scene:73 新しい産業の始まり
迷宮から戻ったデニスは、七階層での戦い方を検討した。
(あの雪原が曲者だな。降り積もった雪がシャーベットのように固まっているから、新雪のように沈むことないんだけど、力を入れると崩れるのか)
それに加え、あの雪原を走った時に何度か足が滑って転びそうになったのを思い出す。雪山登山などで使うアイゼンが必要かもしれない。アイゼンというのは、鋭い金属の爪の付いた滑り止めで、靴に装着して使うものだ。
カンジキも考えたが、足が沈んでも『怪力』を使えば力尽くで抜け出すことは可能だ。カンジキを履くと素早い動きが阻害される。アイゼンで滑らなくする方が動きやすいと判断した。
大雪猿との戦いにおける戦術も検討事項の一つだ。確実に倒すには、雷撃球を二回命中させることが必要だった。雷撃球を連続で二回放つことはできる。それをいかに素早く確実に当てるかが、大雪猿と戦う時の鍵になるだろう。
「このことはアメリアたちにも知らせて、雷撃球を二回連続で放つ練習をさせた方がいいな」
デニスは雷撃球を一〇〇パーセント命中させられるとは考えていなかった。なので、複数で一匹の大雪猿を倒すことを基本戦術とするように決める。
但し、攻撃の中心が雷撃球なので雷撃球を放つ技術が重要になる。雷撃球を連続で放てる回数は二回が限度らしい。続けられない原因は、一度に魔源素や魔勁素を真力へ変換する量に限界があるからだ。
さらに雷撃球による攻撃を強化する方法を思い付いた。雷撃の指輪の活用である。問題はまたも転写作業に使う歌だ。雷・稲妻を連想するような歌は何になるのだろう。
翌日、デニスは訓練場にアメリアたちや兵士を集め雷撃球の訓練を行うように指示を出した。
「何でまた雷撃球攻撃なの?」
アメリアが首を傾げた。リーゼルたちも理由が分からないようだ。
「昨日、七階層に行ってきた。雪原が広がっている場所で、氷雪樹の森があったんだ。そこで大雪猿と戦った」
「大雪猿って、どんな魔物?」
「白い毛皮の大猿だ。凄く力が強くて『剛力』の真名を持っている」
フィーネが『剛力』と聞いて喜んだ。
「『剛力』、欲しい」
体重の軽いフィーネたちは、斬撃の重さが不足していることが弱点となっていた。それを解消するために『剛力』が利用できると知っているのだ。
「そのためには、大雪猿に確実に雷撃球を二回命中させねばならない。そのための訓練だ」
デニスは大雪猿と戦った時の状況を説明した。それを聞いて、アメリアたちと兵士たちは納得する。
魔物が強くなるに従い、倒した数が少なくても真名を得られる可能性は高くなる。スライムなら連続で数十匹も倒さないと真名を得られなかったが、大雪猿ほど強い魔物になると、多くとも連続で一〇匹ほど倒せば真名が手に入るだろう。
「デニスさん、私たちの防寒装備は、いつ頃用意できるんですか?」
「リーゼルさんやアメリアたちのものは、三日後だな」
その頃、カスパルはクリュフに到着していた。兵士たちと一緒に糸を扱っている問屋に向かう。クリュフの中心街から東に離れた場所に、その問屋はあった。ミゼルタ商会という店だ。
二階建ての店の背後には、大きな倉庫がある。カスパルは糸の束が積まれている荷車を引いている兵士たちに、ここで待つように頼んだ。
「いらっしゃいませ」
店の主人らしい男が、カスパルに声をかけた。
「ご主人ですか?」
「はい、ヘンリック・ミゼルタです。お客様は?」
「ベネショフ領の次期領主デニス様から依頼されて、綿糸を売りに来たカスパルと申します」
「ほう、ベネショフ領で糸紡ぎを始められたのですか」
「ええ、これです」
カスパルは綿糸の束をヘンリックに渡した。ヘンリックは、時間をかけて値踏みする。
「綺麗に太さが揃った細糸ですか。丈夫そうな糸でございますね」
「ベネショフ領で紡がれた特別な糸です」
ヘンリックは強さを調べた後、カスパルにどれほどの量があるかを確認した。
「同じ量の束が、四二六束でございます」
カスパルとヘンリックは雑談という形で、お互いの腹の探り合いを行い相手が信用できそうだと判断した。
「ベネショフ領で、大々的に紡績を始められたというのは本当のことらしいですな。如何でしょう、一束大銀貨七枚では?」
「ヘンリック殿、今現在糸が不足していると聞いています」
相場より安いと感じたカスパルは、価格交渉を始める。結果、一束大銀貨八枚で決着。
合計すると金貨三四〇枚と大銀貨八枚となった。綿を金貨七五枚で購入しているので、四倍以上になったことになる。
カスパルは外で待っていた兵士たちに、糸の束を倉庫へ運ぶように頼んだ。兵士たちは荷車を店の裏口から中に入れ、ヘンリックの立ち会いの下に納品した。
「確かに、四二六束。品質も問題ないようです」
品物を確認したヘンリックは、カスパルに代金を支払った。大金を受け取ったカスパルたちは、クリュフで一泊して綿を仕入れてからベネショフ領へ戻った。
仕入れた綿は、前回デニスが仕入れようと思った綺麗な綿ではなく、種子の付いている未加工のものである。カスパルは五分の一の価格で仕入れることができた。
一方、ベネショフ領の綿糸を手に入れたヘンリックは、その糸を領主クリュフバルド侯爵が運営する機織り工場に売り込んだ。
上質の綿糸が手に入ったことが、侯爵家の従士長であるヨルクにより侯爵に知らされた。
「本当に、探していた上質の綿糸が手に入ったのか」
クリュフバルド侯爵が確認した。ヨルクはヘンリックから買い取った綿糸の束を、侯爵へ見せる。
侯爵は上品質の細い綿糸を必要としていた。王族は昔から木綿の下着を着用する習慣があり、その木綿を織るために必要な上質の綿糸を探していたのだ。
「はい、糸問屋のヘンリックが売りに来たものです。上品質に分類される四二六束を仕入れました」
「なんと、それほどの量がどこで作られたのだ?」
「ベネショフ産だそうでございます」
クリュフバルド侯爵が厳しい顔になり、
「またしても、ベネショフか。このところベネショフ領で新しいことが続けざまに起きている。何があるのか、調べねばならんな」
「はっ、そのように手配いたします」
クリュフバルド侯爵の屋敷でベネショフ領が話題になっている頃、カスパルがベネショフに帰還した。カスパルは家で一休みすることもなく、領主の屋敷に向かう。
屋敷でデニスを探し当てたカスパルは、綿の購入代金を差し引いた綿糸の売上金をデニスに渡した。
「さすがに気疲れしました。これだけの商売は始めてのことでございますから」
「助かったよ。これは手間賃だ」
デニスは金貨一〇枚をカスパルに渡した。
「ありがとうございます。苦労した甲斐がありました」
カスパルがほくほく顔で喜んだ。
デニスも大金を手にして喜びを噛み締めていた。だが、一方でベネショフで導入した新しい技術をどうするかで悩んだ。
地球の産業革命では多くの発明家が、新しい機械や仕組みを考え出し世の中に広めた。しかし、その発明家の大部分が成功者として幸福に暮らしたかというと、そうでもない。
特許を取得しても、無断で発明を模倣する者が現れたからだ。また、新しい紡績機械や機織り機の普及により、仕事を奪われるのではないかと感じた単純労働者たちが、それらの機械を打ち壊すラッダイト運動を起こし、社会は混乱した。
「世の中は急激な変化を好まないということか」
新しい紡績機械や綿繰り機などの存在を公表し世の中に広めるのは、慎重にしようとデニスは考えた。
「僕はベネショフ領の繁栄を第一に考えなきゃならない立場だからな」
資金を手に入れたデニスは、今度は木綿を織るところまで行い、領民にちゃんとした衣服を与えようと考えた。
まずサンジュ油の製油所や紡績・織物工場で働く者たちに制服として配布するところから始めるのが良いかもしれない。
その一〇日後、エグモントが帰ってきた。無事に説得が成功したようで、三人の機織り技術者を連れ帰る。これで機織りを始める準備ができた。
戻ったエグモントとデニスは、お互いに報告を行った。エグモントはダリウスでの出来事を語り、デニスは七階層での戦いと綿糸を売ったことを報告した。
「そうか、綿糸は売ったのか。それでどれほどになったのだ?」
デニスは金貨が入った袋をテーブルの上に載せた。
「こ、これは……」
袋の中に入っている金貨を見て、エグモントは驚きの声を上げた。そして、安堵したような顔をする。
「これで借金を返せそうだな」
エグモントとデニスは、多額の借金を返す目処が立ったことを喜んだ。大火災から一〇年、苦しい生活が続いたベネショフ領で、領主一族や領民の生活を好転させる切っ掛けとなる事業の始まりだった。
ただ新しい事業には困難が付き物である。順調に回り始めた領地経営を嫉妬する他領の貴族や豊かになりそうな領地の権益を求めて近づく者たちも増えるだろう。
デニスやエグモントの苦労は、終わりとなりそうになかった。




