scene:117 魔眼
上海で行われる発表会に出席することへの危惧は、雅也にも理解できた。実際に中国政府系機関の招聘により訪中した大学教授が、スパイ容疑で逮捕される事件が起きており、日本人には想像もつかないほどの危険が存在するのが中国なのだ。
「やはり危険だな。社員の誰かを上海に行かせることはできない。だが、中国で開発された動真力機関というのも気になる」
中園専務が政府に相談することを提案した。
「そうだな。政府もマナテクノをバックアップしてくれるようだから、相談してみよう」
神原社長も賛成し、政府に相談することになった。
神原社長が自衛隊との窓口になっている防衛装備庁に相談した。その結果、拘束される恐れがあるという回答が帰ってきた。マナテクノは上海に行かないことを決定する。
しかし、雅也たちは一つ見落としていたことがあった。タリダル機械工業からの招待状は、マナテクノだけに送られたわけではなかったのだ。
川菱重工にも送られており、危険など考えもしなかった川菱重工は技術者二人を上海に出張させた。そして、デモンストレーションで見せられたタリダル機械工業の動真力機関が、マナテクノが開発したヴォルテクエンジンに酷似していると本社に報告した後、行方不明となった。
その数日後、川菱重工は上海で社員が拘束されたことをマスコミに発表した。世間に公表することで、中国に対して政府から抗議してもらうことにしたようだ。
そのことを知った雅也と神原社長は、川菱重工の恩田社長のところへ向かった。社長室で話を始めた雅也たちは、マナテクノにもタリダル機械工業からの招待状が来ていたことを話す。
「そうだったのですか。やはり、中国の狙いは動真力機関の技術ですな」
「中国から、何かメッセージがありましたか?」
「川菱スカイV1の製造工場を中国に作らないかという話が来ました」
「えっ」
神原社長が驚いて声を上げた。あまりにも露骨な中国のやり口に雅也も驚いた。中国に工場を作らせ、その技術を手に入れようとしているのだ。
「川菱重工さんは、どうされるのですか?」
人質を取られている川菱重工のことを神原社長が心配した。
恩田社長は不敵に笑った。
「うちの社員を返さなければ、中国に展開している事業のすべてを他国に移すと、明日言ってやります」
恩田社長は剛毅な性格のようだ。そして、先見の明がある。既存の事業を犠牲にしても、新しい事業を守ろうとしているのだ。問題は拘束された社員だった。
「明日、中国政府と話し合いがあるのですか?」
雅也が尋ねると、恩田社長が頷いた。
「ええ、外務省も交えて交渉することになっています」
雅也は溜息を吐いた。外務省は押されると譲歩するような少し頼りない面がある。
「恩田社長、私も出席することはできませんか?」
「聖谷取締役がですか。なぜ?」
「中国の狙いは、我社の技術です。中国側の思惑を知っておきたいのです」
恩田社長は少し考えてから、
「いいでしょう。但し、交渉は我々に任せてください」
「もちろんです」
翌日、雅也が川菱重工の本社に行くと、恩田社長が出迎えてくれた。二人で会議室の方へ向かう。その後ろには若い社員が二人並んでいる。その二人が小声で話していた。
「社長が出迎えるなんて、大臣クラスの扱いじゃないか。どうなってるんだ?」
「彼はマナテクノの筆頭株主で取締役だ。将来は経団連会長も狙えるという噂だぞ」
それを耳にして、雅也は苦笑した。
「もう、外務省の方は来られているのですか?」
「まだです。そろそろなのですが」
外務省から、中国を担当する松下課長が来た。その直後に中国外交部のチャオ・ハオラン副部長と三〇代の男性が現れる。名前の分からない男性は、ガオ・ユーハンというチャオ副部長の部下らしい。
チャオ副部長は日本語が堪能なため、交渉役として選ばれたようだ。挨拶を終えた副部長が用件を切り出した。
「恩田社長、我々が提案した工場建設はどうでしょう?」
「待って頂きたい。我社にも予定があります。まずは、国内工場を拡充してから需要が増えたなら国外へということを考えています」
「そう結論を急ぐこともないでしょう。我が国に川菱スカイV1の工場を建ててもらえるなら、工場用地を無料で用意するだけでなく補助金も出します」
大盤振る舞いと言っていいほどの好条件ではあるが、その代わりに技術を盗まれコピー品が出回ることになる。中核部品を日本国内で作り、中国工場では組み立てだけにするという方法もあるが、それでも何らかの技術は流出する。
成熟した産業なら逸早く海外に展開して利益を得るという方法もいいのだが、動真力機関を利用した産業は始まったばかりの分野であり、独占的利益を得られるのだ。
そのチャンスを簡単に手放すのは、企業戦略として愚策である。
「ありがたい話ですが、お断りします。まだ、海外に工場を建てるほどの体制が整っていないのです」
恩田社長が断ると、チャオ副部長が身を乗り出した。
「いいのですか。そんなことを言って」
川菱重工の社員二人が上海で拘束されていることを仄めかし、きつい視線で恩田社長を睨んだ。
そこに外務省の松下課長が口を挟む。
「日本政府としては、速やかに二人を解放し帰国させるように要請します」
「それは現状では不可能です。彼らは機密文書を盗んだ容疑がかかっています」
恩田社長が吠えるように言う。
「嘘だ。二人はタリダル機械工業のデモンストレーションを見に行っただけだ」
「いいえ、彼らはタリダル機械工業が開発した動真力機関の機密を盗んだのです。証拠もあります」
その証拠も捏造したものだと分かっていたが、それを捏造だと証明することは難しいだろう。
恩田社長が口をへの字に曲げ、チャオ副部長を睨んでいる。
「我社の社員を返さないのなら、我々にも覚悟があるぞ」
チャオ副部長が薄笑いを浮かべている。
「ほう、どのような覚悟です?」
「二人を返してもらえないのなら、我社が中国に建設した工場を他の国に移す」
それを聞いたチャオ副部長が恩田社長に視線を向けた。二人が喧嘩腰で睨み合う。雅也はこれだけの気骨がある企業家を初めて見た。川菱重工はパートナー企業として大切にした方がいいだろう。
「二人とも感情的にならずに、冷静に」
松下課長が二人を宥める。
「しかし、我社の社員を理由もなく拘束しているのですぞ」
「お気持ちは分かります。ですが、ここは冷静に。そして、チャオ副部長。日本政府として申し上げます。一刻も早く二人を帰国させてください」
それから交渉が続いたが、一向に進展がなかった。焦れたチャオ副部長は、部下のガオに合図を送った。ガオは一度目を閉じてから、ゆっくりと目を見開く。
ガオの目が禍々しいものに変わっていた。怪しい光が宿り人の心を突き刺す。その目を見た雅也は、自分の精神が侵されているのを感じた。
雅也はこの感覚に覚えがあった。影の森迷宮でドライアドから受けた精神攻撃である。チャオ副部長が邪悪な笑みを浮かべている。
「さて、契約書にサインをしてもらおう」
チャオ副部長が用意してきたらしい契約書を取り出した。恩田社長に契約書とペンを渡す。
「その契約書にサインをするのだ」
恩田社長が感情をなくして人形のように頷いた。
操り人形のようにペンを取った恩田社長が、契約書にサインをしようとする。その時、雅也が声を上げた。
「やめろ」
『言霊』の真名術を使った雅也の声が会議室に木霊する。その瞬間、恩田社長の動きが止まった。
ガオが驚いた顔をして、雅也に目を向ける。それは魔眼と呼ぶべきものだった。
「真名術をやめろ」
ガオが歯を食いしばり、魔眼の視線を雅也に向け続ける。
雅也は『怪力』の真名術を使った状態で、拳をテーブルに打ち下ろした。轟音が響き渡り、テーブルが真っ二つに割れる。
雅也以外の全員がビクッと身体を震わせる。そして、魔眼の効力が切れた恩田社長が、自分の手に持つペンを不思議そうに見た。
チャオ副部長が顔を青褪めさせ、中国語で何か叫んだ。
「日本語じゃないと分からないぞ」
「貴様は何者だ?」
「恩田社長が紹介しただろ。俺はマナテクノの聖谷だ。そして、真名能力者でもある」
ガオが悔しそうに唇を噛んだ。




