scene:15 狼犬
雅也は探偵事務所の奥の部屋で目を覚ました。
「朝か。何時だ」
目を擦りながら目覚まし時計に視線を向ける。九時を少し過ぎていた。気怠い朝。こういう日には、二度寝したいところだ。
着替えて事務所に出て、テレビの電源を入れる。コーヒーを淹れ、飲みながらテレビを眺める。ニュースでは、放火殺人事件を報道していた。
「目撃者がいるのか。炎を窓越しに投げ入れただって、どうやったんだ」
雅也が放火殺人事件に興味を持ったのは、自分が設計したビルが放火されたからである。
「おはようございます」
元気な声で、神原小雪が探偵事務所に入ってきた。先月からアルバイトとして働いている。冬彦がアルバイトでもいいから人手が欲しいと言っていたので雇った。
というのは建前で、本当は明晰夢と真名術について打ち明けた神原教授が、調査研究を続けたいと要望し娘の小雪をアルバイトとして送り込んだというのが真相である。
小雪は成績優秀で卒業論文を提出すれば、卒業できるという状況らしい。就活も順調で内定を数社からもらっている。今の時期は父親に協力する時間があるそうだ。
神原教授からは、雅也が見た明晰夢を記録しろと指示されているらしい。神原教授は、物凄い集中力を発揮して魔源素の正体を突き止めようとしていた。
「おはよう。今日もよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。早速ですが、父からの伝言です。魔源素を集める時に、二つに分けられるかどうか試してみて欲しいそうです」
雅也は溜息を吐いた。毎朝、神原教授から指示されるまま実験をしている。雅也自身のためになるものもあるのだが、どうしてと疑問を持つような指示もある。
「分かったけど、それが何の役に立つのか分かんないな」
「私にも分かりません」
「まあいいけど」
雅也は魔源素を集め、二つの魔源素ボールを集めようと試みた。一つに纏めるより手間取ったが、成功した。それを小雪に報告する。
「できたんだ。凄いですね。それを同時に発射できます?」
また難しいことを注文された。試してみたが、できなかった。魔源素操作が同時に二つまでというのは、絶対的な制限のようだ。
そんな実験が終わった頃、冬彦が出勤した。爽やかな笑顔で挨拶をして、席に座る。小雪がコーヒーを淹れて出すと香りを楽しんでから旨そうに飲んだ。
「今日の仕事は?」
冬彦が小雪に尋ねた。
「小栗様の愛犬ベティちゃんの捜索です」
冬彦が頷いた。最近、この探偵事務所に迷子ペットの捜索を頼む客が増えている。成功率が高いと口コミで広がったおかげである。
なぜ成功率が高くなったか──それは雅也の真名術にある。雅也が手に入れた真名の中にある『嗅覚』。それで犬並みの嗅覚を得て迷子ペットを探すようになったのだ。
最初に『嗅覚』を試してみた時は、事務所の中だった。コーヒーの香りや人間の出す臭気、キッチンの生ゴミ、車の排気ガス、様々なニオイの情報が脳に伝わり頭が痛くなった。慣れない大量の情報が伝わり脳がオーバフローを起こしたようだ。
慣れるに従い、大量のニオイを判別できるようになった。それを利用し迷子ペットのニオイを追跡し、捕獲するのだ。
「さあ、行こうか」
冬彦がペットを捕獲する支度をして、雅也に声をかけた。雅也と冬彦は現場に向かう。場所は小栗邸近くの工場跡地である。
ここは野良猫たちの溜まり場となっている場所だ。猫に餌を与える者がいるらしく、多くの野良猫が集まってくる。探しているベティは、犬なのに猫に混じって餌をもらっているらしい。ニオイを追跡して、そこまでは分かっていた。
ただベティが訪れる時間帯が分かっていない。張り込みをして捕まえるしかなかった。二人は工場の入り口が見える場所に潜み見張った。
「ベティは現れないな」
雅也が呟くと、冬彦が飽きたようでつまらないという顔をしている。
「そろそろ昼です。何か買ってきましょうか?」
「そうだな」
「何がいいです?」
「冬彦に任せる」
「じゃあ、アンパンと牛乳」
「はあっ……お前は、昭和の刑事か」
「何事も基本は大事だよ」
「アンパンと牛乳は、基本じゃねえ」
冬彦がニヤッと笑ってコンビニへ向かう。冬彦がコンビニで買ってきたのは、カツ丼だった。
昼からも張り込みを続け、二時頃に数匹の犬を引き連れた柴犬サイズの狼のような犬が現れた。
「先輩、ベティちゃんです」
雅也が狼犬の子供ではないかと見当を付けた犬の後ろに、可愛いチワワの姿がある。その首には特徴的な首輪があるので、目的のチワワだと分かった。
「何だ、あいつは。リア充犬か。とんでもない奴だ」
冬彦が目を怒らせている。
「とんでもないのは、お前だ。犬に嫉妬してどうする。冷静になってベティを捕獲する方法を考えろ」
「考える必要なんてないです。僕に任せてください」
冬彦がチワワのベティに向かって突撃した。ベティを捕まえようとした冬彦の前に、狼犬が立ち塞がった。
「おらっ、邪魔すんな」
狼犬を怒鳴ってどかそうとする冬彦。その狼犬が唸り声を上げながら突進。狼犬の頭が冬彦の腹を捉えた。
「へげぇ」
冬彦が弾き飛ばされる。狼犬は瞠目すべき瞬発力の持ち主のようだ。
雅也は倒れた冬彦に駆け寄った。
「おい、大丈夫か?」
「先輩……僕はもうダメです。後は頼みます。ガクッ」
「アホか。自分で『ガクッ』とか言うな」
本当に痛かったらしく涙目になっている冬彦だが、冗談が言えるくらいだから大丈夫だろう。派手に転んだことで、ダメージが吸収されたようだ。問題は狼犬だ。雅也は狼犬に目を向けた。
狼犬は戦闘態勢を取っていた。低い姿勢から地面を蹴って飛びかかってくる。そのスピードは尋常なものではなかった。宮坂師匠と組手をすることで反射神経が鍛えられていなかったならば、まともに食らっていたに違いない。
雅也は何とか反応し、前足を掴んで捻り背中から落とす。宮坂師匠から習っている少林寺拳法の応用である。
狼犬は地面を転がり立ち上がる。ダメージはあまりない。
「ウウウ……ワン」
一声吠えた狼犬が、また突撃してきた。それも少林寺拳法の技で転がす。
何度も転がしてやると、狼犬は負けを認めたようだ。腹を見せて寝転がった。雅也は近付いて「よしよし」と撫でてやる。
雅也は狼犬とベティを確保。その頃になって、やっと冬彦が起き上がった。
「冬彦、お前ももう一度宮坂流を習った方がいいんじゃないか」
「ハハハ……ちょっと油断しただけですよ」
ベティを用意してきたカゴに入れ、狼犬をどうするか迷った。首輪もしていないので野良犬の可能性もあるが、狼犬と呼ばれる犬種は人気があり、高価だと聞いた覚えがある。ちなみに他の犬は逃げたらしい。
雅也は冬彦と相談し狼犬を連れて帰ることにした。ベティは飼い主のところへ送り届け、報酬を振り込むよう頼んだ。
事務所に戻った二人は、狼犬を小雪に見せた。
「うわーっ、可愛い犬ですね」
小雪は気に入ったようで、狼犬を撫で回す。狼犬は気持ちよさそうに撫でられていた。
雅也は迷子ペットのデータベースで、狼犬の子供を探してみたが見付からなかった。
「この犬、どうしようか?」
冬彦が笑って、
「ペットショップに売っちゃえば、高く売れそうだ」
その言葉が分かったかのように、狼犬が冬彦を睨んで唸り声を上げた。
「冗談だよ。怒るな」
小雪が家で飼うと言い出した。以前から犬を飼いたかったらしい。ちなみに狼犬の名前は『コハク』と名付けられた。
後日、コハクは雅也に拾われたことで、特別な犬へと進化することになる。




