scene:3 探偵事務所
感想を頂きました。
ありがとうございます。
時間的な余裕がなく、質問以外の感想は返信できないと思いますが、よろしくお願いします。
(ネタバレになる質問についても返信できません)
聖谷雅也が目を覚ますと、そこは会社の独身寮だった。新人に人気がなく部屋が空いていたので、二部屋を自分のものとして使っていた。
喉の渇きを覚え冷蔵庫の方へ向かう。中から野菜ジュースを取り出し、グラスに注いで一気に飲み干す。
「ふうっ、また変な夢を見た。何か意味があるんだろうか」
気怠げにアクビをしてテレビを点ける。朝の報道番組では、パリで開かれた国際陸上競技会で世界新記録が樹立されたというニュースが流れていた。
「おいおい、嘘だろ。九.一秒は速すぎだろ」
世界中の陸上競技関係者の間では大騒ぎになっているようだ。ドーピング疑惑も出てきて、この新記録が正式なものとなるかは検査の結果次第だと報道していた。
雅也は出勤する支度を始めた。勤務先は急成長の建設会社。その設計部で仕事をしていた。会社はブラック企業ではないが、人材育成やコンプライアンスは遅れていた。
世界の建設ブームに乗って急成長したからなのか、上層部や先輩たちの意識に驕りが生まれていると雅也は考えていた。
その結果として、営業は許容量以上の仕事を取り、下請けに放り投げることを繰り返していた。
おかげで設計部は大忙しである。雅也は優秀であり、効率よく仕事を捌いたが、それができない者もいた。
出勤した雅也は、後輩たちに挨拶しながら席に着く。パソコンを立ち上げると、いくつかメールが来ていた。
「チッ、総務部の明美ちゃんが寿退社だって……なんてこった」
明美ちゃんは、総務部で一番美人の女子社員である。雅也も気になっていた。
朝からモチベーションが下がった雅也は、サーバーの個別フォルダーに放り込んである設計データを読み出した。これは遊びで設計しているリゾートホテルである。
南国をイメージした青い海が似合うホテルとなっている。暇な時間を費やし遊びで設計したものであるが、基本的な設計は十分に通用するものだった。
ただ遊びで設計したものなので大きな欠陥があった。このリゾートホテルの象徴である二つの塔を繋ぐ空中回廊を見た目重視で設計したので、強度が足りないのだ。
「聖谷、沖縄カルラホテルの設計はどうなった?」
第二設計部の唐木部長が、先輩の高田に振られたはずの仕事について尋ねた。
「それは高田先輩の担当のはずです」
「そうなのか、おかしいな。高田君は君と共同で設計していると言っているのだが」
「あのネズミ野郎……」
雅也が小声で罵った。高田は手柄横取りの名人である。たぶん設計が遅れているので、雅也を巻き込もうとしているのだ。
半年前も嫌な経験をさせられた。高田との共同設計として始めた仕事が、雅也のアイデアで完成間近となった時、高田が仕事が遅れている別チームに応援に行くように指示を出したのだ。
その時、高田の正体を知らなかった雅也は、指示に従い応援に行った。応援先の仕事が片付いた時には、高田が完成した仕事の功績を独り占めにして報告していた。
抗議すると、完成させたのは自分だと言って逆ギレされた。
「私は東京クリーブホテル担当です」
「ああ、昨日提出された設計図を見たよ。いい出来だった。一段落ついたのなら、沖縄カルラホテルの仕事に集中してくれ」
そこに高田がひょこっと顔を出す。
「聖谷ちゃん、頼むよ」
唐木部長と高田の間では、沖縄カルラホテルの仕事に雅也を巻き込むことは決定事項となっているようだ。
雅也は高田を睨んだが、ネズミ顔の先輩は平気な顔で薄笑いを浮かべている。何を言っても無駄だと悟った雅也は、仕事の進み具合を確認することにした。
雅也が進捗を確認すると、高田が薄笑いを浮かべ、
「何を言っているんだ、聖谷ちゃん。今見ていたのが、沖縄カルラホテルじゃないか」
何を言っているのか理解できなかった。だが、時間が経つに連れて分かった。このネズミ野郎は、趣味で設計していた雅也のリゾートホテルを盗んで、沖縄カルラホテルとして提案したのだ。
「ちょっと待ってください。これは……」
高田が小狡そうな顔で口を挟む。
「こいつは就業時間内に、コツコツと設計を進めてくれたものなんだろ」
就業時間内に設計したものなら、会社のものだと言いたいのだろう。だが、納得できるものではなかった。
唐木部長は時間を気にし始めた。
「会議の時間だ。聖谷は進捗状況を後で報告してくれ」
部長を見送った雅也は、高田に噛み付いた。
「冗談じゃないですよ。高田先輩が設計したものは、どうしたんです?」
高田の顔が渋いものに変わった。
「僕の案はクライアントが気に入られなかったんだ。聖谷ちゃんの案があって良かったよ」
どうやら、高田が設計した案が拒否されたので、苦し紛れに雅也の設計を盗んでクライアントに見せたらしい。
「いくら先輩だからって、無断でクライアントに見せるなんて酷いじゃないですか」
「うるさいな……先輩の仕事を手伝えるんだ。光栄に思え」
その言葉にはカチンときた。
「先輩は姑息なんですよ」
言い争いになり、高田が先に手を出した。
「後輩のくせに、生意気なんだよ」
高田がネズミ顔のくせに猫パンチを繰り出した。そのパンチが雅也の肩に当たる。大して痛くはなかったが、怒りが湧き上がる。
「その顔で、猫パンチはないだろ」
「馬鹿にしやがって!」
高田がもう一発猫パンチを放つ。雅也は首を捻るだけで躱し、カウンターパンチを高田の顔に放った。グシャリと鼻の潰れる感触が伝わり、高田の身体が床に伸びた。
女性社員の悲鳴がフロアーに響く。
その後が大変だった。救急車が呼ばれ高田が運び出されると、警察に引っ張られた。
事情聴取され、先に高田が手を出したことが別の社員から証言されると解放された。
「最悪だ……最悪の日だ」
会社に戻ると、唐木部長が待っていた。部長は高田に謝罪すれば、軽い懲罰で済ませると言う。
「なぜですか。先に手を出したのは先輩ですよ」
「君……少しくらい仕事ができるからと言って、先輩に逆らうような行動は感心せんな」
警察署の取り調べで精神的に疲れていた雅也は、部長に反発し高田に謝ることを拒否した。
「あんな人と一緒に仕事なんかできません」
そう言って、会社への不満をぶち撒け会社を出た。実質的な辞職である。
近くの喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら頭を冷やした。冷静になると後悔が湧き出す。
「やばい……やっちまった」
雅也はこれからのことを悩み始めた。会社を辞めれば独身寮を出なければならない。しかも海外の歴史的建築物を見学するのが趣味である雅也には貯金が少ない。
こんな時に頼れそうな人物が頭に浮かぶ。大学の後輩で、手広く食料品を中心に商売をしている物部グループの会長を父親に持つ物部冬彦である。
変わり者だが、経済的には恵まれている人物だ。親からグループ企業の株式を譲られ、その配当金だけで暮らしていけるらしい。
その物部冬彦は、関東の地方都市で探偵事務所を開いていた。繁華街に建つビルの五階に事務所がある。スマホで約束を取り付けた雅也は事務所に向かう。
駅を出て数分で到着。エレベーターで五階に上ると、探偵事務所の看板が見えた。
「冬彦、いるか?」
雅也が事務所に入って声を上げた。奥のミニキッチンから音が聞こえ、体格の良い男が現れた。背丈は雅也より一〇センチ高い一八〇センチほどで、ジムで鍛えたらしい身体は分厚い筋肉で覆われている。
「待ってましたよ」
「冬彦に助けて欲しいことができたんだ」
「先輩には大きな借りがありますから、何でも言ってください」
雅也は少しためらってから、会社を辞めたことを話した。
「良かった。仕事を探しているんですね?」
「良かったって、何だよ?」
冬彦が誤魔化すように笑った。
「まあいい。ついでに住む場所も探さなきゃならんのだ」
雅也は物部グループには建設会社もあったはずなので、そこに紹介してくれることを期待した。だが、冬彦の提案は意外なものだった。
「ちょうどいい。探偵になりませんか?」
「探偵だって……つまり冬彦の部下になれってことか?」
「部下が嫌なら、パートナーでもいいですよ」
雅也が困ったという顔をする。
「いや、部下が嫌っていうわけじゃない。ただ探偵じゃなくて建築士として、どこかの会社に紹介して欲しかったんだが」
冬彦が弱々しくすがり付くように雅也の手を握った。
「先輩、助けてください。この探偵事務所、お客が来ないんですよ」
「いや、でも……」
「お願いします。一時的でもいいんです」
冬彦は必死で懇願した。事情を聞いてみると、この三年間で依頼があったのは三件。絶望的な状況らしい。普通なら、とっくに潰れているところであるが、持ち株の配当とかで十分な収入があるので続けられているそうだ。
「お願いです、先輩」
雅也は、次の仕事が決まるまでなら、と承諾した。新しい住居は、この事務所で寝泊まりしていいと言う。事務所には、ミニキッチンとシャワールーム、トイレがついているので、寝泊まり可能のようだ。
雅也は独身寮にある荷物の一部を探偵事務所に。残りはトランクルームに預けた。
数日、忙しい日を過ごした後、雅也は探偵事務所の奥の部屋で眠った。