scene:8 魔源素
雅也が宮坂道場に入門した最初の頃。少林寺拳法の構えや体捌きなどの基本を教えてもらった。最初は筋肉痛となり、仕事にも支障をきたしたが、その筋肉痛が治まると急速に技を吸収した。
それには雅也自身と教えている宮坂師範も驚いた。
「雅也君、以前に何か武術をやっていたのかね?」
「いえ、全然やっていません。プロレスとか、キックボクシングの試合を見るのは好きですけど、実際に習ったことはありません」
「そうか……なら、今日から宮坂流の立木打ちをやってもらう」
立木打ちとは、樫や椎などの硬い二メートルほどの丸太を七〇センチだけ土に埋め、その丸太に棒を打ち込む練習法である。
元々は薩摩藩の示現流で行われている練習法だが、宮坂流でも取り入れている。但し、構えや足運び、太刀の振りに独自の工夫があり、示現流とは少し異なるらしい。
練習場所は近くの山の頂上である。頂上まで駆け上がるのも練習らしい。二〇分ほどで山頂に到着。そこには丸太が地面に突き立てられていた。数は五本である。
「どれでも好きな丸太を選んで、立木打ちを始めなさい」
雅也は適当に選んで、教えられた通り示現流の『蜻蛉』の構えではなく上段の構えを取る。そして、丸太に歩み寄り、「シャーッ」と気合を発して全力で打ち下ろす。
ガシッと丸太に棒が打ち付けられると、衝撃で手が痺れた。これを何回繰り返せばいいのかと考えると泣きたくなる。
気合とともに一〇〇回ほど打ち込むと限界が訪れた。雅也は宮坂師範に顔を向け、
「限界です」
宮坂師範が笑う。こうなるのを予想していたのだろう。
「まあ、最初はしょうがない。ただ言っておくが、最終的には一〇〇〇回ほどの打ち込みが行えるようになってもらうぞ」
「……無理」
「今はそうだろう。明日の朝が大変だろうが、頑張ってくれ」
宮坂師範の最後の言葉は、意味が分からなかった。だが、翌日腕が上がらなくなっていた。酷い筋肉痛で動かせない。
「こういう意味か。今日が休みで良かった」
食事をするにも歯を食いしばらなければならないほどである。
「こういう時、夢の中にあった魔源素があればな」
ただの気まぐれで、夢の中でのように精神を集中し魔源素を感じ取ろうとした。その時、頭の中でカチッと何かのスイッチが入ったように感じた。
次の瞬間、あり得ない手応えを感じる。空気中に魔源素の存在を感じたのだ。
「………………馬鹿な……あれは夢の出来事だったはず」
しかし、確かな手応えがある。雅也は感じられる範囲の魔源素を集めた。夢と同じように魔源素ボールが形成された。それも迷宮で集めた時のような大きさである。
「どういうことだ。地球には迷宮と同濃度の魔源素が存在するというのか」
雅也の頭の中は混乱していた。魔源素を感知した直後から、精神内部にある存在を感じたからだ。夢の世界で『真名』と呼んでいたものである。
「おいおい、あれは夢じゃなかったのか。そうすると、俺は『魔源素』と『超音波』の真名を持っていることになる」
精神を探ると確かに二つの真名が存在する。
雅也は夢が本物だったとすると、それが自分だけに起きた現象なのかが、気になり始めた。それでパソコンを立ち上げ、調べ始めた。
不思議なことに魔源素ボールを作った後、腕の筋肉痛が和らいでいた。魔源素を集めたことが何か影響しているのかもしれない。
筋肉痛がマシになったとはいえ、痛いことには変わりない。痛みを堪えながらキーボードを打ち不思議な夢について検索する。
「ヒットするものが多すぎて分からんな。もう少し絞り込むか」
雅也は思い付いた単語で検索して、いくつかヒットした。
夢占いに関するウェブサイトに、明晰夢を見たという女性の話が書かれていた。毎晩、異世界のメータという少女の意識と一緒になり、生活するというものだ。
雅也の体験と同じらしい。他の事例も調べた。そのどれもが明晰夢を見たという話で、雅也と同じ世界を体験しているようだ。
調べを進めているうちに、この現象が日本だけではなく世界中で発生していることに気付いた。まだ騒いでいる者はいないようだが、異世界で真名を手に入れた者が現実世界でも真名術を使えると分かれば、必ず騒ぎとなるはず。
「誰か相談できる人がいればいいんだが」
冬彦の顔が脳裏に浮かんだ。奴に話したら絶対にしゃべる。そう判断し即座に排除した。
その時、冬彦の代わりに脳裏に浮かび上がった顔があった。雅也の出身大学である明神中央大学の物理学教授であった人物だ。
恩師である神原教授は、退官し独自の研究を続けているはずである。自宅は横浜にあり、一度招待されたことがあった。
日本では珍しい建築物理学の権威だが、趣味で様々な研究をしており学生の中では人気が高かった。スマホに連絡先が残っていたので連絡してみた。
教授は快く相談に乗ることを承知してくれた。電車で近くまで行き、徒歩で教授の家まで行く。教授の家は、ちょっとした庭のある普通の家だ。
出迎えてくれたのは、教授のお嬢さんだった。雅也の胸が思わずドキッと高鳴る。二十代前半、教授には似ていない小動物を連想させる可愛い女性だ。
書斎で待っていた教授は、最後に見た頃より歳を取ったと感じた。髪が真っ白になり、顔に刻まれたシワが深くなっている。
雅也は明晰夢の話をした。雅也が真名について話そうとした時、
「ちょっと待て、夢の話なんだな。儂にとっては専門外だ」
教授はなぜだか娘を呼んだ。先程出迎えてくれたお嬢さんが、部屋に入ってくる。
「小雪は、大学で心理学を専攻しておる」
拒否することもできず、もう一度明晰夢について話した。父親と同じところで娘も話を止めた。
「聞いた限りでは、単なる明晰夢のようですね。ただ連続で同じ夢の続きを見るというのが変です」
「そう、これが本当に夢だったら、そうなんですが……夢じゃなく実在する異世界のようなんです」
父娘の目が、かわいそうな人を見るような目に変わる。
「その目はよしてください。理由があるんですよ」
「理由? どんな?」
雅也は世界中に同じような明晰夢を見る人が、大勢いることを一つ目に挙げた。
小雪がちょっと首を傾げ考え始める。その様子が可愛いので、雅也は見詰めてしまう。
「おい、君。汚れた目で小雪を見るんじゃない」
雅也は慌てて視線を逸らし、
「汚れた目というのは酷いな。あんまり可愛かったんで、見てしまっただけですよ」
小雪が頬を赤く染める。
「もう、聖谷さんたら」
それを見た教授の目が、険しいものに変わる。
「手を出したら……分かっているな」
教授の目が本気だった。
「も、もちろんです、教授。ところで、理由はまだあるんです」
「それは何かね?」
「話に出た真名なんですが、どうやら頭の中にあるようなんです」
教授が、やれやれというように溜息を吐いた。完全に疑われているようだ。
「魔源素の存在を証明できます」
「どうやって証明するのかね?」
「魔源素を集め、物を動かすことができます」
「まさか、手品でも見せようというのではないだろうね」
「手品を疑うのなら、何をどのように動かすか、教授が指定してください」
教授がいたずら小僧のようにニヤッと笑った。
「ならば、秘蔵の和菓子消しゴムコレクションの中から、たい焼きを持ち上げてみせよ」
神原教授は、消しゴムコレクターのようだ。壁際に並んでいる収納ケースの中に、コレクションのケースがあり、中には数十種類の和菓子消しゴムが入っていた。
雅也は教授が変わり者だと知っていたが、思っていた以上に変な人物のようだ。ちなみに、たい焼きの消しゴムを選んだのは、自分のコレクションを自慢したかっただけらしい。
教授はたい焼き消しゴムを取り出し、机の上に置いた。五センチほどのたい焼きそっくりな消しゴムである。
「さあ、動かしてみろ」
雅也はたい焼き消しゴムに手をかざし、精神を集中する。魔源素を掻き集め、たい焼き消しゴムを包み込む。
「んんん……」
さらに集中した雅也は、唸るような声を上げながら、魔源素への制御を強化する。たい焼き消しゴムが揺れゆっくりと持ち上がる。
教授が目を飛び出さんばかりに驚いている。その後、二人はからくりがあるんじゃないかと探し始めた。だが、見付からない。最後には事実を受け止めた。
真名術が存在すると認めた神原父娘は、雅也から搾り取るように異世界と真名術について知識を吐き出させた。おかげで雅也は疲れ果ててしまう。