scene:183 天使の歌
音楽祭に出た時と同じ変装をしているのだから、Shizukuだとバレるのは時間の問題だったらしい。雅也自身は、Shizukuという存在が、それほど有名になっているとは思っていなかった。
ヒカルの病室は、外科病棟の三階だった。瀬戸田社長の恩人である人物は大物らしいので、孫であるヒカルの病室は立派な個室である。
「ここよ」
社長がドアをノックして、中に入る。病室には祖父らしい老人とベッドの上に横たわる少女の姿があった。
「Shizukuさん……本当に来てくれた」
少女の嬉しそうな声が聞こえた。
老人の顔には見覚えがある。不動産業で一兆円規模の売上を上げている大企業四元不動産の社長だった。
「相良社長、遅くなってすみません。やっと約束を果たせました」
「いやいや、こちらこそ無理を言ってすまなかったね」
雅也は自己紹介した。もちろん、Shizukuとしてである。
「孫は、あなたの大ファンでな。この通り大喜びです」
「それは嬉しいです。本業で音楽活動をしているわけではないので、ヒカルさんのようなファンがいるとは、知りませんでした」
ヒカルが驚いた顔をする。
「本業じゃないんですか。どこかで音楽活動をしているんだと思っていました」
「私も調べさせて、全く活動している形跡がないので不思議に思っておった。普段は何をされておられるのかな?」
「乗り物関連の会社で、取締役をしています」
「ふむ、もしかしたら、我社との取引もあるのかね?」
「そうかもしれません」
相良は孫が崇拝する音楽家に、別の意味で注目した。その態度と声から、人を従わせることに慣れている者だと感じたのだ。もしかしたら、有名な企業の重役ではないかと推理した。
「あのぉ、そうだとすると、その髪と髭は?」
ヒカルが尋ねた。
「ああ、これは本業に差し障りがあるかもしれないと思って、変装しているんだ」
「やっぱり、そうなんですね。ちょっと違和感があったんです」
熱心なファンには、変装だとバレていたらしい。ファンの間では、噂になっているという。
相良が瀬戸田社長へ目を向けた。
「彼の音楽活動はどうなっておるのかね?」
「私としては、単独のコンサートができないか、と思っているのですが、本業が忙しいというので、断られているんです」
「もったいないではないか。出し惜しみせずに、ファンにも君の音楽を届けるべきだよ」
雅也は苦笑した。本当に忙しかったのだ。武装翔空艇の開発と宇宙事業が始まったので、寝る暇を惜しんで働いていたというのが実情だった。
ただ、それだけだとストレスが溜まるので、世界頂天グランプリに参加した斎藤に協力するなどして、ガス抜きは行っていた。
「そうですよ。本業が忙しいことは分かっていますが、ちょっとの時間でいいんです。年に四回、季節ごとにコンサートを開くというのはどうですか。オリジナルの曲もうちで用意しますよ」
瀬戸田社長が狙いを定めた猛獣のように、グイグイと押してくる。
「コンサートがあるなら、絶対に聞きに行きます」
ヒカルが声を上げた。
「まあ、考えておきます」
「絶対ですよ。真剣に考えてください」
曖昧な答え方をしたのは、失敗だったかもしれない。まあいい、ストレス解消に思いっきり歌うのもありかもしれない、と雅也は思った。
「ところで、一度歌を聞きたいのだが、歌ってもらえないだろうか」
ヒカルからではなく、相良社長からお願いされた。
「しかし、病院ですので」
「いや、二階の小児科にある子供たちの遊び場なら、構わないそうだ。カラオケマシンも用意してある」
どう考えても計画的である。孫を喜ばせようと必死なようだ。その気持ちは分かるが……。
ヒカルと瀬戸田社長が、お願いしますと言う目で雅也を見つめている。
「それじゃあ、一曲だけ」
「ありがとうございます」
見舞いに行くと決めた時から、歌わされるのは覚悟していた。転写作業で一日に何度も歌うことがあるので、歌うことには、何の抵抗もなくなっている。
数人の前で一曲くらいは、いいだろうと思ったのだ。
足の手術をしたヒカルを車椅子に乗せて二階の小児科へ行くと、入院している子供たちとその親たちが待っていた。
「これは?」
雅也が尋ねると相良社長が頭を下げた。
「すまない。ここを使う代わりに、患者たちにも聞かせてくれと頼まれたのだ」
雅也は待っている子供たちの顔を見た。何が始まるんだろうかと期待している目をしている。一曲だけで終わらせてくれるんだろうか?
子供たちがざわざわしている。ヒカルが前に出て、子供たちに呼びかけた。
「歌手のShizukuさんが、歌を聞かせてくれます。静かにして聞こうね」
そう言っても、少しだけ静かになっただけだった。
「いいですよ。歌い始めれば、静かになります」
雅也はこれまでの経験から、そう言った。問題は何を歌うかである。子供たちが知っている曲となると限られる。ここは魔女の少女が空を飛ぶアニメ映画のテーマソングが良いだろう、と決めた。
雅也が曲を選んでいる間に、野次馬が増えていた。患者とその家族だけでなく、看護師も立ち止まって見ている。
カラオケマシンの操作は、瀬戸田社長に任せた。
軽快なリズムを刻むイントロが流れ始めると、子供たちが目を輝かせた。知っている曲だと気づいたのだろう。
雅也がマイクに向かって歌い始めると一緒に歌い始める子供たちもいた。
だが、雅也の歌声を聞いているうちに、歌うよりも聞きたいと思い始めたようだ。ざわついていた周りが静かになり、カラオケマシンから流れる伴奏の音と雅也の歌声だけとなった。
三脚にカメラを乗せて撮影している瀬戸田社長の姿が目に入った。どさくさに紛れて撮影した映像を何かに使おうと考えているのだろう。
さすがは、芸能界を生き抜いた老練な社長というところだ。一方、歌を聞いている子供は、目をキラキラさせて雅也に視線を向けて聞き入っている。
歌い終わった後、看護師の一人が幸せそうに長い息を吐き出した。息をするのも忘れるほど夢中になっていたらしい。
予想していた通り、子供たちに『もっと歌って』とお願いされた。怪我をして痛々しげに包帯を巻いている子供たちからのお願いである。雅也は断れなかった。
子供たちのリクエストは、レコード大賞も取った野菜の名前が付いた曲だった。
その曲を歌い終わった時、拍手が湧き起こる。だが、一人の子供が床に座り込んだ。長い入院生活で長時間立っていることができなかったのだ。
それでも子供たちは、まだ歌ってと言う。雅也は何かできないかと考え、初めての試みをすることにした。
「それじゃあ、次が最後だ。次の曲は別の国で作られた曲なので、まだ日本語の歌詞はないんだ。でも、聞いていると不思議に意味が分かるから」
雅也はデニスの国の天才音楽家であるミシェルが作曲した曲を歌うことにした。もちろん、カラオケマシンには入っていないので、アカペラになる。
この曲は病気で死んだ妻を思って、ミシェルが作った曲だった。日に日に痩せていく妻を傍で見守りながら、神に祈ることしかできない自分を責めた思い出が詰まっていた。
この曲には神への祈りも込められており、デニスがラジオ放送で発表すると、教会でも聖歌の代わりに歌われるようになったものだ。
静かな歌い出しから、聞いている者を惹き付ける曲だった。雅也は途中から『言霊』と『治癒』の真名を解放して、重起動真名術を使った。
『治癒』の真名から発せられた力が、歌声に乗り特別な歌となる。それは呪歌であり神聖な祈りだった。その歌声は怪我をした子供たちの身体に染み透り、その傷を癒やし始める。
看護師の一人はキリスト教の信者だったらしく、十字を切り神に祈りを捧げた。その歌が祈りだというのを感じたのだろう。
車椅子に座って聞いていたヒカルは、涙を流している。相良社長は目を瞑り静かに聞いていた。その顔には誰かを思い出し悲しんでいるような表情がある。
瀬戸田社長は涙を流していた。この時だけは仕事を忘れ、雅也の歌に聞き入っているようだ。雅也がサビの部分を歌い上げると、何人かが涙を流した。
歌い終わり、雅也が周りを見る。全員が黙ったまま歌の余韻に浸っている。雅也は静かに歩きだした。大騒ぎになるような気がしたからだ。
確実に『治癒』の真名は力を発揮していた。どれほどの影響を与えるのかは分からないが、真名の効果に気づく医師がいるかもしれない。
ヒカルが自分を取り戻した時、歌っていたShizukuの姿がなかった。
「あれっ、Shizukuさんは?」
その声で皆が不思議そうに周りを探す。瀬戸田社長は溜息を吐いた。
「帰ってしまったようね」
相良社長が大きく息を吐き出した。
「彼は何者なのかね。あの歌声は……」
何と表現したら良いか、言葉が出なかったようだ。
十字を切っていた看護師が、
「私、天使の姿が見えました」
そう言って、頬を流れ落ちた涙をハンカチで拭いた。雅也の歌は、聞いていた者の心を大きく揺さぶったのは確かだ。
ちなみに、最後の歌を聞いた子供たちは、怪我の治りが早まった。そのこともあり、『天使の歌』を聞いたという噂が流れた。




