scene:52 網元とデニス
国王に発光迷石ランプを献上したデニスは、領民の生活調査を始めた。ベネショフ領の主力産業は、漁業とライ麦栽培である。
どちらも規模が小さく、家族が生きていくだけで精一杯だという家庭が多かった。
「この地域は、小麦が上手く育たないのか。土壌が痩せているのかな」
付近の畑を調査したデニスが呟いた。
地球のライ麦は、寒冷な気候や痩せた土壌などの劣悪な環境に耐性がある。これは雅也が調べてくれた情報だ。この国のライ麦も同じなら、ここの土壌が痩せている可能性が高い。
農業の生産性を高めるためには、肥料を用意する必要がある。雅也が調べてくれた農業関係の情報の中には、肥料についてのものもあった。
日本という国では、人糞を肥料として使っていたらしい。だが、そのまま使うと作物が根腐れすることがあるという。そこで肥溜めに溜め発酵させて利用していたらしいのだが、人糞の細菌や寄生虫が作物に付着することがあったようだ。
動物の排泄物をきちんと発酵させると七〇度くらいの温度になり、その熱で細菌や寄生虫は死滅するらしいのだが、例外的に生き残って作物に付着する可能性はゼロではないようだ。
ただ衛生面からいうと、ベネショフ領の衛生環境は良い状態ではない。肥料からでなくとも細菌や寄生虫を取り込む恐れが高く、ことさら肥料の細菌や寄生虫を恐れることより、食糧不足で栄養失調になることを心配するのが先だ、とデニスは感じた。
但し、この国では人糞を肥料として使っていない。領民に使えと言っても、嫌がる恐れがある。
「農民たちは、落ち葉や生ゴミを肥料化して使っているのか」
落ち葉や生ゴミだけでは、十分な量の肥料にならないことに、デニスは気づいていた。検討した結果、魚肥の可能性が頭に浮かんだ。
ベネショフ領の近海には、イワシに似た魚が豊富に存在する。その魚を網を使って漁獲し、煮沸してから圧搾し油を抜いた上で乾燥させ魚肥として使えばと考えた。
魚油は石鹸やマーガリンの材料として使えるようだ。煮沸には燃料、圧搾には労力が必要なので、農民が片手間に行えるようなものではない。
デニスは漁師が住んでいる海岸付近の地区へ向かった。
貧相な家が多いが、一軒だけ豪勢な屋敷が見える。デニスの耳に、騒がしい声が聞こえてきた。誰かが言い争っているようだ。
「いくら網元だからって、酷いじゃないですか」
「そうだ。俺たちの取り分が、これだけっていうのはないだろ」
網元と漁師が言い争っているらしい。網元というのは、漁網や大きな漁船を所有する漁師のリーダー的な存在で、ここ一帯の漁師を束ねている。
「どうして、俺たちの取り分が少なくなっているんだ。説明してくれ」
若い漁師が掴みかからんばかりに、網元に迫った。網元は巨漢である。テレビで見た相撲取りの姿がデニスの頭に浮ぶ。実際は雅也の頭から引っ張り出した記憶だ。
「五月蝿い。網を新しくしたり、船を修理したりで金がかかったんだ。仕方ないだろ」
本来は漁網や漁船にかかった費用は、網元が負担することになっていた。だからこそ網元の取り分が多くなるように決められている。
「そんな馬鹿な。それは網元が出すべき金じゃないか。何で俺たちが出すんだよ」
「それじゃあ、お前は網も船もなしで漁に出るか。いいんだぞ。儂の船に乗りたいという若い奴らは大勢いるんだ」
「先代の網元さんの時には、きちんと分けてくれたぞ」
「死んだ人間のことを言っても、しょうがないだろ」
網元はゲルトという名前の男だった。エグモントを訪ねて来たことがあり、デニスも顔を知っている。エグモントの前では、頭を低くして真面目な漁師らしく振る舞っていたが、これが本性のようだ。
抗議に来た漁師たちは、網元の屋敷から追い出された。デニスは漁師たちに事情を聞くことにした。
「先代の網元さんが亡くなって、ゲルトの奴が継いだんだけど、あいつは金の亡者なんだ」
「そうだ。何かというと俺たちの取り分を減らそうとしやがる」
「だったら、あんたたちだけで漁に出たらいいのに」
「デニス様は、漁のことは知らねえだろ?」
「詳しくは知らない」
「俺らは漁師だから、小さな船と一本釣りの仕掛けくらいは持っている。だけど、網漁に比べると漁獲高が全然違うんだ」
一本釣りだけだと家族を養うのも難しいらしい。
ここの漁師は、半農半漁でライ麦畑で農作業をしながら漁師も行っている者が多い。漁だけで生活するのは難しいということだろう。
近海で何が穫れるか訊いた。
「そうだな。アダ・メルカ・タチラ・ドトリかな」
アダはタイ、メルカはカツオ、タチラはヒラメ、ドトリはブリに似た魚である。
「チラやテシラは獲らないのか」
チラはイワシ、テシラはニシンに似た魚だ。
「あんな下魚は、獲らねえよ。アダやドトリの方が一〇倍もうめえだろ」
確かにイワシやニシンより、タイやブリの方が美味しいと思う。だけどもったいない。大量に漁獲できれば、利用価値が高い魚なのだ。
網元のゲルトが持ってる漁網は、網の目が大きく小さな魚は逃げられるようになっている。タイやブリを狙っているからだろう。
デニスはゲルトと話し合うことにした。ゲルトの屋敷に行って呼び出す。客間に案内され待たされた。ゲルトが笑顔で現れる。
「ようこそ我が家へ。わざわざデニス様が来られるとは何事でしょう?」
「先ほど、漁師たちと揉めていたな。話を聞いたが、漁師たちの言い分に一理あると思う。どうだ、決められた取り分通りに分配できないのか」
ゲルトはデニスに鋭い視線を向ける。
「ですが、新しい網を買ったり、船の修理で大変なのですよ」
デニスは部屋の中を見回した。領主の屋敷にもないような花瓶やタペストリーが飾られている。どう見ても家計が苦しいとは思えない。
そのことをゲルトに伝えると、まん丸とした顔が不機嫌なものに変わった。
「次期領主とはいえ、漁のことは網元が決めるという昔から習わしがございます。口出しは無用に願います」
どうやら機嫌を損ねたようだ。それ以上、デニスが何を言っても聞く耳を持たなかった。デニスも不機嫌となってゲルトの屋敷を出た。
「丸顔のゲス野郎が……覚えてろよ」
デニスはチンピラが言いそうなセリフを吐きながら屋敷に戻った。
屋敷に戻って、ゲルトのことをエグモントに尋ねた。
「奴の評判が悪いことは聞いている。だが、税だけはきちんと払っているので、放置している。何か問題を起こしたのか?」
デニスは今日見聞したことをエグモントに話した。エグモントは頷きながら聞いていたが、最後には笑った。
「デニスもまだまだだな」
「ですが、父上。このままでは漁師たちが働く意欲を失ってしまうかもしれませんよ」
「デニスはどうしたいのだ?」
「ゲルトの奴を懲らしめて、ちゃんと取り分を分配するようにしたいのですが」
「領主の命令で、ゲルトに命じることは簡単だ。だが、ゲルトとの間に、わだかまりが残るぞ」
デニスが黙って考え始めた。
「どうした。いい考えが浮かばんのか?」
「ゲルトの奴は、潰しましょ。替わりの者を網元にすればいい」
エグモントがちょっと引いた。
「ゲルトの奴。怒らせてはいけない者を怒らせてしまったな」
デニスはエグモントから任せるという承諾を得て動き出した。
まずは、雅也に漁について調べてもらった。その中から、延縄漁と定置網漁に注目した。巻き網漁も候補に上がったが、速度の出る船が必要だったので諦めた。
定置網漁を実践するには、網が必要になる。ベネショフ領にも網職人はいるのだが、小さな網しか作ったことがないという。
大きな網を作れる職人は、ダリウス領に住んでいるようだ。デニスはベネショフ領の網職人をダリウス領へ派遣して、定置網の製作を頼むことにした。
そして、漁船も必要だった。ベネショフ領にいる船大工二人に、大型の漁船を発注した。漁網も漁船も完成するまで時間がかかる。
デニスは若い漁師たちを集め、延縄漁のやり方を教えた。延縄とは一本の幹縄に多数の枝縄をつけ、その枝縄の先に釣り針をつけたものだ。
一度にたくさんの魚が釣れるので、効率がいい。延縄で漁をするようになった漁師は、網元の船に乗るより多くの魚を穫れるようになった。
漁師たちは喜んだが、漁師が集まらなくなったゲルトは激怒した。




