scene:170 チグレグ川の戦い
王国の首脳陣による話し合いが行われた数日後。
ヌオラ共和国が不穏な動きをしていることが、ベネショフ領のエグモントとデニスにも知らされた。
「デニス、ヌオラ共和国の件をどう思う?」
「あの国の国民は、不満が溜まっているようなんだ」
ヌオラ共和国は議員が死亡、または引退した時には選挙が行われる。出馬した候補は、様々な公約を掲げて選挙を戦っていた。
その公約の中でよく使われるのが、近隣諸国との問題解決である。
問題というのは、西のバイサル王国との領土問題、北の蛮族国家との小競り合い、そして東のゼルマン王国との賠償金問題である。
エゴール王子が名前を上げたパヴェル議員は、バイサル王国の領土問題とゼルマン王国の賠償金問題を解決すると言って議員に当選したようだ。
賠償金問題というのは、数年前に起きたヌオラ共和国との戦いでゼルマン王国が勝利し、二〇年間に渡って賠償金を支払うとヌオラ共和国が約束した件である。
ヌオラ共和国は賠償金を綿で物納しているのだが、財政的に苦しいようだ。
そのパヴェル議員が策動しているということは、バイサル王国かゼルマン王国へ手を出そうとしているのだろう。
「もう少し、ヌオラ共和国を調べないとダメだな」
「それは儂に任せろ」
エグモントはカルロスと相談しながら諜報員の育成を行っていた。デニスが一般兵士を育成しているので、それならば諜報員を、と考えたようだ。
「もし、ヌオラ共和国の鍛えられた五〇〇〇の兵士が、ベネショフ領に侵攻した場合、防げるか?」
ヌオラ共和国からゼルマン王国へ侵攻するには、チグレグ川を渡河しなければならない。橋は存在しないので、船で渡るか、泳ぐしかない。ヌオラ共和国側にそれほど船があるとは思えないので、万を超す兵士を渡河させることはできないだろう。
そうなると、精鋭部隊である五〇〇〇の兵士を渡河させて、ベネショフ領を襲撃させるという作戦が考えられる。但し、一度に渡河できるとは思えないので、ピストン輸送することになるだろう。
第一陣で渡河する敵兵力は不明である。ベネショフ領は全力で敵の第一陣を叩き、こちら側に足がかりを与えてはならない。
「ベネショフ領の兵士だけでは、難しいかも」
「どうしたらいいと思う?」
「王家に支援を頼むしかないな」
「それはちょっと待て」
「どうして?」
「まだ、ヌオラ共和国がベネショフ領に侵攻すると決まっていないからだ」
「しかし、手遅れになったら、ベネショフ領が……」
「そう言っても、ヌオラ共和国の狙いがベネショフ領ではなく、ポルム領だったら、どうする。それに侵攻が半年後だったら、どうだ?」
支援軍を長期間ベネショフ領に滞在させておくことは難しい。費用とラング神聖国への備えという問題があるからだ。
デニスは溜息を吐いて、支援軍の要請を諦めた。
エグモントはヌオラ共和国の動きを探らせた。そうすると、ヌオラ共和国が船大工を総動員して川船を建造している事実が判明した。
撃退されて沈没した時の危険を分散するためと運搬が容易になるように考えたらしく、建造している船は二〇人乗りほどの小さな船である。第一陣が六〇〇名なら三〇艘、一〇〇〇名なら五〇艘が必要になる。
川船を一艘でも多く建造すれば、作戦成功の確率は上がると考えているようだ。
デニスは川船の情報を通信モアダを使って、王政府に伝えた。最近の通信は、それぞれが持つ暗号表を使って、暗号文で交信している。
王政府から、これから協議するという返信が届いた。
「協議だって……戦争になるかもしれないというのに、悠長な」
デニスが愚痴をこぼした。だが、国王たちは協議だけを行っていたわけではなかった。ベネショフ領に常駐しているブルクハルトに、川船の建造と侵攻作戦について調査しろと命じていた。
ブルクハルトは迷石ラジオの指導員として、ベネショフ領に滞在している王政府の諜報員である。簡単な仕事だと気楽な生活を楽しんでいたのだが、一転して命がけの仕事を命令されてしまった。
ブルクハルトがヌオラ共和国に潜入した頃、デニスはチグレグ川周辺の地形を調べた。ヌオラ共和国の侵攻ルートを考えた時、大斜面の西にある地点で渡河するルートと河口付近を渡河するルートがあると分かった。
詳しく調べてみると河口付近を渡河するルートは、砂利で出来た小山がいくつも並んでおり、複雑な地形をしていた。しかも、進軍路の幅が狭く兵数の利点を活かせない地形だった。
「僕なら、こちらのルートは選ばないな」
そうなると、大斜面の西にある地点で川を渡って攻めてくる可能性が高い。
王政府から連絡があった。ヌオラ共和国が大斜面の西にある地点を渡河して攻め込んでくるという情報である。王政府の諜報員が入手した情報のようだ。それに加え、支援軍を派遣するとの通達だった。
「チッ、これから出発したんじゃ、間に合わない」
落胆したデニスだったが、クリュフ領から侯爵騎士団二〇〇〇が援軍に駆けつけてくれた。王政府から命令があったようだ。
「ランドルフ殿、感謝します」
「当然のことだ。ベネショフ領がヌオラ共和国の手に落ちれば、クリュフ領も一大事となる」
デニスは兵士を率いてチグレグ川に向かった。渡河地点の地形は、川岸まで森となっている。対岸からは見え難い場所だ。そのために一艘だけ、敵軍の偵察部隊がこちらに渡り、敵がいないか確認していた。
木立に隠れて川の対岸を窺うと、ずらりと川船が並んでいた。五〇艘くらいある。敵軍は整然と川船に乗り込んでいた。味方の軍勢は、ヌオラ共和国軍に発見されていないようだ。
同じように対岸を観察したランドルフは、眉間にシワを寄せた。
「デニス殿、どのような作戦で戦おうと考えているのだ?」
デニスは背後にいるベネショフ領の兵士と侯爵騎士団を見た。
「作戦に関連して確かめたいのですが、侯爵騎士団の中で、放出系真名術を使える者は、どれほどいますか?」
「六〇名ほどだ」
デニスは敵の第一陣を放出系真名術で攻撃したいと伝えた。
「なるほど、君の兵士たちの中で、放出系真名術を使えるのは何人ほどだ?」
デニスが率いる兵士は三〇〇名、全員が『雷撃』の真名を持ち、その中で八〇名が『爆裂』の真名も所有している。ベネショフ領の兵士は、一般的な軍人から見ると異常だった。
普通は放出系真名術を使えるようになるには、危険な魔物を倒さなければならない。彼らが危険な魔物を狩り、その真名を手に入れられたのは、初期段階で強力な防御力が得られる『装甲』の真名を入手できたからだった。
「うちの兵士は、全員が放出系真名術を使えます」
それを聞いたランドルフが、顔を強張らせた。
「それは凄いね。どうやって鍛えたのか、教えて欲しいよ」
ランドルフの様子から、本気で教えてくれるとは思っていないようだ。
デニスとランドルフは作戦の打ち合わせを行い、侯爵騎士団の六〇名を借り受けた。残りの侯爵騎士団は森の奥へと後退する。
デニスは敵軍の偵察部隊が対岸の味方に合図を送るのを待った。偵察部隊が白い旗を振った。
それが侵攻の合図だったようだ。
五〇艘の川船が一斉に進み始めた。川の中央を越えた時、ベネショフ領の兵士と侯爵騎士団の一部が一斉に放出系真名術を放った。
三六〇の雷撃球や爆裂球、それに爆炎球などが船に向かって飛翔した。
驚愕するヌオラ共和国の兵士たち。雷撃球の攻撃は、敵兵士に命中し麻痺させた。運の悪い兵士は川に落ち、そのまま沈む。
爆炎球は炎を撒き散らしながら、爆風で敵兵士を川に叩き落とした。意識のある兵士は泳ごうとするが、装備している武器と水を含んだ革鎧が邪魔をする。
爆裂球は敵兵士を引き裂き、川船を真っ赤な血で染め上げた。敵軍の第一陣は阿鼻叫喚の声を上げ、対岸で見守っていたヌオラ共和国の兵士たちは怒声を上げる。
ヌオラ共和国の指揮官は、敵を一掃しろと叫んでいる。
爆裂球と爆炎球の攻撃で、一〇艘ほどの川船が沈んだ。川船を漕いでいた男たちは、必死の形相で船を進め始めた。第一陣の川船の中から、放出系真名術で反撃を行う敵兵も現れた。
デニスたちは、敵の反撃を躱しながら放出系真名術を放ち続けた。だが、敵の一艘が着岸すると、デニスたちは後退した。そうなると、次々に川船が着岸する。
船から飛び降りた敵兵士は、武器を構えて森に飛び込んでいった。生き残るためには、接近戦に持ち込み王国の軍勢を排除して、対岸に足がかりを築かねばならなかったからだ。
デニスたちは巧みに後退しながら、敵兵を侯爵騎士団が待つ場所まで誘い込んだ。




