泥濘(ぬかるみ)
チクチクチク。
さと子は一心に針を繰る。真っすぐで、細かく美しい縫い目になるように。小さく灯した行灯の密かな明かりで、細い針が鈍く光る。
チクチクチク。
重くなる瞼を擦りながら、手毬唄を口ずさんで眠気を追い出す。
てんてんてん、チクチクチク。
夏祭りまであと三日。
昼間に手毬唄を歌っていたのは、奉公先の今年三歳になる可愛らしい女の子だ。金糸銀糸をたっぷり使った、美しい錦の手毬をついていた。
さと子の仕事はその子の子守りと、春先に生まれた跡取り息子のお世話だ。
八歳の時に口減らし同然に庄屋様のお屋敷へと奉公に出され、そのまま十歳になる今も子守りや雑用仕事をしている。
母親である若奥様は、乳をやる以外では子供に近寄りもしないくせに、転んでも虫に刺されても、汗疹が出来てもさと子を叱った。
寝かし付けにも毎晩苦労した。
上の女の子が、うとうとする頃になると、途端に下の乳飲み子が泣き喚く。乳飲み子を抱き上げてあやしていれば、上の子が抱っこしてくれと駄々をこねる。
その晩も順に風呂に入れて寝床に入ったが、二人とも目を大きくパチリと開けて、少しも眠る素振りがない。そのうちグズグズと愚図りだし、とうとう揃って泣きはじめた。
ちょうど旦那さまにお客が来ていたこともあり、早々に下男が怒鳴りに来た。
「嬢ちゃんと坊ちゃんが寝るまで帰って来るなよ」
さと子は背中に女の子を乳母紐で背負い、乳飲み子を抱いて裏口から追い出された。仕方なく、腰に蚊取り線香を入れた籠を括り付けて田んぼの畦道を歩く。
夕焼け色の僅かに残る盛夏の空を、背中が鮮やかに青い塩辛トンボが二匹繋がって飛んでいた。
さと子は見るともなしでそれを目で追いながら、夏祭りまでの日にちを数えた。
祭りまではあと、たった三日だ。
村の夏祭りは、盆踊りの櫓と夜店が立ち並ぶ賑やかな夜祭りだ。祭りの間は奉公人も順番で休みと、少しの小遣いがもらえる。
さと子は梅雨が明けてすぐに、祭りに着てゆく浴衣の生地を買った。紺色をベースにした赤や青の朝顔が咲く生地を、さと子はひと目で気に入った。
浴衣はあらかた仕上がっている。あとは裾をかがって襟を付け、しつけ糸を外すだけだ。
余った端切れで巾着を縫って、下駄の鼻緒もお揃いで作ろうか。祭りの晩は、女中の姐さんが髪を結ってくれる約束だ。早く帰って仕上げたい。
ああ、早く寝てくれれば良いのに。
咽せかえるような夏夜の濃い空気を、ぬるい風が掻き回し、蚊取り線香の煙が立ち昇る前に消える。
子供たち二人が、大きくて邪魔な荷物に思えてくる。何でも許される生まれが、自分とは違い過ぎる身の上が、綺麗で上等な寝巻きが、嫉ましく、憎らしくて堪らない。
このまま何処かへ置き去りにしてしまいたい。泣こうが喚こうが、知らんぷりして帰ってしまいたい。
帰って、浴衣を仕上げたい。
さと子は湧いて出た邪な気持ちに思わず俯いた。こんな気持ちを抱えてしまったら、子守りとして取り返しのつかないことになる。
そのまま俯いて歩いてゆくと、畦道に泥濘を作りながら続く大きな足跡が目に入った。
何の足跡だろう?
人でも、獣でもなさそうだ。さと子は草履が濡れるのを嫌い、足跡を避けて歩いた。避けて歩いたつもりだった。
なのに、気がつくといつの間にか足跡を辿りながら林の中へと分け入っていた。
我に返ったのは、打ち捨てられた鳥居をくぐった時だ。目の前には朽ちかけた御社。頭がぼうっとして、なぜこの場にいるのかよく憶えていない。
どう考えても何かに誑かされている。
さと子は青くなって腕の中の、眠ってクタリと重くなった乳飲み子を抱きしめた。膝頭がガクガクと震える。
御社の中からゴソゴソと何かが動く気配がする。さと子はフラフラと引き寄せられるように音のする方へと向かった。
何も悪くない小さい子に汚い気持ちを向けた、その罰が下されるのだと思った。
その時……。
「ねえや、帰ろう。そっちへ行ってはだめだ」
背中の女の子が、やけにはっきりと言った。
「まだ間に合うから、帰ろう」
さと子は頷いて走り出した。後ろから、ズルリ、ベシャリと水から出した布を引き摺るような音が聞こえてくる。
だんだんと音が近くなり、もう駄目かもと思ったその時、背中で女の子がポンと何かを投げた。目の端に映ったそれは、女の子の大切にしていた錦の手毬だった。
気がつくとさと子は畑の畦道を歩いていた。腕の中の乳飲み子も、背中の女の子も、スヤスヤと寝息を立てて眠っていた。
三日後、さと子は仕上げた浴衣を着て夜祭りへと出かけた。賑やかな祭り囃子の中に身を置くと、ようやく肩の力を抜くことができた。
五年が過ぎ、さと子は子守りを務め上げて、出入りの呉服屋の丁稚と所帯を持った。
子供が生まれたら、錦の手毬を作ろうと思っている。夏の夜道で決して泥濘に、足を取られないように。