scene:253 試合会場の惨劇とロシア
世界頂天グランプリの優勝者であるサイラスとロシアの強者キーロヴィチが戦うタイトルマッチが始まろうとしていた。
「仁木さん、どちらが勝つと思いますか?」
最近になって空手道場を開いて軌道に乗った斎藤が尋ねた。
「順当に考えれば、サイラスかな。但し、キーロヴィチはロシアの軍隊格闘技を学んでいるというから、それがどれほどのものかが問題だ」
リングの上でサイラスを睨んだキーロヴィチが、サイラスを指差してロシア語で何か言った。サイラスも意味が分からなかったらしく肩を竦める。
両者を紹介するアナウンスが流れ、試合が始まった。
キーロヴィチが突進してサイラスに回し蹴りを放った。丸太をゴンと叩き付けたような蹴りである。その蹴りを受けたサイラスの肉体が弾き返す。
そのような真名を持っているのだ。サイラスに勝つには、その真名術を上回る力で攻撃を当てるしかない。
キーロヴィチが狂ったように連続で攻撃を放つ。ジャブ・ミドルキック・タックル、そのどれもがサイラスの肉体に跳ね返された。
苛立ったキーロヴィチが吠えて、踏み込んでフックを叩き込もうとしたところに、サイラスがカウンターでパンチを叩き込む。
鍛え上げられた肉体にパンチが叩き込まれた音が響く。それはパンチの音としては異様だった。普通の人間がサイラスのパンチを受けた場合、骨が粉々になり即死したかもしれない。
「凄まじいパンチ力ですね。サイラスさんは何か武術を学んでいるんですか?」
斎藤が仁木に尋ねた。
「武術ではなく、総合格闘技を学んだようだ」
その時、キーロヴィチは眼を血走らせていた。そして、その身体から殺気が溢れ出す。
「あいつ、何をするつもりだ?」
キーロヴィチは危険な真名術を使おうとしていた。それを察知したサイラスが、大声を上げて止めようとする。だが、その声を無視したキーロヴィチは、サイラスに向かって強力な衝撃波のようなものを放った。
サイラスの身体が宙に舞った。それと同時にサイラスの背後で観戦していた人々にも、衝撃波が襲い掛かった。
試合会場が阿鼻叫喚の地獄と化した。口から血を吐き出して倒れる者、額から血を流して悲鳴を上げる者、腹を押さえて嘔吐する者。
その光景は爆発事故の現場のようで、悲惨なものに見えた。観客たちは一斉に騒ぎ出し、出口に向かって殺到した。
宙に舞ったサイラスは場外の床に叩き付けられたが、素早く起き上がりリングに向かって跳躍する。キーロヴィチがサイラスに襲い掛かった。
キーロヴィチの右フックを片手で受け流したサイラスが、キーロヴィチの鼻に頭突きを叩き付ける。ロシア人が仰け反るとサイラスが左拳を胸に叩き込んだ。その瞬間、高圧電流の火花が飛び散る。
その一撃を食らったキーロヴィチが、吠えて反撃する。連続して衝撃波を放ったのだ。その一発が仁木たちの方へも放たれた。
仁木は『障壁』という真名を持っており、その真名術を発動した。縦横二メートルほどの障壁を衝撃波に向かって押し出した。
障壁に衝撃波がぶつかって四散する。仁木はレフェリーを探した。しかし、キーロヴィチの衝撃波で吹き飛ばされて無残な姿になっている彼を発見して唇を噛み締める。
「おれはキーロヴィチを止める手伝いをするから、斎藤さんは観客の避難を手伝ってくれ」
「了解」
仁木はリングに駆け寄り上がった。
「手を出すな」
サイラスが英語で言った。
「観客に犠牲者が出ている」
仁木が簡潔に英語で答えた。サイラスは苦い顔になってキーロヴィチを睨む。
キーロヴィチはサイラスの攻撃で大ダメージを負っていた。それでも戦いをやめようとは思っていないらしい。そんなキーロヴィチに、仁木が前蹴りを放った。『怪力』の真名で強化された蹴りはロシア人を弾き飛ばした。
サイラスが追撃し、追いついて鳩尾に強力な一撃を加える。口から血を吐き出したキーロヴィチがサイラスを睨んで口を開いた。
「これは宣戦布告である。我々は異教徒どもに鉄槌を下す準備が終わった」
キーロヴィチが初めて英語で喋った。
サイラスがキーロヴィチを睨む。
「何を言っている。我々というのはロシアということか?」
「ち、違う。我々とは……聖アズルールを……」
そこまで言ったキーロヴィチが血を吐き出して倒れた。サイラスが仁木に目を向けた。
「あなたは?」
仁木はサイラスのことを雅也から聞いていたので、
「おれはマナテクノの聖谷常務の友人で、仁木という」
「おお、聖谷常務の……」
サイラスはアメリカ大使館に連絡し、仁木は特殊人材対策本部の黒部に連絡した。
しばらくすると救急隊員と警察が来て、負傷者を病院へ運んだ。中には亡くなっている者もおり、救急隊員の顔は厳しいものになった。
この事件はマナテクノの雅也のところへも知らされた。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
雅也は、防衛装備庁の木崎長官から呼ばれて防衛省市ヶ谷庁舎に向かった。到着して会議室に案内された。そこには木崎長官と永野装備官が待っていた。
「忙しい中、呼び出してすみません」
永野装備官が声を上げた。
「私で良かったのですか? 政府の仕事なら社長の方が良かったのでは?」
「いえ、聖谷常務が適任だと思ったのです」
永野装備官は雅也がマナテクノの大株主であり、決定権を持っていることを知っていた。
木崎長官が暗い顔で用件を切り出した。
「格闘技の試合会場で起きた事件を知っておられると思います。その後にキーロヴィチを尋問して分かったのですが、ロシアが大変なことになっているようです」
どういうことかと尋ねると、ロシアに逃げ込んだと思っていた超越者教会の教祖サプーレムは、逃げ込んだのではなく、ロシア政府の中核に食い込みロシアを乗っ取ったらしい。
「ちょっと待ってください。超越者教会と言っても少人数の集団です。あのロシアを乗っ取るなどできないはずです」
「教祖のサプーレムが、特殊な真名術を使ったのだというのが、アメリカの意見です。サプーレムは真名術で人を操れるとのことです」
それを聞いた雅也は、サザランド枢機卿が持っていた『言霊』の真名を思い出した。『言霊』なら人を操れると考えたのだ。だが、サザランド枢機卿は死んだ。教祖も同じような真名を持っていたのだろうか?




