scene:171 ヌオラ共和国のパヴェル議員
ヌオラ共和国軍第一陣の指揮官であるマクシム大佐は、生き残っている八〇〇ほどの兵士を率いて、敵兵を追いながら違和感を感じていた。
「おかしい。我々は誘い込まれているのではないか?」
そう尋ねられた大佐の副官は、背後の川の方角に視線を向けた。川岸からかなり奥に移動している。
「まずいかもしれません。戻って橋頭堡を築く本来の任務に戻りますか」
指揮官が同意した時、周囲の森から大量の矢が飛び込んできた。マクシム大佐の目の前にいる部下たちの身体に、矢が突き刺さり倒れ始める。
「クソッ、やはり罠だったか。引き返すぞ」
大佐が部下たちに引き返すように命令を出した時、背後を侯爵騎士団の兵士が塞いだ。
それからは激しい戦いとなった。侯爵騎士団は精強な兵士で構成されていたが、ヌオラ共和国軍も精強な兵士だったからだ。
侯爵騎士団の兵士が、命令を出しているマクシム大佐に気づいて斬り込む。
「雑兵が!」
そう叫んだマクシム大佐が、槍で足を払い倒れたところを串刺しにする。槍を引き抜いた拍子に、刺された兵士の血が大佐の顔にかかった。
その様子を見ていたランドルフは、
「あの指揮官を倒せ!」
侯爵騎士団の中でも精鋭の正規騎士である数人に命じた。
その者たちは、放出系真名術ができるためにベネショフ領のデニスへ貸し出されていた者たちである。デニスがランドルフの下に戻るように指示したのだ。
跳び出した精鋭たちは、マクシム大佐を守っている敵兵と戦い始めた。その中の一人が敵兵の間を突き抜け、大佐に槍を突き出した。
「小癪な……」
大佐は自慢の槍で打ち払う。激しい攻防が繰り広げられ、攻撃してきた敵兵を倒した大佐だったが、自らも敵の槍で負傷した。
副官に支えられながら、大佐は川岸まで戻ろうとした。
そこに二人の騎士が立ち塞がる。デニスとも顔馴染みの騎士ローマンとトビアスだ。
「逃しませんぞ」
マクシム大佐は顔を歪めた。結局、大佐と副官はローマンとトビアスに討ち取られた。
指揮官を失ったヌオラ共和国の第一陣は、侯爵騎士団により壊滅した。
同じ頃、ベネショフ領兵士を率いるデニスは川岸に戻っていた。
ヌオラ共和国が用意した川船が、第二陣を乗せて迫っていたのだ。
「爆裂球を使える者は船を狙え、それ以外の者は前回と同じだ」
前回、デニスは指揮だけを行い攻撃しなかった。敵を侯爵騎士団が待つ地点に誘い込むという作戦だったので、指揮だけに専念していたからだ。
四〇艘ほどに減ってしまった船団が、多くの兵士を乗せてこちらに近付いている。デニスは指揮下の兵士に攻撃するように命じた。雷撃球と爆裂球が先頭を進む数艘に集中する。
その攻撃で敵船が沈んだのを確認して、デニスが爆砕球を放った。爆砕球は進んでくる川船の舳先に命中し爆発した。その威力は凄まじく、船体の半分が粉々になり盛大な水飛沫が上がる。
それを対岸で見ていたパヴェル議員は、驚きの声を上げた。
「一人だけ、桁違いに強力な真名術を使う者がいるようだな」
その顔は醜く歪み、目には憤怒の火が点っていた。その目の前で、次々に船が爆破され沈んでいく。
「議員、危険です。下がってください」
護衛兵が、その身を心配して声をかけた。
「馬鹿を言うな。これほど距離があるのだ。矢や真名術が届くものか。そんなことができるのは、私だけだ」
元少将であるパヴェル議員は、名高い真名術の使い手として知られていた。
また強力な真名術により船が沈められた。これで半分の川船が沈んだことになる。
「作戦は失敗したようだな」
その声を聞いた護衛兵は、反論した。
「まだ決まっておりません。残りの船が対岸に到着し、敵を一掃するかも」
パヴェル議員が首を振った。
「無理に決まっておるだろ。あれだけの放出系真名術が使える者がいるのだぞ。その背後には大規模な軍勢が控えているに違いない」
放出系真名術を使える兵士の割合は、侯爵騎士団が普通なのだ。ベネショフ領兵士団は例外的な存在であり、パヴェル議員が敵兵士の規模を間違ったことは、見当違いの過失だったとは言えなかった。
船が一五艘まで減った時、ヌオラ共和国軍の兵士が赤い旗を振った。『作戦失敗、引き返せ』の合図だった。第二陣は悔しい思いとホッとした感情を抱きながら引き返した。
気が収まらないパヴェル議員は、上着を脱ぎ捨てる。そして、自らの最強真名術を放つ準備を始めた。
護衛兵は肩を竦め、議員が気が済むようにさせることにした。
パヴェル議員の手の先から、大きな火の玉がもの凄い勢いで撃ち出された。それは第二陣の兵士の頭上を越え、対岸のベネショフ領兵士がいる地点の直前の川に落ちて爆発した。
その爆風はベネショフ領兵士を薙ぎ倒した。
「敵の中にも、遠距離攻撃できる者がいたのか。負傷者を運び出せ、治癒の指輪を使って治療するんだ」
デニスは矢継ぎ早に指示を出すと、対岸のヌオラ共和国軍を睨んだ。
また、先ほどと同じ火の玉が飛んできた。デニスは素早く爆砕球を撃ち出した。川の中ほどで、二つの真名術がぶつかった。
凄まじい爆発音が響き渡り、パヴェル議員の攻撃が撃墜された。それを見たパヴェル議員は、目を飛び出さんばかりに驚く。
「私の奮進爆炎球が迎撃されただと……」
パヴェル議員がもう一度奮進爆炎球を対岸に向けて放った。その対岸ではデニスがパヴェル議員に向かって、爆噴砕球を放った。
今度は途中でぶつからなかった。迎撃に失敗したのだ。ベネショフ領兵士は、着弾地点と思われる場所から避難した。
だが、ヌオラ共和国軍の者たちは、ボーッと爆噴砕球が飛んでくるのを見ていた。途中で失速し川に落ちると思っていたのだ。
ところが、爆噴砕球は対岸まで届いた。運悪くパヴェル議員の近くであり、爆発の衝撃波で飛び散った土砂が議員を薙ぎ倒す。
「うぐっ。な、何だと!」
パヴェル議員は自分が倒れたことより、敵の真名術が対岸まで届いたことに驚いた。その額が切れ、血が流れ出している。
「議員が負傷した。手当てを頼む」
護衛兵が大声を上げた。
デニスは次々に爆噴砕球を撃ち込んだ。その攻撃で三〇名ほどの兵士が死傷者の名簿に名前を書き連ねた。
ヌオラ共和国軍は、デニスの攻撃に追われるように敗走した。それがチグレグ川の戦いの終幕だった。
その様子を川岸に戻ったランドルフと侯爵騎士団の面々が見ていた。
「凄まじいな……」
ランドルフが声を上げた。傍に控えていたローマンが肯定する。
「デニス殿が使われている真名術は、どのようなものなのでしょう」
「私も知りたいが、教えてくれるようなものではないだろう」
「そうでございますね」
侯爵騎士団もざわざわと騒いでいた。
「あんな真名術があったのか?」
「敵の真名術もこちら側に届いていたからな。そういう種類の真名術があるんだろ」
疲れたデニスはチグレグ川の流れに目を落とし、溜息を吐いた。今回はエゴール王子が警告してくれたので、防ぐことができた。その警告がなければ、ヌオラ共和国軍に橋頭堡を築かれ、侵攻を許してしまったかもしれない。
将来を考えると、ヌオラ共和国を監視する体制を組み立てる必要があるようだ。
その後、びっくりする情報がポルム領から届いた。
ヌオラ共和国軍の作戦はベネショフ領侵攻だけではなかったのだ。ポルム領の西側から二〇〇〇ほどのヌオラ共和国軍が侵攻し、ポルム領の多くの領民を捕虜としたらしい。初めから両面作戦だったのだ。
勝利の美酒を味わっていた侯爵騎士団は、罵り声を上げてポルム領へ向かった。だが、すでに遅く捕虜を引き連れたヌオラ共和国軍は、自国に戻っていた。
ゼルマン王国は、捕虜返還の交渉をヌオラ共和国と行った。かなり難しい交渉だったらしい。ヌオラ共和国の代表はパヴェル議員である。
ヌオラ共和国は侵攻したことを正当化するために、数年前の戦争が不当なものだったと主張した。その戦争は、ヌオラ共和国が農民に重税を課したことで、農民の一部がゼルマン王国へ逃げ込んできたことが原因で起きた。
交渉の当事者であるオスヴィン外務卿は、ゼルマン王国に非がなく、それが詭弁だと分かっていた。だが、ポルム領の領民を人質に取られているので、何らかの妥協をしなければならなかった。
結果として、捕虜は返還されたが、賠償金はなしになった。
ベネショフ領は、個別にヌオラ共和国の綿農家と交渉しなければならなくなったようだ。そのことで人件費がかかるようになったが、ヌオラ共和国中を歩き回る理由を得た。




