彼氏になった
夏。入道雲が遠く背を伸ばし、その巨体をもたげている。炎天下、緑並び蝉時雨降る、そんな河川沿いの道を散歩しているその道中。
ふと目についたのは、河川敷へ降りる階段の途中に座る、同級生の女子の姿だった。
この暑い中、なぜあんなところに……?
疑問に思いつつも、大丈夫だろうかと心配になり、手に持っていたまだ封を切っていないペットボトルのジュースに目を落とした。
そっと近づいていくと足音で気づいたのか、ふっと見上げてきた。それに倣うように、彼女の一つ結びの髪がさらりと肩を滑った。
「おっす、大丈夫かよこんな暑い日に。ほらこれ」
ぶっきらぼう気味になってしまいつつも、そう言ってジュースを差し出した。見上げてくる彼女は僅かに首を傾げると、少しの間。すっと躊躇する様子も無く素直に受け取ってくれた。
「熱中症、とか怖くねえの?」
「ランニング中の休憩、暑さには強いからだいじょぶだよー」
蓋を開けようとして、あれっ、と漏らして再び首を傾げた。
「なんだ……開けてないのか」
意味深にも聞こえる独り言は気にしないでおく。
シンプルなTシャツに、ハーフパンツ姿。黒いヘアゴムで一つ結びにされた彼女の黒髪は、日の光を受けて綺麗に栗色に見えた。そんな飾りっ気のない彼女の姿に、ついつい見惚れてしまっていた。
暑さから紅潮した顔。つり目がちな大きな瞳を、ジュースを飲んでいる間は少し細めているのがわかる。見つめているうちに、つぅっと彼女の頬を滑り落ちる汗を無意識に目で追ってしまった。ほんのり汗の匂いすら感じられそうで、妙な罪悪感から顔を逸らした。
「ねえ?」
声に振り向き直す。
ペットボトルから口を離した彼女は、もう一度見上げてきていた。パチパチと目を二度ほど瞬かせると、にんまり笑ってきた。そうして癖なのだろうか、もう一度小首を傾げた。
「えっと……もしかして、私のこと好きなの?」
「はぁっ?」
思わず変な声を出してしまう。顔が火が点いたように熱く感じ、真っ赤になっているだろうことがはっきりとわかる。彼女からの視線を遮るように顔の前に手を翳した。
「な、んでそうなるんだよ!?」
「え、だってこれ」
「あ、暑さに強いって言ったって、こんなところで座ってたら倒れちゃうかもしれないだろ、だから」
「んー、そっか……違うのか」
彼女の目が泳ぐのが見て取れた。彼女自身も少し照れがあるのかもしれない。
「あ」
目線を下げた彼女は持ったままだったジュースに気づき、それを返そうとこちらへ腕を伸ばしてきた。
「ありがとね」
言いつつ、何故か腕を少しだけ引っ込めて、彼女はジッと見つめてきた。
「本当に違うんだよね?」
何かに期待してしまったのか、上目遣いの彼女の瞳に囚われるとこちらもちょっとした悪戯心が芽生えるというもの。
「あー、もし好きだったんならどうしてたんだよ?」
ついからかいの気持ちでそう言ってやった。すれば、
「そうだなぁ。彼氏になってほしかったかなぁ」
屈託も躊躇もないそんな返しが飛んできた。想定外。
「はあっ? はぁっ!? 何言ってんだっ」
見上げられているというのに頭頂から押さえつけられているような、そんな錯覚に捕らわれてしまう。
「周りの友達にも少ないからさ、自慢になるかなーって」
続くそんな結びに、少しだけ熱が冷め肩を落とした。
「……それって、別に俺のこと、そういう気持ちはないってこと?」
「気持ち?」
「う、す、好き、とか」
「ないよー、ただ彼氏が欲しかっただけ」
ひらひらと手を振って、からから笑われた。
そんなものなのだろうか……
有頂天の境地まで飛ばされた気持ちを、地獄のどん底にまで叩き落されたようなそんな感覚に打ちのめされてしまった。
ため息を漏らしながら、彼女の隣へへたり込む。熱を帯びたコンクリートの階段の暑さから、地獄の窯に座っているようなそんな心地にさせられてしまう。そんな気持ちに押されるがまま、
「お前にとって、彼氏彼女ってそんなものなんだな」
と、つい恨みがましいというか女々しいというか、そんな恨み言を零してしまう。
「ん?」
「なんつうの、貞操観念ってのかな? そういうのが軽いっていうか」
「はぁ? 何でそんな話になるの?」
声色に不服が混ざっている。ジトリとした目線。口を尖らせている。
「彼氏ってのは、お前にとってアクセサリーとかと同等ってことなんだろう?」
「ちょーっと、君が何を言っているのかよくわからないんですけどー」
不機嫌そうに肘でつっついてきた。膨れっ面のまま、彼女は口を開いた。
「彼氏になってもらえれば、男子方面の裾野を広げられるってもんでしょ」
膝を寄せるとその膝に頬杖。こっちを見ないまま、愚痴るように、それでいて淋しそうな声色で彼女は続ける。
「小学生の時は結構いたのに、今じゃクラスにも一人くらいだし……だから、いないよりはいたほうがいいでしょう?」
「…………」
なるほど、微妙に話が噛み合わないと思っていたけれど、もしかして……
「あのさ、彼氏ってどういう意味か分かる?」
一拍。予想外の返しだったようで、口をぽかんと開けたまま目を丸くしている。頭上にクエスチョンマークが見えるようだ。
「意味? 意味って、彼氏でしょ? 男子の友達のこと……じゃない?」
「あー……」
言葉尻のころには、自分が何か勘違いしてることに気づいたようで、その眉は困ったようにハの字に下がっていた。
「違うってこと? ずっと私、そうだと思ってたんだけど」
「彼氏ってのは、あれ。要は恋人のこと。告白して、付き合ってーって、そんな感じの」
「うっそうそうそ! マジで言ってるそれっ?」
彼女の顔が見る間に赤らんでいくのがわかって思わず笑ってしまった。
「笑わないでよー、本当に勘違いしてたんだから」
「ドラマとか見ないの?」
「アニメ派……っていうか、勘違いじゃないよ! あいつ、あいつにウソを教えられたんだよ! だから、間違えてても……あっ、じゃあ、あのころからずっと……? あー、もうやだぁ」
誰かはわからない『あいつ』の顔を思い出せば、連鎖するように別の何かも思い出してしまったようで。彼女はその記憶の中で目まぐるしく右往左往しているようだ。
膝に顔を埋めてはいるものの、覗くその耳が真っ赤になっているのは夏の火照りからなのか怒りからなのか、はたまた恥じらいからなのか?
何にしても、足先をパタパタと上下させ、縮こまってしまった体をイヤイヤ揺らし、それに合わせてフラフラ揺れるポニーテールは、まぁ、苦笑交じりに見守ることしかできなかった。
「ま、まあ、いいんじゃないの。そんな気にすることないって」
「ねえ」
「ん?」
一息ついたのか、突っ伏していた彼女は今なお赤らむしかめっ面をこちらへ向けてきた。けれど、一度目線が合うと、その顔は小悪魔のような悪戯っぽい笑顔へ変貌していく。
つい、息と生唾を飲み込んだ。
「やっぱり、彼氏になってよ」
「なん、はあっ!?」
予想外すぎて声が裏返った上、咳き込んでしまう。
「だめ?」
彼女の言葉が降ってくる。立ち上がっていた彼女を見上げれば、少しばかり首を傾げジュースを差し出してきていた。
その日から彼女の『彼氏』になった。