scene:221 雅也の日常
会食があった翌日、雅也はボイストレーナーのところへ行った。雅也が通っているボイストレーナーは、春野香澄という元歌手である。絶対音感の持ち主でもあり、厳しい指導をする人物だ。
回数は減ったが、今でも春野のところへ雅也は通っていた。『言霊』を使うためには、どうしてもボイストレーニングは続けないとダメだからである。
トレーニングを終えてから、雅也は春野に尋ねた。
「先生、分離するとか、ばらばらにするとかいう意味の歌がありますか?」
春野は首を傾げた。
「変なことを聞くのね。分離、ばらばら……パッと思い浮かぶのは、女性の妖怪を主人公にした映画で主題歌になったものくらいね」
その主題歌には、『砕け散る』とか『バラバラ』という歌詞が出てくるらしい。雅也は全然知らない歌だったが、春野が歌ったのを聞いて使えそうだと感じた。
何に使えるかというと『分離』の真名の力を転写するためである。『分離』の真名は、液体と固体を分離したり、二酸化炭素から炭素と酸素を分離したりできる。
その効果は『分離』の真名を使う時に、どんなイメージを持っているかで変わる。ちなみに全ての分子をバラバラにするということも可能である。但し、その場合は砂粒一個を分解するのに一秒ほどかかる。
一秒だと早いと感じるかもしれないが、一分間なら砂粒六〇個しか分解できないということだ。効率が悪すぎる。なので、炭素と酸素を分けるというように特定のものに限定することで効率を上げるのだ。
なぜ『分離』の迷宮装飾品を作ろうとしているのかというと、ある会合でマナテクノはエコじゃないと言われたからだ。
マナテクノは宇宙太陽光発電システムを建設しようとしているのだから、エコも真剣に考えていると反論すると、車を飛ばすというのはエネルギーの無駄遣いだと言われた。
春野に礼を言った雅也は、マナテクノに出勤した。そのまま実験室に行って、中村主任に相談する。
「へえー、分子を分解することができる道具を使って、エコな事業をできないかですか……」
「何かないか?」
「そうですね。イーフューエルなんかどうですか」
「イーフューエル? 詳しく説明してくれよ」
イーフューエルというのは、炭素と水素から製造する合成液体燃料のことらしい。水を電気分解した水素と二酸化炭素を触媒の力を借りて反応させて製造するという。
二酸化炭素が原料なので、その燃料を使って二酸化炭素を発生させても温室効果ガス排出量が実質ゼロなのだそうだ。
「面白そうだな。うちの研究所で研究させるか」
「それがいいんじゃないですか。それより、ついに完成しました」
「完成したって言うと、新型ホバーバイクか?」
「そうです」
新型ホバーバイクというのは、川菱重工と共同で開発していた未来型ホバーバイクである。搭載されているエンジンは、四個の小型動真力エンジンを組み合わせて、一つの高機動型動真力エンジンとしたものだ。
未来型としているのは、その機動性と収納可能な天蓋が存在するという点だ。世界で販売した川菱重工のホバーバイクは好評だったのだが、天候が悪い時や寒い時には乗りたくないという意見が出た。
バイクというのは、元々がそのようなものなのだと雅也は思う。ただ顧客の意見は考慮しなければならないので、天蓋を付けたという。
ちなみに日本バージョンが存在する。日本の法律では、ホバーバイクを飛ばせる場所が限られていて、ダメな場所は普通のバイクと同じように車道を走らなければならない。なので、新型ホバーバイクの日本バージョンには、飛行機のように出し入れできる小さな車輪が付いている。車道も走れるようになっているのだ。
「そう言えば、ディープロックの調査はどうなったんです?」
「アメリカ・EU・イギリスと共同で行うことになった」
ディープロックはマナテクノの所有物ではない。マナテクノは資源の採掘権を持っているだけなので、調査となると、世界各国が協力して行うということになる。
ただディープロックと地球を往復できる宇宙船となると、マナテクノの二隻の起重船だけになる。ディープロックまで行くだけなら各国のロケットでも可能なのだが、戻るのが難しいようだ。
「日本政府は、有人飛行を認めたんですか?」
「ああ、認めてくれた」
マナテクノでは、大型起重船を有人宇宙船として完成させた。しかし、日本政府がなかなか許可を出さなかったので、まだ人を乗せて宇宙へ飛んでいない。
その代わり、マウスやカエルを何度も宇宙へ運んで実績を積んだ。それが認められて許可が下りたのである。
「最初の日本人は、誰になるんです?」
「航空自衛隊の坂本と桑田という自衛官だ。俺が行きたかったんだが、神原社長の許可が下りなかった」
「当然でしょう。まだ早いんですよ。有人飛行を一〇回くらい実践してからじゃないと、聖谷常務の番にはなりませんね」
雅也はガッカリして肩を落とす。その時、神原社長からの呼び出しを受けた。急いで社長室に行くと、第三工場の黒田工場長と神原社長が話していた。
「聖谷常務、宇宙での活躍は聞きましたよ。凄いですね」
「皆が努力した結果です。それより、どうしたのです?」
「ちょっと問題が起きたので、社長や常務に相談に来たのです」
雅也は何も聞いていなかったので、首を傾げた。
「何が起きたんです?」
「工場で、製品の情報をダウンロードしようとする従業員が、何人も見つかったんです」
「そんなことは、不可能でしょう」
「そうなんですが、何人もメモリーを工場内に持ち込もうとして捕まったんです」
製品の情報と繋がっている端末は、マナテクネット専用端末として開発したもので、USBメモリーなどの入出力端子が存在しない端末だった。データの入出力は共振データデバイスによって直接サーバーと行う仕組みになっていた。
「その従業員、アホなんですか?」
黒田工場長が苦笑した。
「どうやら、催眠術か何かで操られているようなんです」
雅也は問題となっている従業員のリストをもらい、調べることにした。もちろん、雅也一人でできることではないので、冬彦の探偵事務所に頼むことにした。
冬彦の探偵事務所は繁盛しているようで、以前より広いオフィスに事務所を移し探偵も増やしていた。久し振りに冬彦に会うと、少し太っている。
「冬彦、太ったな」
「ちょっと食べ過ぎただけです。すぐに元に戻ります」
「探偵事務所が順調だから、贅沢しているんじゃないか?」
「そんなことはないです」
その話を聞いていた探偵の仁木が笑った。
「探偵事務所が順調だからというだけじゃないんですよ。所長はマナテクノの株を持っているんです。忘れたんですか?」
マナテクノを設立する時、冬彦もちょっとだけ資金を出したのでマナテクノ株を持っている。その株に対する配当が馬鹿にならない金額になっているらしい。
冬彦がちょっとふっくらした頬を擦りながら、
「僕のことはいいだろう。それより、仕事は従業員の調査でいいんですか?」
「ああ、おかしな行動をしている従業員に探偵を張り付かせてくれ。人数が足りないようなら、他の探偵事務所を使ってもいい」
「分かりました。早急に調べます」
「よろしく頼む」
「はあっ、こんなことなら、あの時一緒にマナテクノに入れば良かった」
雅也は笑った。
「マナテクノの仕事も大変なんだぞ」
「でも、もの凄く儲かっているそうじゃないですか。世界長者番付に先輩の名前が載るのも近いんじゃないですか?」
雅也は今年の収入について試算して、自分でも驚いた。
「否定できない状況になっているな」
冬彦が溜息を漏らした。
「そこは、謙遜するところじゃないんですか」
雅也が肩を竦めた。
その日からリストにあった従業員たちは監視されることになった。そして、それらの従業員に共通する点が見つかった。
第三工場の近くにある西根総合病院に通院していることが判明したのだ。雅也は報告を受けて、西根総合病院のことも調査するように頼んだ。
すると、西根総合病院が最近某大国の資本家に買収されていたことが分かった。雅也は渋い顔をして、冬彦から渡された報告書を読んだ。
「あの国は諦めるということを知らないな。この先ずっと企業機密とか秘密を探り出そうとするんだろうな」




