scene:30 ファングボア
クールドリーマーの存在が公表され、数ヶ月が経過していた。雅也は探偵事務所の部屋で起き朝食を済ませると、一番に魔源素を掻き集め、魔源素結晶を作り出す。
この作業が朝の日課となっていた。この魔源素結晶は神原教授が研究用に欲しがっているものだ。教授は研究所を立ち上げ、魔源素についての研究を始めていた。
その研究により、魔源素が人間の強い意思に反応すると分かった。但し、人間は意思を体外に向けて発信する能力が発達していない。
『魔源素』の真名には、その能力をアシストする機能も備わっているようだ。また魔源素が音波にも反応することが判明した。ただ意思の場合と比べ、単純な反応しか返さない。
人間の意思はあやふやなもので、体調や気分に左右される。しかし、音波に対する魔源素の反応は確実だ。神原教授は、クラシック音楽を聞いていた時に、魔源素結晶が光るのを見て反応に気づいた。
ある旋律をピアノが奏でた時に、魔源素結晶が光を放ったのだ。神原教授は研究を論文にして発表した。魔源素が存在することを証明したかった教授によるフライングぎみの先走りである。
学会からは、デタラメだと批判されたらしい。そこで魔源素結晶を研究機関に配り検証させた。しばらくして魔源素結晶が未知の物質であり、論文通りの反応を示すことが検証された。
大学の研究者や民間の研究者が騒ぎ始めた。それが広がり政府の研究機関も魔源素結晶の研究に乗り出す。そして、神原教授がどうやって魔源素結晶を手に入れているのかが問題に。
ある日、政府の研究機関に所属する役人が、教授の研究所を訪れた。
「教授、あの魔源素結晶について教えて欲しいのですが?」
「それは企業秘密です。教えることはできません」
役人が納得したように頷いた。
「でしたら、他の誰かから入手したか、この研究所で製造したかだけでも教えて頂けませんか?」
教授は他の者から入手したと言おうとして、雅也に迷惑がかかるかもしれないと気づいた。
「研究所で実験的に試作したものだ」
「素晴らしい。ならば、定期的に手に入れることが可能なのですね」
話が意外な方向へ進み始めたので、教授は慌てた。
「いや、まだ実験的に製造しているもので、定期的にと言われても困る。それに魔源素結晶は希少なものだ。検証用には無料で配ったが、これ以上は困る」
「それは承知しています。我々も正当な値段で購入しようと考えています。いくらで売って頂けますか?」
「すぐには返答できない。考える時間をくれ」
「承知しました。では後日伺います」
神原教授は、その日のうちに雅也に連絡した。探偵の業務が終わってから教授宅を訪れた雅也は、事情を聞いた。
「教授、魔源素結晶を配ったのはまずかったんじゃないですか」
「すまん。デタラメだという者がおったので、証明したかったのだ」
神原教授は研究者としての評価は高かったが、研究馬鹿と呼ばれることもある人物だった。研究以外のことは、あまり真剣に考えないのだ。
「どうするつもりなんです?」
「聖谷君は、自分の設計事務所を立ち上げたいと言っていただろ。その資金を稼ぐチャンスだ」
「ですが、魔源素結晶を売れば、どうやって作っているか調べられますよ」
「今更だね。研究結果を発表した時点で、怪しい連中から詳しく知りたいと連絡があったよ」
「危険じゃないんですか?」
「堂々としておればいいのだ。もし、ちょっかいを出す者がいれば、返り討ちにすればいい。法を犯しているのは相手なのだから」
神原教授には堂々としろと言われたが、雅也は不安だった。その数日後、教授から会社を作るという連絡が入った。
会社は魔源素結晶の製造販売会社である。代表取締役兼研究部門の長が神原教授で、会社の収益源である魔源素結晶を作る雅也は筆頭大株主となった。
神原教授の研究所は、新しい会社に吸収されたという形になる。株は雅也が九割、教授が一割という配分だ。雅也には文句がなかった。
その代わり一日三個の魔源素結晶を作って、教授か小雪に渡すのがノルマとなった。会社は魔源素結晶一個を五〇万円で売る予定のようだ。
未知の物質だとはいえ、直径三ミリの結晶である。雅也には高いのか安いのか判断できなかった。神原教授は、これで研究費の心配をする必要がなくなったと喜んでいる。
神原教授によると、この価格にしたのは、研究用の需要が満たされるまでに稼いでおこうという作戦らしい。教授は高いと思っているのが分かった。
雅也にしても、設計事務所とデニスからの要望を叶えるための資金が欲しかったので文句はない。デニスは領地経営に手助けとなる知識を欲していた。
その知識はネットで調べれば分かる場合もあるが、書籍を購入、専門家を雇うなどしないと分からないものがあるだろう。資金は必要だった。
「雅也さん、夕食はうちで食べていってください」
小雪が雅也に声をかけた。小雪の母親はすでに亡くなっており、家事は小雪がすべてやっている。
「それじゃあ、遠慮なく」
神原家の夕食は生姜焼きと味噌汁だった。
「美味しい。小雪さんはいい奥さんになるよ」
「雅也さんに褒められてもね」
「何だ。俺じゃ不足なの。イケメン以外はNGとか」
「そうじゃないけど、雅也さんと付き合うと漏れなく冬彦所長が付いてきそうで」
そんな風に思われていたのかと雅也は溜息を吐いた。
「冬彦は、基本的にはいい奴だ」
「時々うざいと思う時があるのよ」
冬彦は物部グループの御曹司であり、女性に対して自信過剰な面がある。女性は誰でも自分に気があると考えているようなのだ。
それが言動や行動に影響し、女性から嫌われる原因になっている。独身なのも、そのせいである。
楽しい時間を過ごした雅也は、教授たちに挨拶して神原邸を出た。駅の方向に向かって歩いていると、駅前付近の道路で何か騒ぎが起きていた。
甲高い女性の悲鳴が聞こえてきた。雅也は声のした方向に向かう。人通りの多い繁華街で、サラリーマンらしい男が路上に倒れていた。
サラリーマンの腹から流れ出る真っ赤な血が、雅也の目に飛び込んだ。周りを見回すと信じられない存在が。
雅也は目を擦って、もう一度確認した。
「信じられない。こんな都会にイノシシだと」
体重が七〇キロはありそうなイノシシが、駅前の道路で暴れていた。雅也が観察すると、そのイノシシの牙が異様だった。その牙は色が黒く長い。
雅也の記憶の中に同じような特徴を持つ魔物があった。ファングボア、影の森迷宮に生息する魔物である。
「まさか……ファングボア?」
雅也は倒れているサラリーマンのところに駆け寄り、ファングボアから離れた場所まで運んだ。その間にファングボアが道路に対して斜めに停車しているタクシーに体当りした。タクシーのドアがべコリとへこむ。
タクシーに乗っていた女性と子供が悲鳴を上げる。タクシーは突然現れたファングボアに驚き急ブレーキを踏んだのだろう。運転手は逃げ出し、乗客の女性と子供だけが取り残されていた。
雅也は武器を探した。コンビニの店先に小さな箒が置いてあった。掃除中にファングボアが現れ、置いたまま店に逃げ込んだのだろう。
雅也は箒を拾い上げ、震粒刃を形成する。
「軽い、頼りない武器だな」
タクシーは左側のドアをファングボアに潰され、右側のドアを押さえる格好で後続車が停車していた。乗客は逃げ出せない状態になっている。
パトカーが到着し、拳銃を持った背の高い警官と太った警官がファングボアの前に降りた。
「嘘だろ。こんなところにイノシシ……」
「気を付けろ。イノシシに大怪我を負わされた奴は多いそうだぞ」
警官が到着したので、安心したのだろうか。遠くから恐恐と覗いていた野次馬が近寄ってきた。
「危ないから近づかないで」
警官が大声で警告を発した。その声でファングボアが警官の存在に気づく。
ファングボアが太った警官の方に突進する。雅也は大声を上げた。
「銃を撃て!」
警官は発砲するか迷っているようだ。迷っている間にファングボアと警官が交差した。長い牙が太った警官の太腿を抉り、かち上げる。
警官は宙を回転して、顔面からアスファルトに着地した。周りの音が消え、静かに赤い血が広がる。それを見ていた野次馬が一拍置いてから悲鳴を上げた。
残った背の高い警官が銃を構え、懸命に狙いをつけようとする。ファングボアが盛大に鼻息を荒くして、ブルッと身震いした。
その時、銃声が響き渡った。銃弾はファングボアの肩に命中。ファングボアは痛みを感じたようだ。だが、大きなダメージではなかったようで、敵と認識した警官に向かって叫び声を上げた。
警官が銃の引き金を続けざまに引いた。銃弾はすべてファングボアに命中しなかった。
ファングボアが警官を狙って走り出す。
警官なら何とかしてくれるんじゃないかと期待していた雅也は、舌打ちしてから走り出した。間合いに入った雅也は震粒刃をファングボアの頭に叩き込んだ。
ファングボアの頭が抉れると同時に、武器にしていた箒が粉々に砕けた。ファングボアは一歩二歩と進みガクッと膝を突いた。
雅也は飛び退いて、油断なくファングボアを睨む。次の瞬間、迷宮の魔物と同じように粉々に砕け塵となって消えた。それを見た野次馬たちが、声を失う。
「やはり、ファングボアだったのか……だが、なぜ」




