scene:127 音楽祭の奇跡
木内佳苗は悲しみを抱えたまま音楽祭の会場へと向かっていた。数日前、二年間付き合い結婚を約束していた彼と別れたのだ。
切っ掛けは彼の態度だった。佳苗と会っている時に楽しそうではないのだ。原因はすぐに分かった。佳苗の親友と楽しそうに歩いている姿を目撃したのである。
彼を問い詰めると白状した。そして、別れ話を切り出され逆上して大喧嘩して別れた。珍しくもない話かもしれないが、佳苗にとっては人生最大の悲劇だった。
「私、何のために生きているんだろう?」
佳苗は自殺したいほど絶望していた。それなのに音楽祭へ来たのは、出演するアーティストのファンだったこともあるが、何か生きる希望を得たいと思ったからである。
音楽祭のチケットは、彼と一緒に来る予定だったものだ。無理して高いチケットを手に入れたのだが、そのチケットを見ると悲しくなる。
破り捨てようかとも思ったが、高いチケットだっただけにためらう気持ちが起きた。
会場に入った佳苗は、席を探して座る。隣は場違いな感じの紳士たちだった。貫禄のある紳士と頭の良さそうな学者風の人物だ。その会話が聞こえてきた。
「本日はご招待ありがとうございます」
「いえ、恩田社長にはお世話になりましたから、今回はお礼の気持ちもあって招待させて頂きました」
佳苗は恩田社長と呼ばれた人物に見覚えがあるような気がしたが思い出せない。社長と呼ばれた人物が話し始めた。
「これでも昔は、ミュージシャンになろうかと夢見た頃もあったんですよ」
この発言に神原と呼ばれていた人物が驚いたようだ。
「それは知りませんでした。貴重な時間を興味のないものに使わせては失礼かと思ったのですが、娘が聞きに行くべきだと言うのですよ」
「小雪さん、それはどうしてです?」
恩田社長が小雪に尋ねた。
「最後に歌うことになっている人が、素晴らしいんです。彼の歌が聞けるだけで、来る価値があると思うんです」
「ハハハ……なるほど、最後に歌うアーティスト『Shizuku』のファンなんですな。しかし、全く知らないアーティストなんですが、新人なんですか?」
「ええ、そうです。でも、恩田社長も会ったことのある人です」
それを聞いた神原社長が娘を咎めた。
「ダメじゃないか。それは秘密だ」
「ごめんなさい。忘れてください」
恩田社長は首を傾げた。彼も有名人なのでアーティストの知り合いも何人かいる。だが、『Shizuku』と呼ばれる歌手には覚えがなかった。
話が聞こえた佳苗は、なんて失礼な人たちだろうと思った。佳苗がファンになった男性歌手は中盤に歌う予定になっている。その彼を差し置いて新人など……。
音楽祭が始まり有名なアーティストたちがヒット曲を歌い始める。佳苗は少し絶望感が薄まったのを感じた。横をチラリと見ると学者風の人物が寝ていた。遠くからは目を瞑って聞いているように見えるが、佳苗は寝息を聞いた。
「お父さんは疲れているようですな」
恩田社長が小雪に話しかけた。
「すみません。父は音楽にあまり興味がないんです。起こします」
それを聞いて、恩田社長は起こさなくていいと言う。
だったら来るなよ、と佳苗は思う。しかも一番良い席で寝ているとは言語道断だ。
「そうでしたか。しかし、疲れているのも事実でしょう。救難翔空艇の件で、アメリカが無茶を言い出したそうではないですか」
小雪が溜息を吐いた。
「そうなんです。五〇〇〇機を発注する用意があるから、アメリカに製造工場を建てて欲しい、というのですから驚きました」
この五〇〇〇機は、それだけの数を製造すれば終わりということではない。その機体のメンテナンスや交換部品の問題もあるので、アメリカは国内で製造して欲しいと言っているのだ。
アメリカとしては、技術を盗みたいとかいう話ではなく、雇用を増やしたいという経済的な問題で工場建設を打診してきたようだ。アメリカならば、特許を確実に取得すれば大丈夫だろうとマナテクノは判断した。それに動真力エンジンだけは、日本国内で作ることが前提である。
たぶん全部で数兆円規模のプロジェクトになるだろう。動真力機関関係の産業は、一〇年後に一〇兆円規模の産業になるだろうという予想がされていたが、この調子では前倒しになりそうだ。
昨日はアメリカ工場の件で遅くまでアメリカ政府担当者と会議が行われており、神原社長は疲れていた。
同じ頃、舞台の袖と呼ばれる場所で、この音楽祭を企画した新星芸能事務所の瀬戸田社長と音楽プロデューサーの中西が話していた。
「社長、客の反応もいいようですね」
「ええ。でも、もう一つ盛り上がりに欠けている感じがするのよ。成功と言えるけど、大成功じゃないわ」
「そうですか。今どきのファンは、こんなものですよ。それにチケットは、早い段階で完売したそうじゃないですか」
瀬戸田社長が抱えるアーティストたちは、ヒット曲を出している。ただ音楽界の歴史に残るようなものではなく、ちょっと流行り翌年になれば消えるという程度のものだ。
「ところで、今回の音楽祭は隠し玉があると聞いてますよ。『Shizuku』という歌手に力を入れていると」
「ええ、お客さんにとっては、忘れられない日になると思うわ」
中西は信用していないようだ。
「あまり入れ込みすぎると、火傷しますよ」
瀬戸田社長が溜息を吐いた。
「火傷するほど、力を入れさせて欲しいのだけど、彼が音楽に専念してくれないの」
「えっ、バイトか副業でもしているんですか?」
「いえ、彼にとって、この音楽祭が副業みたいなものなのよ」
「そんな奴は、見限った方がいい」
「あなたは彼の歌を聞いたことがないから、そういうけど……日本の音楽界には、彼が必要なのよ」
音楽祭のプログラムは進み終盤となった。佳苗はファンの歌手が歌う曲を聞いたが、以前ほど楽しめなかった。ついに最後のアーティストとなり、憂鬱な表情を浮かべる。
「お父さん、起きて。彼が歌う番よ」
神原社長が目を開け、アクビをする。
「いい歌だった。つい目を閉じて聞き入ってしまった」
佳苗は絶対に嘘だと思った。
舞台では大掛かりな準備が始まっている。
「何これ? オーケストラ?」
観客の中から声が上がった。
「最後になって、これはないだろ。それに歌うのは新人だろ。何考えてるんだ」
観客から戸惑っている声が上がる。
佳苗が横を見ると、寝ていた老人が笑顔で恩田社長と話している。だいぶ次のアーティストに期待しているらしい。佳苗は呟いた。
「名前も知られていないような新人に期待できるはずないのに」
用意が終わり、オーケストラのメンバーが現れ席に座る。そして、指揮者と歌い手が現れた。見たこともない男だ。髭面でサングラスをかけている。よく顔が見えないが、テレビで見たことのあるアーティストでないことは確かだ。
司会進行役がアーティストの紹介とオーケストラが某大学の学生であることを説明する。一曲目は一九九〇年代の半ばにミリオンセラーとなった曲だった。佳苗も好きな女性歌手の曲である。
そのアーティストは顎が完全に隠れるほどの髭と長髪にサングラス、服装はチノパンとジャケットで逞しい体格をしているのが分かる。スタンドマイクの後ろに立ち、目を瞑り曲が始まるのを待っていた。
観客の中にはガヤガヤと騒いでいる者もいた。
バイオリンの調べが会場に流れ始め、Shizukuの声が響く。それは強い意志を持つ者しか出せない声だった。心に響く声であり、人の口を閉じさせ心を惹き寄せる。
佳苗は一瞬で心を捕らえられた。自分の両腕に鳥肌が立つのが分かる。それほど衝撃的な歌だ。Shizukuの声が途絶え、オーケストラが奏でる楽器の音だけが響く。学生たちは必死の表情で演奏している。少しでも手を抜けば、Shizukuの歌に圧倒されると分かっているのだ。
歌詞はある女性が直向きに一人の男性を愛する気持ちを語る。だが、甘ったるいふわふわとした愛情ではなく、そこには強い意志を持った女性の姿があった。
本来は女性が歌う曲なのだが、彼の歌には男女の違いを感じさせないだけの説得力と感情が込められていた。いつしか佳苗の頬を涙が伝わり落ちていた。
彼の歌は衝撃だった。身体が痺れたように動かない。それは佳苗だけでなく、他の観客もそうだったようだ。歌い終わり、オーケストラの音も消えたのに、誰も微動だにせず曲の余韻に浸っている。
Shizukuが司会進行役に二曲目の紹介をするように合図を送った。ハッとした司会進行役が曲名を伝える。そうすると、期待するような反応が観客から上がる。
二〇〇七年に男性デュオが歌い大ヒットした曲だった。年末のレコード大賞では金賞に選ばれた記念すべき曲である。
佳苗の好きな曲だった。特に歌詞の中で『きっと きっと きっと』とシャウトする部分の前後が気に入っている。
Shizukuの歌が始まった。力強い感情の込もった声が聞いている者の心を揺さぶり、その全員を魅了する。彼の声には心まで震わせる響きと安定感があった。
この歌に感動して涙を流している者も多い。佳苗もその一人だ。心が弱っており、涙を堪えることができなかった。
歌が終わった時、すすり泣く声と歌い手を称賛する声が湧き起こる。
「素晴らしい歌だ。本当に聞けて良かったよ。神原社長、招待してくれてありがとう」
興奮した表情で恩田社長が礼を言った。
司会進行役が最後の曲を知らせた。代表的な日本アニメの主題歌である。これは日本の古代風景を連想させる世界観と人間と獣神の戦いを描いたアニメである。
Shizukuが歌うこの曲は、ただただ神秘的だった。目を瞑って聞いていると、太古の日本の姿が脳裏に浮かび、心が浄化されるような気分になる。
恩田社長は修験者のような厳粛な表情を浮かべて聞いていた。神原社長も考えるような表情を浮かべ聞いている。こちらは音楽が精神に与える影響について考えているのかもしれない。
歌い終わった時、先程より長い余韻を楽しんでいる人々が多いようだ。その顔には幸せそうな表情が浮かんでいる。そして、余韻を楽しんだ人々が立ち上がり拍手を始めた。
指揮者がShizukuと握手をして、一緒にお辞儀をする。オーケストラの学生たちも満足そうな顔をして頭を下げた。
観客はアンコールを求めたが、それは叶わなかった。学生たちが力尽きてしまったのだ。
舞台の袖で聞いていた音楽プロデューサーの中西は、興奮して瀬戸田社長に話しかけた。
「やっと、社長の言っていた意味が分かりましたよ。確かに彼は日本の音楽界に必要です。でも、なぜ音楽に専念していないのです。理解できませんよ」
「私も理解できないわ。でも、彼には本業があるのよ」
佳苗は救われたと感じた。絶望していた人生に光が差したのだ。彼の歌をまた聞けるように生きていかなければ、と思った。




