scene:58 コンサート
コンサートホールに大きな悲鳴が響き渡った。雅也はミュワワを抱え上げた。そして、警護の警官のところまで飛ぶように走る。
「俺は犯人を追うので、警護を頼む」
有無を言わさず、ミュワワを警官に押し付けた。
犯人は軽業師のように天井から非常階段へ逃げていた。雅也も非常階段へ向かう。警護の警官が一人だけ、雅也を追い駆け始める。
非常階段を下りた犯人に、雅也は追い付いた。
「逃さんぞ」
マスクの下で、男が笑ったように見える。
雅也は戦いに備えて『装甲』『加速』の真名を解放。犯人は雅也よりも小柄だ。そいつが持っていた棒を構える。
相対した二人は、ジリジリと間合いを詰め始める。一気に飛び込まないのは、相手の力量が分からないからだ。最初に犯人が仕掛けた。
素早く雅也の懐に飛び込んで、棒を雅也の首に叩き込もうとする。その一連の動作は、普通の者なら反応できないほど速い。だが、宮坂師範と修業している雅也にとって対応可能な速度だ。棒を持つ手首を掴んで捻り、投げ飛ばす。
犯人は地面に叩きつけられた衝撃で棒を手放した。だが、素早く起き上がった犯人は、前蹴りで雅也の金的を狙う。
雅也は腕を交差し十字受けで蹴りを受け止める。軽く蹴ったように見えた蹴りだったが、身体が浮き上がるほどの威力があった。何らかの真名術を使っているのだろう。
雅也は反撃に出た。一度離れた犯人の懐に飛び込み、チョコンとローキックを繰り出す。犯人は威力のなさそうなローキックに油断した。このローキックは宮坂師範から教わった特別なものだ。
「うぐっ」
マスクの下から呻き声が漏れた。通常のローキックとは違い、筋肉を骨から引き剥がすような痛みが走ったはずだ。犯人が警戒して離れる。
その蹴りで、犯人は本気になったようだ。ドンという音が響き、犯人が瞬間移動したように雅也に迫った。常識はずれの高速回し蹴りが雅也を襲う。
腕でガードするが、押し込まれて吹き飛ばされた。雅也の身体が宙を舞い、道路標識に叩き付けられる。
「おい、大丈夫か」
追い付いた警官が、雅也に声をかける。その声で犯人が逃げ出した。雅也が起き上がった時、その姿は大通りの人混みの中に消えた。
「素早い奴だ」
警官はくの字に曲がった道路標識を見てから、雅也の身体を確認した。平然と立ち上がって動いている。
「本当に、大丈夫なのか?」
「問題ない」
雅也はコンサートホールに戻った。ミュワワは落ち着いたようだ。
「あ、あのー、ありがとうございます」
ミュワワが小動物のように可愛くピョコンと頭を下げて感謝する。
コンサートは中止になるかと思ったが、そのまま行うことになった。狙われているミュワワだけを休ませるという方法もあるが、グループのトップアイドルであるミュワワが出ないコンサートだと客が騒ぎ出すという意見もあり、予定通りということになった。
リハーサルが再開され、アイドルたちは先ほどの騒ぎを忘れたかのように歌い始める。雅也はアイドルたちの逞しい根性を見直した。
他のメンバーが歌っているのを見ていたミュワワが、雅也に話しかけた。
「おじさんは、普段アイドルなんかには興味ないんですよね?」
「まあ、そうだな」
「私たちって、魅力がないですか?」
雅也はちょっと困った。
「そう言うわけじゃない。若い子が元気一杯に歌ったりダンスしたりしている姿は、見ているだけで元気をもらえそうだ。だけど、何か物足りないものを感じる」
雅也は自分で言ってて、おじさん臭いと思ってしまった。三〇代は若いと思っていたんだが、舞台で歌っている少女たちに比べると、おじさんだと感じた。
「物足りないもの。何ですか、それ?」
「簡単に言えば、未完成ということかな」
「それは、練習が足りないということですか?」
「それもあるけど、一番足りないのは経験じゃないか」
「それは、どうしようもないです」
「そうだけど、地道な発声練習だけは続けた方がいいよ」
「それは分かっているけど、地味に辛いんです」
「知ってるよ」
「えっ、歌の練習したことがあるんですか?」
「ある事情で、歌が上手くなる必要があったんだ」
コンサートの準備が進み、コンサート当日。雅也は舞台裏で警護することになった。舞台の上では、少女たちが歌い、跳び跳ねている。遠い世界を眺めているような気分になる。
中盤に近づいた頃、今までの軽いテンポのものとは違う曲が流れた。学校の音楽の時間にも合唱曲として歌われることがある『BELIEVE』という曲だ。
この曲を聞いて、雅也は思い出した。高校生だった頃、交通事故に遭い一〇日ほど入院したことがあった。その時クラスメイトから、この曲を合唱し録音したCDをもらったことがある。
ベートベンのような頭をした音楽教師のアイデアだったらしい。入院中、その曲を繰り返し聞いた記憶が蘇った。
「この曲なら、『治癒』の転写に合うかもしれない。試してみよう」
そんなことを考えていた時、照明の明かりが消えた。コンサートホールが闇となる。音楽も止まり、ミュワワたちの歌も止まる。
「気をつけろ。襲ってくるかもしれんぞ」
警護の警官が声を上げた。
雅也は犯人の気配を探った。だが、客席やアイドルたちが騒ぎ始める。これでは気配も感じ取れない。
薄暗闇となった客席から一人の男が立ち上がり、舞台に近づく。その手にはナイフが握られていた。その男は遠くにある非常灯の明かりしかない薄暗闇の中で、迷うことなくミュワワに近づいていく。
非常灯の光だけでは、隣にいる人間の顔さえ見分けられない状況である。その中でミュワワを特定し確実に近づく男は、見えているとしか思えなかった。
ミュワワたちは寄り添って、どうしたんだろうと小声で話し合っていた。ミュワワの背後に立った男は、ナイフを振り上げた。
その瞬間、男の脇腹に雅也の回し蹴りが減り込んだ。男の身体が吹き飛び、壁にぶち当たって舞台の上に転がる。照明が消えてから十数秒の間に起きたことだった。
「な、何?」「何の音?」
アイドルたちが声を上げた。この頃になって、客の一部がスマホの電源を入れ、ライトの機能を使い始めた。警官の一人もスマホで、犯人の姿を照らす。
「こいつは?」
「ナイフで襲おうとしていた。逮捕してくれ」
雅也が冷静な声で指示した。警官たちは雅也が攻撃したのだと分かり、男に手錠をかけ逮捕する。
肋骨が何本か折れた手応えを感じたので、当分逃げることはできないだろう。但し、男が『治癒』のような真名を持っていないならばである。
ちなみに、雅也は『嗅覚』の真名を使うことで、男の存在を発見した。
川越会長の孫娘を襲った男は、開発途上国から来た不法就労者だと分かった。一時期、上杉薬品の子会社で働いていたが、首になったらしい。それで男は世田谷区を荒らし回る窃盗犯になった。
窃盗犯として追い詰められた男は、一発逆転を狙って川越会長の孫娘たちを狙ったようだ。男はアメリカ経由で窃盗で稼いだ金を故国に送っており、今回の事件の陰にアメリカのある団体が関与しているのではないかと警察は疑っているようだ。
雅也は今回の事件で大きな収穫を得た。『治癒』の真名を転写する時に使う曲が分かったのだ。試してみると成功した。
雅也は五つの魔源素結晶に『治癒』の真名を転写し『治癒迷石』を作った。その治癒迷石を五つ並べて指輪を作ったものの、怪我をした者がいなければ使う機会がない。
指の先をちょっとだけ切って使ってみて機能することは確かめてある。ただ、どれほど効果があるのかが分からない。ちょっとした切り傷の治りを早くするだけなら不要だ。
神原教授に相談してみると、友人に医学部の教授がいるので頼んでみると言ってくれたので、治癒の指輪を教授に預けた。
神原教授は、友人である西帝大学の主任教授である三河忠宏に会い、治癒の指輪のことを説明し効果を確かめて欲しいと頼んだ。
三河は、白い髭を蓄えた老紳士である。
「長い付き合いのある君の言葉でなければ、冗談を言うなと怒るところだよ。だが、明日からドイツへ行くことになっているのだ。帰国してからでも構わないか?」
「もちろんだ。但し、その指輪は貴重なものだ。肌身離さず持っていてくれよ」
治癒の指輪は主任教授の手に渡った。そして、国際学会に出席する三河と共にドイツのフランクフルトへ旅立つことになる。




