scene:152 雅也vs犯人
黒部の目の前で、京極審議官が倒れた。仰向けに倒れた京極審議官の胸から鮮血が流れ出し、通路の床を赤く染める。
その鮮烈な赤が黒部の脳裏に突き刺さった。非常事態に黒部は動揺している自分に気づいた。何をすればいいか、必死に考える。
京極審議官は死んではいなかった。片方の肺を傷つけたらしく呼吸が苦しそうだが、息はある。黒部はナイフを抜いた方がいいのかどうか迷った。だが、抜くと出血が増えそうな気がしたのでやめた。
黒部はあわあわとしている京極審議官の秘書に警察と救急車を呼ぶように指示した。そして、二人の護衛に先ほど擦れ違った男を探すように命じる。
「応急処置が必要か、いや、素人が何とかできる状態ではない」
この時、黒部が雅也に相談したら状況が変わったかもしれないが、黒部の頭の中から雅也のことは抜け落ちていた。
倒れている京極審議官に気づいた通行人が集まってきた。野次馬の何人かは、スマホで写真を撮りネットにアップしようとしている。
「嫌な世の中になったな」
黒部が呟いた。そこに護衛が戻ってきた。
「見失いました。ですが、警備員に出入り口を封鎖させたので、犯人は中に居るはずです」
「そうか、後は警察に任せるしかないな」
意外に早く救急車が到着した。この救急車は獅子王のために呼ばれた救急車のようだ。黒部は京極審議官を先に運ぶように指示した。
京極審議官の方が緊急性があると判断したのだ。それに獅子王は『頑強』の真名を持つ真名能力者である。たぶん大丈夫だろうと思った。
警察が到着し、捜査が始まった。予選が中断され、試合場にいた人々が警官から調べられた。
その中の一人である雅也は、京極審議官が刺されたと聞いて眉をひそめた。
「刺された京極審議官を知っておられるのですか?」
刑事が雅也に尋ねた。
「ええ、俺も真名能力者なんで面識はあります」
「ああ、被害者は特殊人材対策本部とかいう、クールドリーマーの管理をしている部署の偉い人でしたね」
管理されているとは思っていないが、雅也は肯定する。雅也が警官から解放された頃、黒部が雅也に気づいて近付いた。
「試合は延期になるようだ。迷惑かけて、すまない」
「黒部さんが謝る必要はないですよ。それより京極審議官の具合はどうなんです?」
厳しい顔の黒部が首を振った。
「予断を許さない状態だ」
「特殊人材対策本部はどうなるんですか? これで支障が出るとか」
「支障はでない。だが、京極審議官がいないことで、いろいろ騒ぎになることもあるだろう」
「どういう意味です?」
「京極の職権乱用は酷かったからね。押さえつけている重石がなくなったら、奴が犯した不正を告げ口する者も出てくるはずだ」
京極を審議官と呼ばなくなった黒部の顔を雅也が観察した。どうやら告げ口する一人が黒部のようだ。
「それで犯人は?」
「この建物の中にいる可能性が高い。出入り口の監視カメラが記録した映像を確認して、犯人らしい人物が外に出ていないと分かった」
刺された時の映像も残っていたが、犯人は帽子で顔を隠していたようだ。そして、トイレに着替えたらしい服が捨てられており、服装でも犯人を特定できない。
「この建物内に犯人がいるんですか。どうりで警官が多いと思った」
雅也は試合場に戻って、宮坂師範たちに説明した。
「予選は場所を変えて再開するようだぞ。斎藤に連絡があった」
雅也は斎藤に視線を向けた。少しガッカリしているようだ。だが、斎藤の活躍は観衆に注目され、その戦いの動画はネットにアップされた。格闘技に興味のある人々には顔を覚えられるほど有名になるだろう。
「ところで、獅子王の具合はどうなんだ?」
宮坂師範が雅也に訊いた。ちょっと獅子王の様子を見てきたのだ。
「大丈夫そうです。ただパイルドライバーが垂直に落ちたのではなく、斜めに落ちてマットに頭皮が擦り付けられ髪の毛がごっそり抜けたようだ。ハゲていたよ」
斎藤が苦笑いした。ちなみに雅也は、獅子王の怪我を治療することはしなかった。それほどの怪我ではないと判断したのだ。
ただちょっと興味があったのは、ハゲが『治癒』の真名で治るかどうかということだ。もし治ったなら、面白いことになると、くだらないことを雅也は考えた。
その時、なぜか黒部が追いかけてきた。
「聖谷さん、ちょっとお願いがあります」
「何?」
「『嗅覚』の真名を持っていましたよね。匂いで犯人が分かりませんか?」
「試してみないと分からないな」
「でしたら、お願いします」
雅也は承知し、二人の刑事と一緒に犯人探しを始めた。匂いの元はトイレに脱ぎ捨てられていた犯人の服である。『嗅覚』の真名を解放した雅也は、服に付いていた匂いを追い始めた。
トイレを出た犯人は会場に向かったらしい。匂いを追って会場に入った雅也たちは、試合場の南側に向かった。そこには中国人が集まってガヤガヤと騒いでいた。
その中にはちょっと浅黒い肌をした者がいた。
「あいつです」
刑事二人がそいつに近付き声をかけた時、その男アーヴィングが行動を起こした。
素早い動作で二人を殴りつける。強烈なパンチだった。間違いなく真名能力者である。
「お前が京極審議官を刺したのか?」
雅也がアーヴィングに尋ねた。
「……」
どうやら日本語を話せないようだ。アーヴィングは不機嫌な表情で雅也を睨む。
次の瞬間、アーヴィングが雅也に襲いかかった。蹴りやパンチを混じえた高速の連続攻撃を、雅也は冷静に防いだ。
突然始まった戦いに気づいた宮坂師範たちが近寄ってきた。
「そいつが犯人なのか?」
「そうです」
不利な状況になったと悟ったアーヴィングは逃げ出そうとした。だが、逃げ道を斎藤が塞ぐ。
アーヴィングは周囲に殺意を放った。雅也は最大限に警戒する。
次の瞬間、アーヴィングが爆炎球を放った。雅也は避けるわけにはいかない。背後には関係のない人々がいたからだ。
雅也は対抗するように雷撃球を放つ。爆炎球と雷撃球が衝突し、凄まじい音を響かせ爆発する。不安な顔で見守っていた人々が、悲鳴を上げて逃げ始めた。
会場には警察関係者と選手たちが残り、例外は宮坂師範のような度胸のある人間だけ。
その前で凄まじい戦いが繰り広げられた。アーヴィングは『剛力』と『敏速』を持っており、しかも戦いに熟練していた。
戦いの中で生きてきた凄みを感じさせる鋭い技を繰り出す。目潰し・首・金的など急所攻撃を連続で繰り出し、雅也を後退させる。
雅也は『迅雷斬撃』の徒手空拳版とも言える技に賭けることにした。間合いを取った後、『加速』の真名を使って縮地を使ったように移動する。
アーヴィングの右脇腹に左の鉤突きを放つ。突きはアーヴィングの肘でガードされた。次の瞬間、雅也から雷撃球が放たれる。近距離から雷撃球を避けられるはずもなく、アーヴィングの身体は麻痺した。
そして、止めの回し蹴りがアーヴィングの身体を宙に舞わせた。
戦いが終わった雅也が、選手たちを舐めるように見回す。戦いの興奮が、そんな行動を雅也に取らせたのだ。殺気が籠もった視線を受けた選手たちは、ビクッと反応し構えを取った。
選手たちからすれば、野生の虎に偶然遭遇したような気持ちになったらしい。
緊張を解くように、大きく息を吐きだした雅也は、
「失礼した」
そう謝って頭を下げた。だが、雅也を見つめる顔には、畏怖と尊敬の感情が浮かんでいた。
アーヴィングは警察に逮捕され、事件は収束した。だが、解決したわけではない。アーヴィングが誰に頼まれて京極審議官を刺したか、頑として白状しなかったからだ。
獅子王は病院で治療を受け回復した。だが、ハゲは残った。京極審議官は命だけは取り留めた。だが、肺と脊髄の一部が損傷しており、車椅子の生活を覚悟する必要があるらしい。
特殊人材対策本部への復帰は絶望的だという。しかも彼の悪事が次々に発覚し、刑事訴訟も覚悟しなければならないという状況のようだ。
再開された予選で、斎藤は四位だった。残念ながら決勝大会へは行けないが、ネットテレビで東アジア予選の特集をしたので、斎藤の知名度は上がった。
ちなみに優勝したのはレスラーのダーガンだった。




