scene:231 ジェネスのライブ
ジェネスが小雪に近付き質問した。
「ミスター聖谷には、迷惑だったんじゃないですか?」
小雪が微笑んで答えた。
「大丈夫ですよ。彼は歌うことが好きなんです。ただ大勢の前で歌うのは緊張するので苦手だと言っていました。でも、最近大勢の前で話をすることが増えて緊張しなくなったようです」
「それを聞いて、ホッとしました」
小雪がジェネスに視線を向けた。
「オブライアンさんのところへ行かなくていいんですか?」
ジェネスが微笑んだ。
「彼が入院しているパリの病院へ行ったら、ライブを中止しなくてはなりません。無理ですよ」
オブライアンは日本へ行こうとして、シャルル・ド・ゴール空港へ行く途中で事故に巻き込まれたらしい。
雅也とジェネスのマネージャーが、音楽スタッフに『レット・イット・ビー』の演奏を頼んだ。
「本当に、ジェネスの前で歌うのか? あんた度胸あるな」
ギターリストに言われた。雅也は苦笑する。
用意ができて雅也が歌うことになった。音楽スタッフは全員がギターリストと同じ心境らしく、雅也へ痛い人を見るかのような目を向けていた。
聞き慣れたイントロが始まり、皆の視線が雅也に集まる。
哀愁のある声で雅也が歌い始めると、ジェネスがビクッと身体を震わせた。雅也の声は人の心を揺さぶる力を持っていた。
この曲のタイトルは、『なすがままに』『なんとかなるさ』『そのままにして』という意味になるそうだ。そして、作詞作曲したアーティストの死んだ母親が枕元に立ち『あるがままを あるがままに 受け容れるのです』と囁いたのを元にして作られたという。
雅也の歌は聞いている者の心を惹き付け魅了する。小雪はうっとりとした表情で聞き入った。ジェネスも目を閉じて聞き入っている。
対象的なのは、演奏している者たちだ。必死な表情を浮かべて演奏している。気を緩めると、雅也の歌に惹き付けられ、演奏する手が止まりそうになるのだ。
雅也が歌い終わると、演奏していた者たち以外は耳に残っている雅也の歌の余韻を感じてうっとりしている。
「どうだった?」
雅也が尋ねると、ジェネスが早口で何か言った。雅也は聞き取れずに首を傾げる。
「ごめんなさい。興奮してしまって、早口になってしまったの。とにかく素晴らしい歌でした」
「最高です」
ジェネスと小雪が微笑んだ。どうやら気に入ってくれたようだ。
それからジェネスと相談して、デュエット曲を何にするかを決めた。そして、練習する。雅也は楽しかったが、ジェネスたちは大変だったようだ。
雅也が放出するパワーと同じだけのパワーを出さなければならなかったからだ。小雪が雅也に抑えて歌ってもらったらどうかと提案したが、ジェネスが首を振る。
「そんなことは、できません。私は一〇〇パーセントの歌を、ファンに聞いて欲しいのです」
ということで、デュエット曲が仕上がった時には、ジェネスと演奏していた人たちはへとへとになっていた。
ジェネスのライブがある前日、雅也はフランスから来日した主席代表補佐官ジャック・ギャルドンと面談していた。
同席しているのは、小雪と経済産業省で宇宙太陽光発電システムを担当している三野田参事官だった。
「フランスは、宇宙太陽光発電システムの開発に参加したいと思っています。その代わりに、小型原子炉の技術を提供する用意がある」
日本やアメリカでも『小型原子炉』や『小型モジュラー原子炉』と呼ばれている原子炉を研究している。ただフランスの小型モジュラー原子炉の開発は進んでいる部分もあり、日本としては手に入れたい技術だった。
原子炉は小型化することで安全性が増すと言われている。日本も従来の原子力発電システムが衰退する方向に進み始めたので、小型モジュラー原子炉を中核とする原発システムを構築したかった。
宇宙太陽光発電システムを構築しているのに、なぜと思うかもしれないが、こういうエネルギー源は、一つに集中することは危険なのだ。
何かの原因で宇宙太陽光発電に支障が出た時、全ての電気を宇宙太陽光発電システムで賄っていたのでは、破滅的なダメージを受ける。エネルギー源の分散化は必要だ。
雅也は宇宙太陽光発電システムの開発を目指しているくらいなので、原発には消極的だ。ただエネルギー源の分散化は必要だと思っている。
日本政府はフランスの参加を了承しようと考えているようだ。日本とアメリカだけで独占しようとすると、欧州の反発が起こりそうだからだ。
と言っても、ただで参加させるつもりはない。何らかの技術と交換に参加するという形になるらしい。
「フランスの技術者や科学者が、一度大型起重船に乗って、建設現場を見学したいというのは、了解しました。建設資材を宇宙に上げるついでに、見学するということでよろしいですね?」
ギャルドン補佐官がホッとしたように頷き、額に滲み出た汗を拭こうとしてハンカチを取り出した。その時、一枚の紙がひらりと床に落ちる。
小雪が拾い上げた。
「あらっ、これはジェネスさんのライブチケット。ギャルドン補佐官は、ジェネスさんのファンなんですか?」
「ええ、昔からの大ファンなのです。小雪さんもファンなのですか?」
「ええ、昨日もジェネスさんに会ったんですよ」
小雪が自慢そうに言った。
「ほ、本当ですか」
「川菱重工の恩田社長から紹介されたのです。素晴らしい方でした」
「羨ましい。小雪さんはライブに行かれるのですよね?」
「もちろん、行きます。デュエット曲を楽しみにしているんです」
ギャルドン補佐官が首を傾げる。
「おかしいですな。ミスターオブライアンは事故で入院したはずでは? フランスで大きなニュースになっていましたよ」
「代わりの歌手が見付かったそうです。私はその人のファンでもあるんです」
「何というアーティストですか?」
「それはライブで直接見て聞いてください。ジェネスさんにも劣らない素晴らしいアーティストですから」
雅也が苦笑いしているのを見て、小雪は微笑んだ。
欧州の国々が参加することで、宇宙太陽光発電システムのプロジェクトは、大きく進むだろう。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
ジェネスのライブ会場は熱気に包まれていた。大勢のファンが詰めかけ、ジェネスの歌に熱狂した。
ギャルドン補佐官は、食い入るようにジェネスを見ていた。
「ジェネスはいい。日本に来れて、私はラッキーだ」
ライブに来れたことの幸運を噛み締めたギャルドン補佐官は、小雪が言っていたデュエットの相手が気になった。
「二流の歌手、いや一流の歌手でも、ジェネスが相手となると物足りなく感じるからな。最低でも、オブライアンほどの実力がないと……」
ジェネスがデュエットの相手となるシンガーを紹介した。髭面にサングラスをかけた男だ。
「Shizuku? 知らないな。日本人らしいが、これは期待できないな」
ジェネスがShizukuを紹介した後に、自分自身がファンであるイギリスの女性シンガーの曲を歌うことを告げた。アデルの『セット・ファイア・トゥ・ザ・レイン』と『ハロー』である。
最初の曲は『セット・ファイア・トゥ・ザ・レイン』だった。
ジェネスが歌い始め、世界に歌姫と認めさせた声が会場に響き渡る。その声はギャルドン補佐官を魅了した。それだけでなく観客の全てを魅了する。
そして、Shizukuのパートとなり、その声がライブ会場に響き渡る。不思議な声だった。観客の心が揺さぶられる声。それがギャルドン補佐官の心も揺さぶる。
「何ということだ。これはジェネスの声に匹敵する」
二人の声がハーモニーを奏で始めると、ギャルドン補佐官は神に感謝した。そのハーモニーの一音でも聞き逃すまいと集中する。
この曲に込められているのが、苦い恋の物語だというのも知っていた。だが、これほど心を揺さぶられるのは、二人の天才が協力して奇跡を起こそうとしているからだと悟る。
ギャルドン補佐官の心の中に疑問が浮かんだ。なぜだ? なぜ彼の存在を知らなかったのだ。許されないことだ。
歌が終わると、ライブ会場が静まり返る。歌の余韻がライブ会場を支配していた。
ジェネスは次の歌を、と思って観客を見るとまだ早いと分かった。一曲目の呪縛から、まだ抜け出せていないのだ。
観客はピクリとも動かず、ジェネスとShizukuの二人を見ているのだ。しばらく待ってから、観客に声を掛けた。
「Shizukuとのデュエットは、どうでした?」
その声で観客が動き出し、拍手をする者が現れ、それが嵐のように広まった。
日本人の観客が何と言っているか分からなかったが、喜んでくれているのは分かる。それが静まるのを待って、次の曲が始まった。
この曲の最初は、Shizukuから始まる。その声の魔法により、観客の全員が歌の物語の中に放り込まれた。狂おしく悲しい女性の心をShizukuが物語り、観客を魅了する。
ジェネスのパートが始まり、観客が現実世界に戻る。ジェネスの声に癒されながら、Shizukuのパートが始まるのを期待する。
そして、Shizukuの声で心を揺さぶられ、二人のハーモニーでクライマックスを迎えた。ギャルドン補佐官は頬を涙が流れ落ちているのに気付き、それが歌が終わったことに対する悲しみだと思った。
もっと聞いていたかった。もう終わりなのか。そんな……アンコールはダメなのか?
日本人たちもアンコールを叫んでいた。デュエット曲が二曲だけだと聞いていたからだ。
ジェネスが困ったような顔をして、Shizukuと相談している。そして、もう一曲だけ『レット・イット・ビー』を歌うことになる。
至福の時間だった。この時ばかりは、日本行きを命じたギャロワ大統領に感謝した。




