんだけど、何か知ってるかい?」

「えっ。本当に帰っていねえんですかい。昨日の夕方、一緒にお城の所まで行って別れたんですが・・」

「そう。一体、どうしたのでしょうね」

「高校時代の仲間と、飲み明かしたんじゃあないですかね。そのうち帰って来ますよ」

「そうだと良いのだけれど」

 房子は言い知れない真如への愛しさを覚えた。同窓会の幹事に祭り上げられて良い気になっているのでしょう。母親として寺の勤めに傾注するよう叱らねばと思った。梅雨が明けたら、檀家回りを始めねばならない。そんなことを考えていると、川上吾作が現れた。

「おはようございます。房子さん」

「お早う。朝早くから御苦労さま」

「今日は、伊助さんを連れて、裏山の枝切りに行って参ります」

「それは御苦労さま。昼には戻っておいで。昼御飯、用意しとくから」

「はい。今日は、朝からカラスが鳴いて、熱くなりそうですね」

「そうね」

「じゃあ。伊助さん、行くべえ」

 川上吾作は、そう言うと、庭掃除をしていた伊助を連れて、『高徳寺』の裏山に向かった。その逞しい吾作の後姿を房子は何時、見ても精力的で頼もしいと見送った。その時、彼女は予想外の大変なことが起きているのに気付かなかった。今晩も吾作となどと考えていると、裏山に出かけて行ったばかりの伊助が、血相を変えて庫裡に駆け込んで来た。

「房子さん。大変だ。大変だ。裏山で、裏山で・・・」

「どうしたの?伊助さん。そんなに慌てて」

「裏山で、裏山で・・・」

「何があったの?」

 房子は目を丸くして伊助に訊いた。すると伊助は庫裡の上がり框にバッタのように手をついて、泡を吹くかのように言った。

「真如さんが、裏山の杉の木に、ぶらさがって・・」

 伊助の言葉を聞いて、房子は息を呑んだ。震え声で、伊助に訊き返した。

「真如が、どうしたって」

「真如さんが首をくくって死んでいるんです。裏山に来て下さい」

 房子は伊助の言葉を聞いて、雷が身体に落ちたような衝撃を受けた。赤い鼻緒の下駄を突っ掛けたまま、伊助について、山道を駆け上った。伊助に案内されて、杉林の奥の大きな杉の木の所へ行くと、川上吾作が房子を待っていた。房子は震え上がった。杉の木に真如の死体が吊り下がっていた。何ということか。昨夜、遅くまで帰りを待っていたというのに、愛しい甥は首を括って死んでいた。房子は吊り下がっている真如の下に行って、変わり果てた養子を見上げた。蒼白く変質した真如の顔は青洟を2本、汚く垂らし、恨めしそうに見上げる者を見下ろしていた。真如の死臭が漂うのか、カラスが鳴きまくった。毎夜の気の狂ったような行為がいけなかったのか。房子は真如の吊り下がる下で泣いた。房子は真如に向かって、泣き叫んだ。

「真ちゃん。お前は、どうして、どうして自殺なんかを。お母さんを1人にして、何故、死んでしまったの。私は、お父さんを亡くしてから、ただ、お前だけが頼りだったんだよ。私は『行願寺』の道子さんから、お前を奪い取り、お前を高校、大学まで出してやり、大本山に送り、一人前の僧侶にしてやったのに、何故、何故。まさか、私が虐め過ぎたとでも言うのかい。私が恐ろしかったのかい。真ちゃん。何とか言っておくれ。何故、死んじまったんだよう。お前は何故、首を吊らねばならなかったのかよう。仕合せそうな顔をしないで、何か言っておくれ・・・」

 房子が泣けど騒げど、関節を抜かれたようにぐったりとして細くなって、ぶら下がる真如の死体は、何も語ることなく房子を見下ろし、微動だにしなかった。房子は真如が何故、自殺したのか理解出来ていなかった。彼は畜生界で生きたくなかったから自殺したのだ。邪悪な血縁を軽蔑し、淫靡放逸に耽る畜生界ときっぱり縁を切りたかったのだ。血は水よりも濃し。邪悪な血を伝承してはいけないと思ったのだ。逃れられない運命を終わりにしたかったのだ。房子は無残な姿に変わり果てた真如を見上げ、仏に祈るように手を合わせ、じっと動かなかった。カラスが急き立てるように、カアカア鳴いた。ああ、足立真如の人生には一度でも紫陽花の花のような自由で変化に富んだ華やいだ時があったであろうか。


      『紫陽花の寺』 終わり


 

             


 

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