scene:1 明晰夢の世界
暗く静寂で無限に広がるような空間の下層からキラキラと輝く光玉が湧き出し、旋回しながら舞い上がる。その光玉はさえずるように明滅し、二つの流れを形成する。
その流れには特徴があった。一方は数が少ないけれど勢いがあり、もう一方は数が多いけれど勢いがない。数が少ない方は、勢いよく舞い上がり少数の光玉が天を突き抜いて消えた。
天を突き抜けるほどの勢いがなかった光玉は、途中で下降を開始し海面のような境界に落下し下層へと沈む。
もう一方の圧倒的に数が多い流れは、天を突き抜ける光玉はほとんど存在しない。半分も上昇しないうちに、下降を開始し海面のような境界に落下し沈む。
その様子をジッと見詰める存在がいた。普通の生物なら生きられない空虚な空間に佇んでる。超越者と呼ばれる存在だ。
圧倒的な存在感と溢れんばかりの力を持つ超越者は、次元を超えて見渡せる眼で二つの世界を比較していた。
『世界の調和が、歪み始めておる』
超越者は魂と呼ばれる光玉の流れをチェックし、大きな溜息を吐く。
『梃子入れしなければならんようだ』
超越者は光玉の数が多い流れから、数万個ほどの光玉を掬い取った。そして、光玉を二つに割る。半分となった光玉に超越者自身のエネルギーを分け与え、元の光玉の形に戻す。
この行為により、光玉が二倍に増えたことになる。超越者は半分を元の流れに戻し、もう半分を数が少ない方の流れに投じた。
それらの光玉には天に登るほどの勢いはなく、途中で下降を開始し下層へと沈んだ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
聖谷雅也は、また自分が夢を見ているのに気付いた。明晰夢というものである。
仕事から帰って夕食を食べた後、テレビを見て時間を潰してから寝たはずである。それなのに海が見える場所に立っていた。
朝日が海中から顔を出そうとしていた。紅に染まった海面がキラキラと輝いている光景は、幻想的で人を神秘の世界に惹き込もうとする。
海上に浮かぶ小舟が目に入る。目を凝らすと、漁師らしい男が懸命に櫂を漕いでいるのが見えた。その小舟は人が二人も乗れば満員となるような小さなものだ。
足元を見ると、小さなカニが波に抗いながらも海に向かっていた。海鳥の鳴き声が聞こえ、潮風が頬を撫で後方にある粗末な家並みを吹き抜ける。
それはベネショフと呼ばれる小さな町だった。人口は四〇〇〇人ほど。準男爵ブリオネス家が領主を務める漁師町である。
視界の隅に妹の姿を捉えた。僕より五歳年下の妹が大きな声を張り上げる。
「デニス兄さん、朝食の時間よ」
「分かった。アメリア」
この夢の世界では、デニス・フォン・ブリオネスと呼ばれている。雅也の意識は、夢を見ている時に何らかの方法でデニスの意識と繋がるようだ。
多重人格のように、いくつかの人格が時間を区切って表面に出てくるというものではなく、二つの人格が持つ知識が統合され、あたかも新しい人格が生まれたかのように感じられる。
但し、この世界での主人格はデニスであり、雅也の意識は傍観者のような立場だった。
この現象が始まったのは、二ヶ月ほど前から。最初の頃は違和感を覚えた。だが、雅也が夢を見るたびに繰り返されると慣れてくる。
アメリアに視線を向けた。貴族の割に粗末な服を着ている。母親が子供の頃に着ていたものだ。だが、その顔立ちは整っており、笑った顔は輝いているように見える。
デニスは海岸から離れ、人により踏み固められた未舗装の道を戻った。道の両脇には、松にしか見えない針葉樹が疎らに生えている。
松林には漁師が使っている漁師小屋が建っていた。細い丸太と板で作られた。見るからに粗末な小屋で、その中には漁師道具や生活用品が置かれている。
「ねえ、兄さん。塩が残り少ないって、エルマが言っていたの。どうしよう?」
エルマは領主屋敷のメイド頭である。
「父上には言ったのか?」
アメリアが可愛い顔を歪めた。
「塩くらい自分たちで何とかしろって」
領主の家族が商人に塩を都合しろと言えば、塩くらいなら用意してくれるだろう。だが、そんな方法で手に入れることを、アメリアは嫌っていた。
「僕が買ってくるよ」
「ありがとう」
ベネショフは、ゼルマン王国の辺境にある町である。その南側には海が広がっており、普通なら生活必需品である塩が豊富にあるはずだった。
だが、王国は塩の製造を制限していた。功績を挙げた貴族にのみ認可を与え、それ以外は塩田を持つことを禁じているのだ。
塩を手に入れるには、町で唯一の雑貨屋か行商人から買うしかない。そして、買うには金が必要である。デニスは親から小遣いなど一切もらっていなかった。
領主屋敷は古い建物であり、所々にガタが来ている。それを修理するのはデニスの仕事となっていた。そんなボロ屋敷に入ったデニスは、ダイニングルームに向かう。
この国の主食は、麦だと言われている。日本で食べている小麦と見た目も味も一緒のものが存在する。そればかりかジャガイモ・サツマイモ・タマネギ・きゅうり・人参などと見分けのつかない食べ物が存在した。
朝食は、いつもと同じで硬いライ麦パンと薄い塩味のスープだけである。貴族とは思えない農民と同じような内容だ。
これには理由がある。準男爵ブリオネス家が支配するベネショフ領は、九年前に大規模な火事に見舞われた。収穫直前だった畑も焼け、領民の多くが犠牲となった。
領主であるエグモントは、蓄えを放出して復興に努めた。だが、すぐに資金は底を尽き、深い傷跡を残したまま九年という歳月がすぎてしまったのだ。
ということで、ブリオネス家には金がない。それこそ息子に小遣いをあげる程度の資金さえないのだ。
味気ない朝食を食べ、デニスは外へ出た。一六歳、黒髪と琥珀色の瞳を持つ少年である。普通なら王都の学校に通う年齢だ。だが、困窮しているブリオネス家では、次男を学校に通わせる余裕はなく、長男のゲラルトだけが王都の学校で学び、今は王都警備軍の幹部候補となっている。
将来、領主エグモントが引退する時が来れば、王都警備軍を辞めベネショフに戻って領地経営を学ぶことになるだろう。
デニスは長男ゲラルトに何かあった時の予備であり、普通なら十分な教育を受けさせる必要があるはずなのだ。だが、何の教育も受けさせてもらっていない代わりに、一八歳までは自由な行動を許されている。というか、自分で勉強しろと命じられていた。
読み書きだけは教えられていた。だから、屋敷の書斎にある本で歴史や地理、一般常識程度の知識は学んでいる。
ただ独学には限度がある。基礎知識が足りないので、一般常識以上の本は難しくて理解できなかったのだ。だが、二ヶ月前に変わった。
日本の社会人である雅也の精神とデニスが繋がったのだ。突然、頭の中に存在しなかった知識が湧き出した。混乱したけれども、時間経過と共に慣れた。そして、デニスは書斎にある本のすべてを理解できるようになる。
その本の中には、この世界の魔法と言うべき『真名術』に関するものもあった。真名術とは存在や原理、現象の真の名前を知り、それを核として現実に干渉する技術である。
魔法が存在しない世界に住む雅也には、非常に興味深いものだった。
外に出て景色を眺めていたデニスは、塩を買う金をどうしようかと悩んだ。思い付いたアイデアは二つ、ダンジョンまたは迷宮と呼ばれる場所で、魔物を狩りながら金属結晶を採掘すること、もう一つは森で金になる獲物を狩ることである。
「必要な資金を短時間で得るには、迷宮が最適か。危険なのは一緒だからな」
この時、デニスは迷宮の危険度を計算ミスしていた。書斎にあった記録資料に、迷宮の一階層や二階層はスライムやコウモリのような魔物しか出ないと書かれていたからだ。