scene:118 オーケストラ
テーブルからこぼれ落ちた契約書を、恩田社長が拾い上げた。そして、自分が持っているペンを見て眉をひそめる。
「聖谷さん、これはどういうことなのです?」
「ガオは真名能力者です。催眠術のようなものを我々にかけて契約書にサインをさせようとしたのです」
「そ、そんな馬鹿な」
突然、ガオが立ち上がり恩田社長が持っている契約書を奪い取ろうとした。企てが失敗した以上、契約書は不正の証拠になると考えたのかもしれない。
雅也はガオの手を止めた。それに怒ったガオは、雅也の胸に向かって拳を突き出そうとする。チャオ副部長が中国語で何か叫んだ。ガオを止めようとしたらしい。
だが、拳は雅也の胸に叩き込まれた。雅也の身体が壁にまで飛び衝突する。
「痛え……貴様、正気か?」
こんな場所で暴力を振るうなど正気の沙汰でない。雅也は『装甲』と『頑強』の真名を解放する。
防御用の真名を解放する前に、少なくないダメージを負ってしまった。ガオは自分がやってしまったことに驚いたような顔をしている。衝動的に手を出してしまったらしい。
ガオの顔が醜く歪む。彼の心の中で何かのスイッチが入ったようだ。叫んだガオは雅也に向かって蹴りを放った。その蹴りを片手で受け流した雅也は、中段突きで反撃する。
その反撃はガオの腕で止められた。中国武術を習得しているらしい。高速の蹴りが雅也の胴に叩き込まれる。雅也は踏ん張って耐えた。今回は装甲膜を展開していたのでダメージはない。
雅也が前蹴りで反撃。ガオを反対の壁まで蹴り飛ばす。ガオの背中が壁にドガッと叩き付けられた。その衝撃は凄まじく、壁の一部が剥がれ床に落ちた。普通なら戦闘不能になるほどの衝撃があったはずだ。
だが、ガオは平気な顔で反撃を開始した。『頑強』の真名を持っているのだろう。
「警察、警察を呼ぶぞ!」
外務省の松下課長が叫んだ。実際にスマホを取り出して警察に通報した。
チャオ副部長は苦り切った顔をしている。そして、会議室から出ていこうとした。それを恩田社長が妨害する。
「あなたには最後まで残って、説明してもらいますよ」
恩田社長たちは会議室から避難した。雅也とガオの戦いは普通の人間が行う格闘戦の範囲を越えており、とばっちりで怪我をする恐れがあった。
ガオは興奮した表情で真名術を使おうとしていた。雅也は用心して顔の前で両腕をクロスさせる。
「ツアォ!」
そう叫んだガオから火炎球が飛んできた。
雅也はギリギリで避けた。火炎球は横をすり抜け窓に命中し爆発。その爆風で雅也は体勢を崩した。ガオが突っ込み、雅也の腹にボディブローを叩き込む。
この攻撃は装甲膜が弾いてくれた。雅也はニヤリと笑い、お返しのボディブローをガオの脇腹に叩き込む。ガオが腹を押さえて呻き声を上げる。
それからは一方的な戦いとなった。雅也のパンチが相手の顔とボディに命中し床に倒れた。最後は雷撃球攻撃で気を失わせる。
静かになったので、恩田社長が会議室を覗いた。ガオが電源コードで縛られ、床の上に倒れている。
「聖谷さん、大丈夫ですか?」
「ええ、代わりに会議室が酷いことになりました」
恩田社長は破壊された窓を見た。ガラスは吹き飛び、アルミサッシがネジ曲がっている。
「あなたが無事なら、問題ありません」
その頃になって、警官が来た。警官たちはガオが真名能力者だと聞くと、特別製の拘束衣を取り寄せた。真名能力者の存在が知れ渡った後に開発されたもので、真名術を使っても破れないものらしい。
その後、恩田社長や雅也などの証言を元に、ガオとチャオ副部長が取り調べられ、ガオの持つ真名が判明した。『魅了』という真名を持っており、見つめた相手を催眠状態にする効果があるという。
政府は苦慮した。チャオ副部長が中国共産党の幹部であり、中国が彼を拘束していることに抗議したからだ。政府は上海で拘束された川菱重工の社員二人を解放することを条件にチャオ副部長を釈放する取引をした。
政府が重視したのは、ガオの扱いである。彼は日本で裁判を受けることに決まった。だが、今回の件が初めてだとは思えなかった政府は、中国以外の先進国に情報を流した。
すると、川菱重工と同じようなケースで契約したと思われる案件が世界各国から報告された。それらの案件では、チャオ副部長は関係していなかったようだが、各国首脳は重大視した。
各国は真名能力者の中で危険な真名を持つ人物をブラックリストに載せ、入国を禁止することにしたようだ。そのために各国との連絡網を構築し、インターポールのような組織を作ろうという話が出た。
ガオに関する問題を政府に任せた雅也は、中国のタリダル機械工業について調べた。ところが、その会社が幻のように消えていた。やはり、川菱重工とマナテクノを罠にかけるためだけに作り出された会社だったらしい。
「はああ、これで中国観光旅行は一生できなくなったな」
雅也は居酒屋で冬彦に愚痴った。
「先輩、居酒屋に呼び出して、いきなり愚痴らないでくださいよ」
「マナテクノが、一〇〇年に一度あるかないかの画期的な発明をしたっていうのに、邪魔しようとする連中が多すぎる」
今回の中国だけでなく、様々な国がマナテクノにサイバー攻撃を仕掛けている。動真力機関の技術情報を盗み取ろうとしているのだ。
「でも、事業は順調なんですよね」
雅也は頷いた。
「ヴォルテクエンジンの販売も順調だし、救難翔空艇も量産機の設計が終わり製造ラインの構築が始まっている。これが発売されたら、数千億円単位の商売になると中園専務は言っている」
「凄いな。マナテクノの株が上場されたら、先輩の持ち株は数千億円になるんじゃないですか?」
「そうだな。そのくらいにはなると聞いている。だけど、俺が独り占めにしているわけじゃないぞ。社員の持株制度も取り入れて、会社の利益を分配しようとしている」
優秀な技術者を会社に繋ぎとめるためには、利益配分も必要だと取締役会議で決定していた。
「僕もマナテクノに入りたくなった」
「ダメだな。マナテクノで不足しているのは理数系の人間なんだ」
冬彦が本気でマナテクノに入りたいと思っているわけではないと分かっていた。探偵事務所の経営は順調で、経営者として成功しているのだ。
「そういえば、音楽祭の件はどうなったんです?」
「よく分からんが、俺が三曲歌うことになった」
「あれっ、一曲じゃなかったんですか?」
「最初はそうだったんだが、なぜか三曲歌えと言うんだ。それも最後にだぞ」
「へえー、凄いじゃないですか。トリといったらベテラン中のベテランが歌うものなんでしょ」
「そうなんだ。無名の歌い手をトリに持ってくるなんて、何を考えているのやら」
冬彦は笑って告げた。
「それだけ、先輩が期待されているということなんじゃないですか」
「変に期待されても困るんだが……ところで持ってきてくれたか?」
「持ってきましたよ。探偵の変装グッズ」
冬彦が持ってきたのは、カツラと付け髭である。雅也は冬彦から変装グッズの使い方を教えてもらった。
雅也たちが居酒屋で呑んだ翌日、関東地方のある音楽大学では、新星芸能事務所が企画する音楽祭から出演依頼が来たと聞いた若き音楽家たちが興奮していた。
この音楽大学の学生オーケストラが音楽祭で伴奏をすることになり、今日は初めての合わせ稽古である。
「なあ、新星芸能事務所のタレントというと、黒澤美来かな?」
バイオリン奏者である男子学生が質問した。黒澤美来は中堅の女性歌手で、アイドルグループ坂東28の先輩に当たるタレントである。
「私は市川流月がいいな」
チェロ奏者の女子学生が希望を言った。そこに指揮者である有坂が来た。指揮科の客員教授でありプロオーケストラの指揮をしたこともある音楽家である。
「みんなぁ、緊張するなよ。私たちが伴奏する相手は、無名の新人らしい」
「そうなんですか。ガッカリだな」
「俺は坂東28がよかった」
無名の新人と聞いて、学生たちのテンションが下がった。
「こんにちは。新星芸能事務所の富樫です。今日はよろしくお願いします」
富樫が雅也を連れて現れた。雅也は金髪ロン毛のカツラと付け髭を付けた上に、サングラスという格好である。
「こちらが、皆さんに伴奏してもらう歌手の『Shizuku』です」
雅也はペコリと頭を下げ挨拶した。雅也を見た学生たちは、ザワザワと騒いだ。全然見たことがないと言っている学生がほとんどである。
有坂が代表して挨拶し質問した。
「大丈夫なんですか? オーケストラ伴奏だと迫力負けしないというか、それに合わせた歌い方が必要になりますよ」
「そこは、皆さんの方で合わせてもらえると嬉しいのですが」
有坂は苦笑した。引き受けない方が良かったかと後悔する。新人歌手にオーケストラ伴奏というのは、大げさすぎると思ったのだ。
合わせ稽古が始まり、最初の曲のイントロを楽器が奏で始める。この曲は元々が女性が歌っていたもので、一九九〇年代の半ばにミリオンセラーとなった曲である。冒頭で恋の始まりが昔のことだったという詞があり、切ない失恋の歌なのだ、と雅也は思っている。
ゆっくりとしたリズムをバイオリンが奏で始め、雅也が歌い出す。その遠くまで響き渡るような声に、学生たちはびっくりした。そして、声に独特の艶があるのに気づくと惹き込まれそうになる。
学生たちの中には、雅也の声がネット上で評判になっている謎の歌手の声に似ていると気づく者もいた。指揮をしている有坂は学生たちの演奏が、歌い手の音楽に圧倒されているのに気づいて愕然とする。
この日、学生たちは自分たちの未熟さを知ると同時に、世の中には化け物がいることを知った。




