scene:72 七階層の大雪猿
エグモントがベネショフ領を離れたので、デニスがエグモントの代わりを務めることになった。エグモントが日頃行っている仕事は、領地の各町村の長から上がる報告を整理することである。穀物の収穫高や災害などの被害、補修する必要のある道路など様々な情報が領主の下に届けられる。
領主はそれを吟味し確認しなければならない。場合によっては現地まで行って確かめねばならず、領主という仕事は忙しい。
ベネショフ領の問題は、これらの情報を整理してくれる官吏が存在しないことだと痛感した。こんなことを領主とカルロスの二人だけでやっていれば、忙しくて他のことができなくなる。
デニスが始めたサンジュ油の製油と紡績業、さらには織物業も始まる。それらの情報も領主に集まるのだ。エグモントとカルロスの手に余るのは目に見えていた。
「少なくとも、三人から五人の官吏が必要だな」
問題はどうやって官吏を育てるかだ。他から官吏を雇うというのは難しい。どこの領地も優秀な官吏は手放したくないからだ。無理に引き抜けば恨まれるだろう。
ドアをノックする音がした。デニスが入るように言うとエリーゼとマーゴが入ってきた。エリーゼの手には、お茶を載せたトレーがある。
「少し休憩したらどう?」
休まずに仕事をしていたので心配したのだ。母親らしい気遣いに感謝して、デニスはお茶を受け取った。
「領主の仕事は大変でしょう?」
「ちゃいへんでしょう?」
マーゴがデニスの膝によじ登ろうとしながら、母親の真似をする。デニスは固まっていた顔の筋肉を緩めて、マーゴに笑いかけた。
デニスはマーゴを抱え上げ膝の上に乗せた。その姿勢で母親の方へ視線を向ける。
「大変だけど、大丈夫。各地からの知らせを整理してくれる官吏が欲しいと考えていたところなんだ」
「あらっ、やっと官吏を雇うほどの余裕がうちにもできたのね」
エリーゼは長年エグモントが苦労していた様子を見ているので、嬉しそうな声を上げた。
デニスは官吏を育てようと考えていることをエリーゼに話した。すると、エリーゼが何人かの候補を挙げる。母親同士の情報網で、頭のいい子供を知っていたのだ。
「ありがとう。父上と相談して決めるよ」
マーゴの癒やしと母親の応援でやる気を回復したデニスは、やっと報告を纏め終わった。実際にやってみて感じたのは、報告書の形式がバラバラなので必要な情報が読み取り難いという点だ。
報告書用のフォーマットを統一し、ガリ版か版画で報告書用紙を作って各町村に配布するのが、良いかもしれない。また、質の悪い紙を使っているので、インクが滲み字が読めなくなっている場合がある。
インクや紙の改良には時間がかかるので、鉛筆を作って使ってもらうのが早いだろう。これらの意見をカルロスと相談して意見書として纏めエグモントに提出する準備をした。
デニスが領主の執務室を出た頃には、日が沈み始めていた。
「ああ、肩が凝った」
ダイニングルームでは、リーゼルとアメリアが迷宮から帰って食事の用意を待っていた。二人は六階層でサトウカエデに似た樹を見つけたらしい。
「樹に穴を開けて、出てくる樹液を舐めてみました。すごく甘かったです」
リーゼルが嬉しそうに報告した。その樹液を煮詰めたものが、メープルシロップやメープルシュガーになるかもしれない。
デニスはリーゼルに樹液を集めてくるように頼んだ。樹液を集める壺や木に穴を開ける道具を用意することを約束した。
「デニス兄さん。あの樹液は甘かったけど、集めてどうするの?」
アメリアも舐めたようだ。デニスは煮詰めると蜂蜜のように甘くなると教える。それを聞いたアメリアは目を輝かせた。俄然、興味を持ったようだ。
倉庫で製糸作業を行っている領民が、綿の残りが少なくなっていることを報告した。デニスは雑貨屋のカスパルを呼んで相談した。
「カスパル、このまま製糸の作業を続けて、父上が機織り職人を連れ帰るのを待った方がいいか。それとも出来上がった糸を売って、綿を購入した方がいいだろうか?」
「今は、糸の相場が上がっているわけではありません。しかし、糸は不足気味です。糸を売って綿を買うのがよろしいかと」
デニスは糸を売ることに決めた。カスパルに兵士数名を付けてクリュフに送り出す。
残ったデニスの下に、防寒装備が出来上がったと知らせが来た。表地は鎧トカゲのドロップアイテムである皮で裏地はクリュフで購入した手触りの良い綿織物である。表地と裏地の間には綿を入れ体温が逃げないようにしてある。
デニスは領主の仕事を早めに切り上げ、迷宮に向かった。デニスは防寒着を風呂敷のような布に包んで迷宮に入った。六階層まで進み、ボス部屋から七階層に下りる。
七階層の入り口で防寒着に着替え、降り積もった雪の中に出る。七階層は六階層と同じくらいの広さがありそうだ。広い雪原の中になだらかな丘があり、その向こうに針葉樹の森が見えた。
防寒着は十分に役割を果たした。数十分歩き回っても寒さで身体が動かなくなるようなこともなく、手足がかじかむこともない。
森の樹は『氷雪樹』と呼ばれているもので、迷宮特有の樹木だった。魔源素を吸収して成長する氷雪樹は真っ赤な実をつける。
その実は解熱剤の材料として有名だ。ただ実を狙って集まる魔物もいる。大雪猿と呼ばれる白い毛皮の大猿だ。それに体長が一五〇センチほどもある氷雪ボア。
迷宮に関する資料の中に、氷雪樹が存在するところには高い確率で大雪猿か氷雪ボアのどちらか、あるいは両方がいると書かれていた。
デニスは氷雪樹の森に近づき偵察した。氷雪樹の幹は直径五〇センチほど、その樹が大きく揺すられた。揺すられた樹の根元には白い大猿の姿がある。
「うわっ、大雪猿だ。まるでイエティだな」
雅也の記憶にある伝説の存在が脳裏に浮かんだ。大雪猿は剛力を活かして樹を揺すり実を落としているようだ。雪の上に赤い実が落ちる。
大雪猿が実を拾い上げ口に放り込み、美味しそうに食べた。その大雪猿の周りに仲間はいないようだ。デニスはいくつかの真名を解放し、緋爪を鞘から抜く。
緋色に輝く刃が大雪猿の目に入ったようだ。大雪猿が雪を蹴散らしてデニスに迫ってくる。まず雷撃球を大雪猿に向けて飛ばした。
雷撃球は大雪猿に命中し火花を散らして爆ぜる。ダメージを受けた大猿が大きく吠えた。だが、そのダメージを気にする様子もなく迫ってくる。
六階層のオークも雷撃球一発では動きを止めることはできなかったが、動きが大幅に遅くなり次の一発で大きなダメージを与えることができた。
なのに、大雪猿はスピードがほとんど落ちない。デニスは迫ってくる大雪猿に対して、二発目の雷撃球を放った。
その雷撃球も命中。大雪猿は積雪の上に倒れた。悲鳴を上げて転がった大雪猿は、起き上がってヨタヨタしながらデニスに歩み寄る。
デニスは緋爪を大雪猿に向けた。『怪力』で強化された斬撃は大雪猿を切り刻む。倒れた魔物は塵となって消えた。
「雷撃球二発で弱らせてから止めを刺せば、アメリアたちでも倒せそうだな」
デニスは大雪猿が揺すっていた樹まで行き、落ちている実を拾い始めた。十数個の実を拾い上げた時、大雪猿の吠え声が聞こえた。
三匹の大雪猿がデニスを目掛けて駆け寄る姿が目に入った。降り積もっている雪を宙に舞い上がらせ、ラッセル車のようなパワフルな勢いで迫ってくる。
「ヤバイ」
デニスにそう思わせるほど、大雪猿のパワーが凄まじかった。
デニスは撤退することにした。六階層へ通じる穴まで逃げようとした。だが、大雪猿ほどのスピードは出せない。力を入れて雪原を蹴ると足が雪に埋まってしまう。
固まっていると感じていた積雪が、『怪力』の力に負けて穴が開いてしまうのだ。デニスは逃げるのを諦め、迎撃の体勢を取る。
装甲膜を展開し、『雷撃』と『怪力』をいつでも使えるようにする。
死闘が始まった。まず雷撃球で一匹の足を止める。連続で素早く撃ち出した雷撃球が先頭の大猿に命中し雪原に転ばせる。
二匹の大雪猿が同時に腕を振り上げ、デニスの頭上に振り下ろした。飛び退いて躱すデニス。雪原に振り下ろされた大きな拳は、爆発したように雪を舞い上がらせる。
「喰らえ!」
デニスが走りながら雷撃球を放つ。命中した雷撃球のダメージで、一匹が僅かに遅れ始める。その間にノーダメージの大猿と対峙したデニスは、斬撃を放った。
大雪猿の胸に大きな傷が刻まれた。それでも死なない魔物の首に緋爪の刃を当て撫で切る。雪原に大猿の頭が落ちた。
その時、一発だけ雷撃球を喰らった大雪猿が、デニスの胸にパンチを放った。あまりにも至近距離だったので、左腕でガードすることしかできなかった。
撥ね飛ばされ、雪原を転がるデニス。呻き声を上げながら起き上がった。装甲膜でガードしていたはずなのに、左腕が折れている。
「痛えぇ!」
ダメージを受けたことを知った大雪猿、止めを刺そうと近づいた。もう一度腕を振り上げたところに、デニスは飛び込んで斬撃を放つ。魔物の首から胸にかけて斬り裂いた。
二匹目が倒れ、最後の大雪猿を見る。二発の雷撃球を喰らった魔物は、ヨタヨタしながら近づいてくる。デニスは止めを刺した。
その瞬間、デニスの頭に『剛力』の真名が飛び込んだ。だが、デニスの中には『剛力』の上位互換である『怪力』がある。『剛力』は『怪力』に統合され消えた。上位互換の真名がある場合、統合されるようだ。
デニスは治癒の指輪を使って折れた腕を治療した。帰ろうとした時、雪原に白い毛皮が落ちているのに気づいた。久しぶりに手に入れたドロップアイテムだ。この白い毛皮は、防寒装備として使えそうだった。




