scene:227 影の森迷宮の危機
一日休んだ後、新しく手に入れた『空間歪曲』がどんな真名なのか研究することにした。
デニスは『空間歪曲』を解放した。その途端、異質なものを感じた。人は三次元プラス時間の四次元時空の中で生きていると言われる。
だが、もう一つの次元を感知できるようになれば、どう感じるのだろう。
デニスはもう一つの次元を感じた。そして、理解できずに途方に暮れる。それが人間の限界なのだ。だが、新しい真名は違う。『空間歪曲』の力はもう一つの次元を扱えるように作られていたのだ。
『空間歪曲』の真名を使って、三次元空間をもう一つの次元の方向に変形させることができるらしい。デニス自身も理解できない。
ただ一つだけ分かったことがある。三次元空間をあるパターンで変形させると、そこに引力が発生する。正確に言うと引力に似たものであって、雅也たちは『疑似引力』と名付けたようだ。
ちなみに、引力は質量のある全ての物体同士の間に働く互いを引っ張り合う力であり、重力は惑星の引力と自転の遠心力を合わせた力らしい。
そんなことを雅也と神原社長たちが話しているのを聞いたのだが、デニスにはさっぱりだった。
ただ一つだけ記憶に残ったことがある。あの巨大ムカデが作った時空を歪めた球形の空間が作り出せるなら、絶大な武器になるだろうということだ。
デニスは『滅空』と名付けたものを実現しようと研究を始めた。今までの真名は、頭の中に飛び込んできた時から、使い方が分かったものだが、今回だけは違った。
まるで、人間のための真名ではなく全く違った異生物のために用意された真名であるかのようだった。そして、この真名を解放した時に感じるもう一つの次元軸というのが問題だった。
理解できないものを手探りで処理する難しさ、デニスだけでなく雅也も混乱し『空間歪曲』を使うために苦労した。
デニスが滅空を作り出せるようになったのは、一ヶ月後のことだった。
その頃になって、クリュフバルド侯爵家が攻略していた影の森迷宮でまずい事態が起きた。影の森迷宮の中心部である二区画に入ることに成功した探索者パーティが、そこに巣食う巨人トロルと遭遇し戦闘となったらしい。
ところが、巨人トロルは手強い魔物であり、敵わないと判断した探索者パーティは洞穴に逃げ込んで伝令鳥をクリュフバルド侯爵家に飛ばしたらしい。
その伝令鳥が運んだ通信文を読んで、探索者パーティが健在だということと危機に陥っていることを知った侯爵は、救出部隊を出そうとした。
だが、巨人トロルが洞穴の前にいることが分かったのだ。侯爵の配下の中に巨人トロルを倒せる者はいなかった。そこでブリオネス家に救援要請が来たのである。
エグモントはデニスと相談した。
「僕とイザーク、フォルカの三人で行きます」
「そうしてくれるか。だが、巨人トロルを倒せるのか?」
「さあ、どんな化け物なのか、見てみないと」
「まあ、そうだろうな。自分たちでも敵わないと判断したら撤退するのだ。無理をすることはない。自分たちの命を優先しろ」
デニスたちはクリュフバルド侯爵の屋敷に行って、引き受けることを侯爵に伝えた。
「デニス殿、感謝する。ローマンとトビアスが案内する」
久しぶりに騎士ローマンとトビアスに会った。二人は逞しくなったようだ。侯爵の命令で迷宮の調査を行っているらしい。
「お久しぶりでございます。デニス様」
デニスたちは挨拶を交わすと、影の森迷宮の二区画について説明してもらう。二区画は三区画を経由してしか入れない場所らしい。
その三区画には、風刃走鳥や鬼大蜘蛛などの凶悪な魔物が居る。二区画に辿り着くだけでも大変だということだ。イザークがうんざりした顔をする。
「そう言えば、影の森迷宮は、ウルダリウス公爵の紅旗領兵団が訓練しているのではなかったのですか?」
それを聞いたローマンが顔をしかめた。
「紅旗領兵団は、ダリウス領に帰りました。領地内にある小さな迷宮の迷宮主を仕留めるそうです」
領内に迷宮を持つ貴族は、総力を上げて迷宮主の対応に乗り出している。こういう時は、迷宮を持たないポルム領などが羨ましい、とイザークは思った。
デニスは準備をして、影の森迷宮へ向かった。東側から三区画に侵入したデニスたちは、ローマンたちに案内されて中央を目指す。
「出ました。あれが風刃走鳥です」
騎士トビアスが声を上げた。風刃走鳥は大人二人分の背丈があり、羽は退化している。飛ぶことができないので、走るのが得意な鳥型魔物だった。
ただ退化した羽には、一つの力が宿っていた。小さな羽が羽ばたくと斬撃力を持つ衝撃波が撃ち出されるのだ。デニスたちと相対した風刃走鳥は、そういう危険な魔物だった。
その風刃走鳥が羽を羽ばたかせた。空気がキィンという音を響かせる。衝撃波が発生した合図である。
「避けろ!」
ローマンの警告で、デニスたちは身体を投げ出すようにして衝撃波を避けた。衝撃波自体は見えないので、跳んだ方向は勘である。
デニスは地面で一回転してから、風刃走鳥に向かって爆砕球を放つ。爆砕球が風刃走鳥に命中して息の根を止めた。
「風刃走鳥は、先制攻撃で仕留めないと厄介なようですね」
イザークが身体に付いた砂を払い落としながら言った。フォルカも頷きながら起き上がる。
それ以降、風刃走鳥の姿が目に入った瞬間、デニスたちは爆砕球や爆裂球を放つようになった。そして、もう一種類の手強い敵である鬼大蜘蛛は、尻から放つ蜘蛛糸が脅威だった。
遭遇した鬼大蜘蛛が、木々の上から振り撒く蜘蛛糸は最悪だった。その蜘蛛糸に絡め取られると動けなくなるのだ。フォルカは油断したわけではないのだが、一瞬だけ気づくのに遅れて蜘蛛糸に絡まってしまった。
木の上の鬼大蜘蛛はイザークが爆裂球で仕留めたが、フォルカは蜘蛛糸で身動きが取れない状態となっていた。
「ローマン殿、この蜘蛛糸は、どうやって外すのです?」
フォルカが情けなさそうな暗い顔で尋ねた。
不思議なことに鬼大蜘蛛を仕留め、その体が消えても蜘蛛糸だけは残った。その蜘蛛糸は鬼大蜘蛛の一部ではないようだ。
「無理やり剥がすしかないのだ。服や身体に付いているものは、布地や皮膚が傷むが仕方ない。ただ髪に付いたものは髪を切らねばならない」
デニスたちは慎重に、フォルカに絡み付いている蜘蛛糸を剥がした。髪をバッサリ切ることになったが、そういう髪型だったのだと思うしかない。
「こんな変な髪型があるわけないでしょ」
フォルカだけは大いに怒っていた。その結果、頭上で気配がすると鬼大蜘蛛でないかと確かめ、二匹の鬼大蜘蛛を仕留めることになった。
デニスはちょっと気になったことをローマンに確かめた。
「鬼大蜘蛛から手に入れられる真名は、何というものなのです?」
「それは『蜘蛛糸』です。尻から糸を出せるようになる真名でございます」
それを聞いたフォルカが、ぎこちない仕草で首を回転させ顔をローマンに向けた。
「ほ、本当に尻から?」
ローマンが頷いた。フォルカが恐怖を滲ませた表情を浮かべる。
「なんて恐ろしい魔物なんだ」
デニスは嫌な真名だなと思ったが、手に入れても使わなければ良いだけだとも思った。デニスがフォルカにそう言うと。
「ここには、イザーク殿がいるのですよ。絶対に宴会芸として、やってみせろと言うに決まっています」
イザークがフォルカを睨んだ。
「フォルカ、そんな風に俺のことを見ていたんだな」
「違うんですか? 絶対に言わないと断言できますか?」
イザークが目を逸らす。それを見たフォルカがジト目でイザークを見た。
途中で色々あったが、デニスたちは三区画を突破。二区画に入った。二区画は巨木が多くなった。その代わり、木の数は減っている。
ここまで来ると、ローマンたちにも未知の場所である。だが、探索者パーティの位置は、通信文で大体分かっているので、その方向に向かう。
少し探し回ったが、デニスたちは巨人トロルを発見した。
巨人トロルは、三階建の屋敷の屋根と同じくらいの身長だった。その大きさにデニスたちは息を呑む。




