生きる意味を失った日
瑠唯の自宅のリビング。
四角いテーブルを瑠唯と沙羅が囲っている。
二人は床に敷かれたカーペットの上に腰を下ろし、向かい合うようにして座っている。
夜ごはんを食べ終わった2人の間にしばらく静かな空気が流れる。すると瑠唯が本来集まった目的を思い出し、話を切り出した。
「ねぇ沙羅。そう言えば今日なんか話があったんでしょ?何かあったの?」
瑠唯は心配そうにそう尋ねる。
すると、沙羅は曇った表情をしながら目線を下に落とした。そして一度瑠唯の顔を見た後、何度も視線を泳がせながら瑠唯にこう言った。
「うん。あのね…。ずっと言い出せないでいたんだけどね、私と別れてほしいの」
瑠唯はその言葉に驚き一瞬身体が固まった後こう答えた。
「え、なんで。俺なんかした?」
「ううん。違うの」
「じゃあなんで?」
そう聞くと沙羅は黙ってしまう。そんなに言いづらいことなのかと思い、理由はわからなかったが俺は考えられる可能性をピックアップし質問することにした。
「俺のこと好きじゃなくなったから?」
「ううん」
「他に好きな人ができたから?」
「ううん」
「両親になんか言われたから?」
「ううん」
俺の予想は外れるばかり。気持ちの問題ではないということだろうか。それならもうこれしかないだろう。しかしこれは10年間ずっと受け入れてもらえていると思っていたことだ。だが何となくこれは当たっているのではないかと思い、俺は恐る恐る聞いてみた。
「やっぱり、この身体だから?」
俺はそう言って沙羅の方を向いた。
すると沙羅は目線をそらした後、静かな声で
「うん」と呟いた。
俺は17歳の時、原因不明の病に侵された。手足を軽く動かしたりすることはできるが、歩いたり大きな動作は身体に激しい痛みが襲うためできない。そのため俺は車椅子の生活になってしまった。そして毎日身体には骨が砕けるような発作があり、毎日それと戦っている。発作が起きるタイミングはよくわからないが、最低でも1日1回は地獄のような痛みを味わっている。前例のない病気なのでよくわかっていないが、今のところ命に関わるというものでもないらしい。
沙羅は呟いた後、静まり返った空気の中口を開いた。
「あのね、身体が不自由だからってことじゃないの。それ自体は別に何とも思ってないの。ただ、瑠唯の苦しむ姿を見るのが辛くて…」
「ごめん。気づかないで辛い思いさせてて。なるべく発作の時は1人でいることにするって言っても別れたい気持ちは変わらない?」
「うん。ごめん」
「他にも理由があったりする?俺怒ったりしないし全部正直なこと教えて」
「うん。私たちさ、もう27でしょ?」
「うん」
「瑠唯が言ったように結婚も考えてたの。でも結婚って考えたら今までとはいろいろ変わるでしょ?子供ができたり、生活も」
「うん」
「もし子供ができて、瑠唯と同じ症状の子が生まれたとしたら私育てていける自信がないの。瑠唯の病気はまだよくわかってないし、遺伝するかはわからないけど万が一そうなったらって考えると怖い。でも子供はほしい。私は家庭を持つことに憧れてたから。瑠唯に恋はしてる。でももう気持ちだけで一緒にいることはできない年齢まで来ちゃったの。私は恋愛よりも結婚を取りたい。今更何言ってんのって思うかもしれないけどこれが私の気持ち。本当に瑠唯のことが好きだから、この関係を終わらせたくないって思いもあって、覚悟が決まるまで時間がかかっちゃったの。今更こんなこと言ってごめん」
そう言って沙羅は静かに涙をこぼした。きっと彼女も苦渋の決断だったのだろう。俺は沙羅の泣く姿を見て少なくとも行為を寄せていてくれいたことは実感できた。でもただそれだけだ。だから何だというのだ。この先がないことには変わりない。俺は病気が治らない限り沙羅と結婚することはできないし、まず病気が治るかすらも分からない。治るまで待っててなんてことも言えない。別れるしか選択はないようだ。
「正直に話してくれてありがとう…。それと、ずっと苦しい思いをさせてごめんね。別れようか」
「うん。ごめん。ごめんね…。ありがとう瑠唯」
沙羅はそう言って涙を流した。俺はその涙を見て本当に終わりなんだとここで初めて実感した。目は潤み涙が溢れそうになったが俺は必死にこらえた。しばらくして沙羅が泣き止み落ち着いた後、沙羅が口を開いた。
「ごめん。取り乱して」
「いや、大丈夫だよ」
「ありがとう。瑠唯は本当に優しいね」
「別に優しくなんてないよ」
「ううん。優しいよ。」
と言った後沙羅は小さい声で呟いた。
「だから瑠唯なら大丈夫」
俺は聞こえていたがあえて聞こえないふりをした。
「ん?最後なんか言った?」
「ううん。何でもない。じゃ私もう帰るね。今日はありがとう。いや違うか、今までありがとう瑠唯。本当に楽しかった」
沙羅はそう言って無理したような笑顔で笑っていた。
「こちらこそ今までありがとう。幸せになってね。沙羅」
「うん。瑠唯もね。あ、今日はお見送り大丈夫だから」
必死に動こうとする俺を見て沙羅は気を使いそう言った。
「ごめん。ありがとう。気を付けて帰ってね」
「うん。ありがとう。お邪魔しました」
俺はただ沙羅が帰って行く後ろ姿をリビングから見ていた。
しかしすぐに沙羅の姿は見えなくなり、玄関が閉まる音が聞こえた。
27歳の春、俺はこうして10年付き合っていた恋人に振られてしまった。
沙羅が帰った後、俺は我慢していた涙腺を開放し年甲斐もなく泣きまくった。すると数分後、徐々に身体が痛み始めた。俺は痛みに耐えきれず、身体を床に倒し蹲った。
「くっ…い、痛い、痛い、痛い、うぅ…あああああああああ!!」
部屋中に悲痛の叫びが響き渡る。
「く、くす、り、ちょうだ、、沙羅…」
ああ、もういないんだった。俺は必死に机の上にある薬を手探りで探す。そしてやっとの思いで掴み、水もないまま薬だけを無理やり飲みこんだ。そして薬を飲んで15分ほど経つと徐々に痛みは収まり、俺は蹲っていた身体を開き仰向けになった。すると涙が目じりからそっと零れ床に落ちていく。失恋と身体、2つの痛みが混じり合った涙はとてつもなく俺の精気を奪っていった。
ああ、もう何なんだよ。身体は動かねーし、死ぬほどいてぇーし、意味わかんない病気だし。
でもそれでもさ、唯一1つだけ神様は幸せをくれた。
そう思ってたんだけどな。
その唯一さえもなくなっちゃったら俺はどうしたらいいの?
ねぇ沙羅、教えてよ。
何が大丈夫なの?
この状況が大丈夫に見えるの?
なんで沙羅が泣くんだよ。泣きたいのは俺の方だよ。愛し合っていればどんな障害も乗り越えられるとか言った奴誰だよ。
はあ…。沙羅はまたこれから普通の人に恋して普通に結婚するのかな。てか普通の人って何?ああ、病気じゃない人のことか。なら俺には一生涯無理だな。じゃあ俺って生きてる意味ある?特に社会にも貢献できず、恋人を幸せにすることもできず、生きる価値も見いだせず。こんな何もない俺に生きる理由なんてもうないじゃん。死ぬほど痛い身体の痛みに耐えながら毎日生きていくこんな人生なんていっそ捨ててしまおう。
俺はこの時人生最大の絶望感に苛まれ死ぬことを決意した。
瑠唯は身体を這って数メートル前にある台所に行き、台に手を伸ばし渾身の力を振り絞って立ち上がる。そして、目の前にあるナイフスタンドから果物ナイフを掴んだ。すると同時に足が限界を迎え、身体が床に倒れる。
「いってぇ…」
うつ伏せに倒れた数メートル先にナイフが飛ばされている。瑠唯はそのまま這って、ナイフが自分の左側に来るよう身体を近づけた。瑠唯は力を振り絞り仰向けに寝返った後、身体の右側にきた包丁を右手で掴み、そのままお腹に向かって思いっきり刺した。
「痛い…熱い…いや、寒い…。」
血がじわじわと床に広がっていく。
瑠唯はこうして徐々に意識を失っていった。